最終話傷痕

 ミスティアはしばらく休みになった。ユリウスが代わりに詰めることになり、レンはミスティアに付き添った。あの日、私室から密かに2人で出て行って、今はリベルタの宿舎の個室で過ごしているとだけ教えてもらった。ミスティアの顔はあれから見ていない。


 レンの話ではなかなか夜もあまり眠れないようで夜中に飛び起きて泣き出すこともあるらしい。もうどうしたらいいか分からず、レンにも時間薬だ、ミスティアが落ち着くのを待てと言われた。ずっと最後に見たあの怯えた顔と声が忘れられない。


 それでも毎日は過ぎ去り、年の瀬が迫っていた。忙しくなる時期で、目まぐるしく仕事に追われていた。こんな時でも仕事ができる自分に嫌気が差す。


「悪いな、ユリウス。レンにも無理させてしまって」


 ミスティアの代わりに報告書を作成したユリウスに礼を言うと、ユリウスはいつもと変わらない不遜な態度で答えた。


「もうあいつも安定期だ。心配ない。それよりも大丈夫か?」


「あぁ、一応……」


 酷い顔をしてるんだろうな、と自覚はあった。定例の会議で帝都に足を運んでくれた支部長2人も荒んでるぞ、と言ってたのでそうなんだろう。俺に荒む権利があるとは思えない。ミスティアを傷つけたのはあの男だけじゃない。俺が守れなかったから、ああなったんだ。


「――怪我の具合はどうだ? 医学学校からカルテは渡されてるから状態は分かってる。痛み止めが必要なら用意するが……」


「大丈夫だ」


「……そうか、無理するなよ」


 まだ残っていた仕事を片すために、椅子に腰掛けて大きく息を吐き出した。実際はあの時庇った腕の傷は治るのに時間が掛かっている。今の状態じゃ剣も握れず、ミスティアを守ることなど到底無理だ。また大きく息を吐き出して、机に突っ伏した。


 遠く外から賑やかな音楽が聞こえる。そう言えば今日は冬の契りの祭りだったとようやく思い出した。秋の祭りで笑いあったことが懐かしい。

 あの日のミスティアは本当によく笑っていた。周りに知られたくないとか言いながらも大胆で、祭りもたけなわ、しん、と静まったリベルタに帰ってきた時に、ぐっと背伸びをして頬にキスしてくれた。もう二度とあんな風に笑い合える日は来ないのかもしれない。




 パチパチと爆ぜる音に目を開ける。遠くに聞こえていた祭囃子はもう聞こえない。身体が丸まって固まっていて、茶色い机が間近に目に入る。腕の下、書類が下敷きになって皺ができていた。やってしまった。


「寝てた……」


「あ――」


 小さな声だった。寝ぼけていた頭がそれに一気に覚醒する。顔を上げるとそこに、ミスティアが立っていた。顔の腫れはほとんど引いたようで知っているいつもの白い頬に朱が差している。

 少し痩せた気がした。国境都市で再会した時のように怯えていて、とても痛々しかった。


「ミスティア」


 息を飲み込むように名を呼ぶ。立ち上がって歩み寄ろうとするが、すぐに足を止めた。近付けばまたミスティアを苦しませてしまいそうで動けない。たった十数歩の距離があまりに遠く、深い深い溝ができたようだった。


「風邪、引いちゃうよ。これ――」


 先に声を上げたのはミスティアだった。ずっと抱えたままのブランケットを近くの棚に置いた。自由に動く右腕に、怪我はもういいのかと問いかけたい。でもそれをすることであの日を思い出させるなら何も言えなかった。 


