EX:扉の先


 ただ閉まっている扉を開ける。ドアノブを握る手が震えた。ゆっくりと回すと中ではまっていただけのカギが引っ込む音がした。息を吐き出す。押し込んだ瞬間、開いたすき間からあの浮腫んで汗ばんだ手がぬっと伸びてくるような錯覚に見舞われて心が凍りつく。

 あの日からただの扉が、突然開くドアが何よりも怖くなってしまった。




 新しい年を迎えて、もうすぐ一月ひとつき、仕事にはまだ復帰できていない。

 あるときはリベルタの宿舎で、またあるときはジルバさんのお屋敷で寝起きをさせてもらった。ユリウスさんもレンさんも気にしなくていいと言っているけど、レンさんのお腹はどんどんと大きくなっている。「元気に動くんだ」と触らせてくれたお腹は温かくてまだ小さな命が力強くこの中で生きている様を感じさせてくれた。


 そろそろレンさんも産み月に入る準備をしなきゃいけない。だから仕事だって復帰して、ひとりでこの医務室でやってくる患者を待っている患者を診なくてはならない。





「本当に再来月から復帰でいいのか?」

 レンさんも、ユリウスさんもジルバさんにだってそう問われた。でもそうしないとこの医務室は回らない。レグルス港と帝都の掛け持ちなんていくらユリウスさんでもずっとは無理だ。ましてや春には小さな家族が増える。産まれたばかりの子の世話の大変さは弟と妹の赤ちゃん時代に身に沁みるほど知っていた。


「大丈夫です。往診は、ジルバさんが付き添ってくれるし……」


「そうか。まぁでも無理しなくていいからね」


 ふんわりと抱き締めてくれたレンさんはお母さんに似てきた。嬉しくて溢れ出そうになる涙を堪えながら笑った。


 1日の中で、ひとりだけになる瞬間は必ずある。ひとりで廊下を歩くのはもう真ん中しか歩けなくなった。突然ドアが開いて何かに引き込まれそうになる気がして、端なんてとても歩けない。前から誰かが来ると壁があるところで端に寄って通りすぎるのを待つ。後ろから声をかけられるのも怖い。触れられるのなんて震えて泣き出してしまうくらい怖かった。


 医務室だって、怖かった。たった2ヶ月ほどのことなのに、嫌ななにかが染み付いてそれが取れなくなってしまったようだった。

 それはあの髪飾りだって、同じだった。あの日からつけていない。触れられたそれが汚されたようで折角貰ったものなのに、もうつけられなくなってしまった。


 あの耳朶じだに触れた感触が、真っ黒な目が全てを台無しにした。もう見るだけで嫌な気持ちになる。

 あの瞬間、私がちゃんとやめて、と強く言っていればこんなことにはならなかった。いや、私が実習を受け入れなければ、私が医者でなければ、私が、星の子でなければ、私が――女じゃなかったら、きっとこんなことにはならなかった。

 こんなこと考えたってもう意味がないのに、また考えてしまう。


 ジルバさんは心配して、忙しいはずなのに私との時間を大切にしてくれた。でも、こんな私をまだ好きなんだろうかと、不安が襲う。愛しい人すら怖がるこんな私を好きでいてくれるんだろうか。彼の前では笑顔でいたいのに、それが上手くできない。ちゃんと笑えてるだろうかと彼の顔を見る。そこから読み取れるものは何もなくて、もっと不安になった。

 本当はもう嫌がられてるんじゃないか――。


 自分で想像して、悲しくて腹立たしくて気持ち悪くて、あの髪留めを握り締めた拳を振り上げた。

 私が浮かれて着飾ったからだ。なんでそれくらいでこんな目に遭わなければならない。男ってそういう生き物だから、仕方ないでしょ。こっちが手の平で動かしてやるのよ、と昔誰かが言っていた。

 だから私が悪いって言うのか。私があの人の心を程度の良いところで満たしてやらなかったから。上手に躱せなかったから、だから私が悪いと言いたいのか――!