「ありがとう」


 ミスティアは少し俯きながらも小さな声を上げた。


「腕の怪我、大丈夫?」


「あぁ」


「レンさんが痛いはずなのにって言ってたから」


「大丈夫だ、ミスティアも――」


 怪我は大丈夫か、と意を決して問おうとした時、はらはらと彼女の頬に涙が伝い落ちていく。それに再び固まった。

 本当はミスティアの涙を止めてやりたい。その頬を拭って、抱き留めてやりたい。でもそれでミスティアを苦しめてしまうのならもう――


「……良かった」


 ミスティアが涙を拭ってそう言った。思いもよらぬ言葉だった。


「ずっと、心配だった、から……怪我、したの、知ってたから」


 そうだ、ミスティアは、この人はこういう人だ。


「……っ、なんで俺の心配――っ」


 泣きたくなった。自分のことだけを考えていればいいのに、ずっと考えていてくれたのか。


「だって怪我、してたから。だから――良かった」


 必死に涙を拭う彼女が少し笑った。ミスティアも泣き虫で、同じように涙が止まらない。


「俺は、またっ守れなかった……っ。死にたいと言わせてしまうくらい、嫌な思いをさせた。俺の生まれた意味はミスティアを守るためだけにあるのにっ」


 泣きたくないのに、泣きたいのはミスティアのはずなのに、涙が溢れる自分が嫌だ。俺に泣く権利はない。むしろ罵ってほしい。お前はあの頃と変わらない、主の命も尊厳も守れぬできそこないだと、言ってほしかった。でもそんな罵りをする彼女ではない。

 ミスティアは強くて優しくて綺麗で、そして慈愛に満ちたそんな女性だから――。

 一歩ミスティアが踏み出した。まるで初めて歩く赤子のように小さな歩みを俺に向けた。息を飲む。無理しなくていい。そう思うのに、ミスティアの歩みを遮る言葉を持っていない。そしてついに目の前で立ち止まった。


「ほんとは、あの日からずっと、何もかも怖い。今も――死にたいくらい辛い。でも、もう私は貴方を遺して死ぬわけにはいかないから……」


 ミスティアの小さな手が伸びる。そっと指先に小さな手の温もりが宿った。


「私を、助けてくれた。だからお願い。価値がないなんて、言わないで。ずっと傍にいて。ジルバさんは、怖くないから」


 ミスティアが目を閉じる。涙がまた頬を伝う。ふわりと金の髪が靡いて伝う涙が舞った。淡い星の光がミスティアを包み込む。そして拡散していくように消えていった。





 ミスティアに椅子を差し出した。腰掛けたところでその隣に座る。腕の痛みが消え、腕に巻かれた包帯をそっと解いていく。赤黒く炎症を起こしていた腕が綺麗に治癒していた。唯一縫い合わせた場所だけ痛々しく残っている。


「ありがとう」


「ごめんなさい……あのまま気を失っちゃったから。あの時治してたら、傷痕、残らなかったと思う……」


 ほとんど消え入りそうな声でそう言う。ミスティアの星の子としての能力は絶大だ。この程度の怪我なら簡単に治癒してしまう。しかし、自分自身の怪我だけは治すことができない。きっとあの縫い合わせた傷は消えないだろう。


「気にしなくていい、それでいいんだ」


 ミスティアの守護騎士として産まれた俺は本当に未熟だ。だからこんなことが起きるし、ミスティアを傷つけてしまう。きっと跡形もなく治っていれば、今回のことを長い時間の中で忘れてしまっていただろう。だから、この傷痕は戒めだ。もう二度とこんなことは起こさせない。


「手は繋いでも大丈夫か? 怖かったらやめる」


 死にたいと言った彼女が、俺のために死ねないと言った彼女が、死の花園に誘われないように繋ぎ止めておきたい。


「大丈夫。ジルバさんなら大丈夫だから」


 一息、ミスティアが息を吐き出した。そっと小さな手が触れる。押さえ込んだ恐怖心が震えとなって現れている。きっと何年も何十年も、もしかしたらずっと、残るのかもしれない。それでもずっと傍にいよう。俺たちの寿命は恐ろしいほどに長い。その長い時の中、少しでもミスティアが幸せに笑ってくれていたら、それだけで俺も幸せなのだ。






おわり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る