 手の中の髪飾りの軋む音に震える手をほどく。薄い貝殻は脆い。まるで私だ。こんな非力な力でさえ壊れてしまう私のようだった。


 今日は奥方様が遊びに来て欲しい、と言っていたので夕方からお屋敷で過ごしていた。レイ君はもうすぐ5ヶ月で、寝返りが上手に打てるようになった。首もしっかり座ったのでぐっと腕で顔を持ち上げてこちらを見て笑ってくれた。抱き上げると温かくて安心する。何も知らない無垢な温もりだった。

 奥方様は何も言わないけどきっと何があったのか知ってるんだろう。レイ君が眠ったあとだったり、ふとした時に優しく抱き締めてくれた。その温もりが安心する。凍てついてしまいそうな心が溶かされていく。もう2ヶ月近く経とうとしているのに、私は未だにあの医学学校の図書室の中に、その扉の前にいた。




 ただ閉まっている扉を開ける。ドアノブを握る手が震えた。ゆっくりと回すと中ではまっていただけのカギが引っ込む音がした。息を吐き出す。押し込んだ瞬間、開いたすき間からあの汗ばんで浮腫んだ手がぬっと伸びてきて引き込まれた。床に這いつくばって、声が出ない、身体も動かない。あの汗ばみ浮腫んだ手が、身体を押さえつけてきた。馬乗りにされた重みが、男特有の生臭さが、笑う度に迫りくる酒臭さがまざまざと現実として襲いかかってきた。


「――――――――っ!」


 目を開けるとそこは真っ暗な闇の中で、ふわふわと柔らかい寝台の中にいた。服が肌に貼り付くほど汗をかいていて、そして被った布団があの重さを想起させる。それがおぞましくて剥ぎ取るとひんやりとした空気が、現実を感じさせた。それでも――


「っ、ぅ……っ」


 涙が溢れてきて、それを押し殺す。いつまでこんな風なんだろうか。もう一生こうなんだろうか。私は死なない。いつまで死なないんだろうか。頭の中にあの日のことがこびり付いてそれが取れない。それならいっそ――


「死にたい」


 死ねない。死んでしまったら、あの人が悲しむ。悲しむどころかきっと私を追いかけてしまう。だから、死ぬことさえできない。


 暗闇が怖くて、寝台からゆっくりと足を下ろす。疲れ切った身体は重い。ゆっくりと立ち上がると引き摺るように足を前に出していく。テーブルの上にある燭台に火を灯した。黄色く揺らめく光が部屋の中を照らす。その光源に照らされた光沢のある貝殻が付いたあの髪飾りを手に取った。

 毎朝、今日は挿せるだろうかと手に持つ。とても楽しいことがあって、笑い合えてもこれを髪に挿そうとすると得も言われぬ気持ちになる。


 これを貰った日は本当に嬉しくて楽しくて、美味しいものを食べて、2人で遠くに見える曲芸を見て、楽しくて嬉しくて夢のように幸せだった。

 それなのに、なんでこんなことに、なんで、なんで、なんで、なんで――!


「なんでよ!」


 脆い砕ける音と硬い金属がぶつかる音が静かなこの部屋に木霊した。


「なんでっ私がこんな目に遭わなきゃいけないの! ふざけないで! なんでっ! なんで……っ!」


 叫んでも叫んでも答えは出ない。出したくもない。ただ心の奥底に積もった澱みが溢れ出てそれが声として弾けた。胸の中の空気が切れる。ハッと息を吸い込むと目の前にピンク色の欠片が方々に散らばっていた。


「ぁ……うっあ、あぁ……」


 本当に可愛くて綺麗で、好きだった。そしておぞましいほど気持ち悪かった。それなのに、目の前の砕けたそれはとてもとても愛しいものに見えた。なんで好きなのにこんなことをしてしまったのか、分からない。でも、もう二度と戻らないことだけは分かり、溢れる涙が止まらない。


 こんなことしたくなかった。つけられなくても大切なものだったのに、こんなことしたくなかったのに――!




「ミスティア!」

「きゃあっ!」


 大きな音に頭を抱えて縮こまった。扉が開いた音だとようやく気付く。そして声の主にも。でも、恐怖で心が埋め尽くされて顔を上げることができない。


「どうした? 大きい音が聞こえたから……」


「…………だ、いじょぶ」


「泣いてるのか? 誰か――」


 踏み出したジルバさんの足元から耳障りな音が聞こえた。脆いなにかが砕け、砂となる音だった。


「これ――「嫌だったの」


 恐怖と怒りと悲しみと、様々な感情が嵐のように入り乱れる。丸く丸まった私はその中心にいるようだった。


「嫌だったから、壊したの。あの人が、触ったものだったから。ジルバさんが、くれたものなのに、もう、嫌だったのっ」


「そうか」


 静かな声だった。


「なら、壊して良かったんだ」


「違うっ壊したくなんてなかった、ほんとは、いつかまた、つけて、ジルバさんに、似合ってるって、言ってほしくて……っでも、怖くて、つけると、あの人の手が――」


「うん」


「私、いつまでこんななんだろって、忘れたい、のに忘れられな、くてっ、も、死んじゃいたい」


 ジルバさんは何も言わなかった。細い息が漏れる音に後悔が募る。こんなことを言われて彼はきっと困っている。でも、もう溢れ出した思いが止まらない。


「泣いても、怒ってももうどうしようもないのにっ私が、ちゃんと、断らなかったから」


「それは違う。ちゃんと断った。それに、泣いてもいい怒っていい。怒っていいんだ。ミスティア、ミスティアがされたことは不当なことなんだ。怒っていいんだ」


 その言葉にようやく顔を上げる。ジルバさんの顔がようやく見れた。同じような顔をしていた。


「怒っていい。死にたいって思ってくれてもいい。ほんとはそんなこと、思ってほしくないけど――でも、そう思ってしまうくらい辛いことだったんだから。話してくれる方が俺は嬉しい」


 ジルバさんが羽織っていた上着を肩に掛けてくれた。温もりを感じるそれに、違う現実が見えてくる。止まりかけていた涙がまた溢れ出た。いつもは声を押し殺せるのに、今日は幼い頃のように泣き叫んだ。その嘆きの最中に出てくる思いに、ジルバさんはひとつずつ頷いてくれた。




 どれくらい泣いていたのか分からない。息を吐き出すと彼も肩から力が抜ける。


「ごめんなさい」


「謝ることはない。ちょっと落ち着いたか?」


 ようやく笑顔を見せたジルバさんに頷いた。


「目を冷やそう。それだと朝起きたら目が開かなくなりそうだ」


 立ち上がりかけた彼の袖を引く。


「いい、怖いから一緒にいて。離れないで」


 ジルバさんがそれに膝を折って隣に座った。多分、怖がらせないようにだろう。どこにも触れてこない。触れられるのは怖い。でも、あなたは怖くない。抱きしめて貰うのは、まだ怖い気もするけど、でも手を繋ぐくらいなら怖くなかった。


「ミスティア、寝台に行くか? 目が落ちかけてる。泣き疲れたんだ、朝までまだあるし、寝たほうがいい」


「いいの。それに寝ると夢を見るから、ほんとはあんまり寝たくない」


「そうだったか」


 膝を抱えて縮こまった。本当は今すぐ眠ってしまいそうなほどの眠気が襲ってきている。ジルバさんが隣にいても、夢の中までは隣にいてくれないのだ。


「ミスティア。手を繋いでも大丈夫か?」


 顔を上げると、ジルバさんの手が伸びた。それにそっと手を重ねると、温かくて安心する。


「手が冷えてるな。前に俺が夢を見てた時はこうしてミスティアが手を握ってくれてた。うなされたら叩き起こすって」


「そうだったね」


 ずいぶんと昔のように感じた。


「だから、今度は俺がそうする。だから、ゆっくり寝たらいい。大丈夫、大丈夫だから」


 ジルバさんはそれから何も言わなかった。ただ繋がりあった手が火を持つように熱かった。



 あの、扉の前にいた。ただ1人、その扉の前にいた。その扉のノブを見つめる。そのノブに触れようとするが、手が動かなかった。動かない手の先を見ると――


「ジルバさん」


 優しく笑った彼がいた。また、迎えに来てくれたんだ。そのまま扉とは反対方向へと歩いていく。あの時のようにジルバさんは決して振り返らない。私ももう、振り返らなかった。




***



 2月になった。寒さはまた一段と増して、今晩にでも吹雪そうな空模様をしている。

 私は相変わらずだ。廊下は真ん中しか歩けないし、閉まった扉も突然開く扉も怖かった。


 でも、ひとつだけ変わった。夜寝る前に手に何かを握り締めておくと、溶けてなくなりそうだった夢と現実の境界がくっきりと印されるようになった。だからあの扉を開けずに目覚めることができた。もちろん、魘されてしまう日もあるが、前に比べたら頻度は格段に減っていた。そのお陰か医務室が前に比べて明るくなったように思えた。


 まだ本調子とは言わないが小さな1歩を踏み出せている。そんな気がした。ひとりで医務室にいることに恐怖を感じなくなっていた。


「ミスティア」


 開いている扉をノックしてジルバさんが顔を出した。


「ジルバさん」


「今大丈夫か? 医療班に入隊者だ」


 ジルバさんがそのまま廊下を手招きすると、短い黒髪の女性が姿を見せた。背も高く、眼光の鋭いその人は同業にしては少し毛色が違った。


「ピュセだ。もともとは傭兵として国を回ってたんだが、引き入れた」


「そういうことです。班長しかいないんで、班長の補佐をするようにと。よろしくお願いします」


「えっと、はい。ミスティアです。よろしくお願いします」


 差し出された手を取ると、ピュセと名乗ったその人はこちらをジッと見定めるように見つめてきた。


「あの――」


「小さくて可愛い。隊長が目障りな羽虫を追い払えって言ったのがよく分かります」


 ニコッと笑ったピュセさんの言葉に首を傾げる。


「可愛い恋人に他の男がつくのが嫌なんだって」


「曲解するな。彼女は戦えないからいざという時に助けてやってほしいんだ」


「巷では隊長の独占欲で屋敷で軟禁されてることになってますよ、彼女」


 そんな話になってるの――?


「あー……そう。もういいよそれで。俺はまだ話があるから。副隊長のクロッカスからあとは話を聞いてくれるか」


 否定もしなかったジルバさんをよそに、ピュセさんは早々に医務室から出て行ってしまった。ジルバさんは開いていた扉を閉めて振り返った。


「そういうわけだ。もともと医療班の人手不足は悩んでたんだ。あと――あのことは伝えてない。ミスティアの判断に任せる」


「うん。ありがとう」


「本当は、俺がずっと傍にいてやりたいんだけど……どうしても難しいから」


 ジルバさんがそう言いながら羽織っていた上着のポケットを探る。出てきたのは手の中に収まってしまう小さな箱だった。


「あと――これを渡そうと思って」


 蓋を開けると、青の石がぐるりと一周嵌め込まれた小さな指輪が入っていた。


「今日、誕生日だろ。おめでとう」


 思わぬ言葉に暦を見ると、確かにその日だった。すっかり忘れてしまっていたので、ジルバさんから受け取ったそれに嬉しくなる。でも、どうしようか――。


「ありがとう。でもごめんなさい――。医者って指輪しちゃいけないの」


 沈黙が落ちた。医学学校で最も初めに教わることだった。清潔さを大事にするために、手の装飾品は着けることができない。


「そ――れは知らなかったなぁ。そうか、うん、なんかごめん。その、寝る時になんか握り締めてるとうなされないって言ってたから――いや、俺もちょっとお揃いに憧れがあったからこれならと思って……」


 顔を覆ったジルバさんの手にはもう同じ指輪が嵌っていて、その下に見える顔が耳ごと真っ赤になっていた。それが本当に愛おしい。彼は失敗した……と零しているけど、そんなこと全然なかった。


「あははっそうだったんだ」


 彼のそんな気持ちが可愛くて愛しくて、思わず笑ってしまう。リングケースから取り出して同じ右手の小指に嵌めた。ちょっとだけ大きい気がしなくもないけど、とても綺麗で、可愛くてそして愛おしい。


「いいのか? つけられないんだろ?」


「仕事終わったらつけるようにする。――ほんとだ。これなら握ったときよく分かるから、うなされなさそう。それに、ジルバさんがくれたものだもの」


 指に嵌めちゃだめと言うわけだから、あとで革紐に通して首に下げておこう。そして仕事が終わったら指に嵌めたらいい。今このときもこれをつけるだけで愛しさが溢れた。彼の優しさが詰まってるように思う。指輪を嵌めた小指を口づけた。


「……ミスティア、手、握っていいか」


「ん、大丈夫」


 迷わず差し出した右手を取ったジルバさんが膝を折るとそのまま手の甲に口づけた。


「怖くないか?」


「うん」


 笑った彼の髪に触れてみる。まだこれくらいしか触れられない。まだまだ剥き身の傷を癒すのに道のりは遠い。私は死なない。彼も死というものを知らない。だから、その遠い道のりの中ゆっくりと歩いていけばいい。私達の命は途方も暮れるくらい、本当に永いものだから――。





おわり


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