第16話薄汚い
あの女に叩かれた頬がまだ痛む。あまりに不利な状況だと気付き、逃げ帰ってしまったが気持ちに揺らぎはない。
朝になり、足早にリベルタに向かう。昨日は朝から出掛けていたが、今日はそんなことないだろう。
秋が深まってきて、中央街へ向かう道には薄氷が張っている。今日は朝から霧が出ていて少し油断すると突然目の前に人が現れる形になって何度も立ち止まった。まるで邪魔されているようで不快だ。それが男ならまだいいが、女どもはこんな寒い朝でもケラケラと笑い合いながら群れを成して歩くので目の前から歩いてくる人などこれっぽっちも気付かないのだ。そしてぶつかるかぶつかりかけるかして、ようやくこちらを見る。一応謝罪はするが、すぐに己の愚かさを忘れておしゃべりに興じる。そんなことが幾度も起きた。
忍ばせたナイフの切っ先を長い爪でカチカチと弾く。視界の悪い道、昂った身体には暑い上着、そして愚かな女ども、その全てが不愉快だった。
いつもよりも時間がかかってリベルタのある広場へと到着した。広場は商売の一等地だが、この霧では自慢の品も見えないので売り文句も飛ばせず静かだった。広場からまた違う道へと行く人々の間を縫いながら目的地に向かう。そこに――
「ようやく来たか。実習は中止だ帰れ」
多分、こうなるだろうとは思っていた。白い靄の中から現れたそれは波打つ黒髪の男だった。晴れない霧の水分を吸って重そうな髪が首筋や頬に張り付いている。
初めて見た時から不快だった。見目が良いと女どもが噂する目の前の貴族は医学学校で見た知性の欠片もないような馬鹿と同じに見えた。そして何より俺からあの女を横恋慕した、とんでもないクソ野郎だった。
「中止? 指導医でないあなたが何を勝手に」
「もうミスティアはお前と顔を合わせたくないと言っていた。それに、随分と不純な理由でリベルタを実習先に選んだようだな」
「なんも不純な理由なんてないですよ。俺はただほとんど無償で医療を施すリベルタの理念に感銘を受けただけです」
そしてそれは治すための医療ではない。唯一往診で見たそれは医療とは呼べない。ただの看病だった。あれで医療だと言うのだから笑わせる。
「ハーフエルフを侮辱したこともか? 身重のハーフエルフを病持ちだの罵ったことは聞いているぞ」
「だからこそ適切な処置を行った方がいいと思って言ったまでです」
「指導医に対して謂れのない暴言を浴びせ、暴力を振るおうとしたが許されると思っているのか」
「それを言うならあなたもそうではないですか? あなたは、今、この瞬間、私利私欲のために俺を排除しようとしている。これが許されるとでも? もしかして実習の中止はあなたの独断ですか? 実習の中止を判断するのはあなたではない、指導医だ。俺は実習を続ける権利がある」
大声で言い放ってやった。もともと集まってきていた野次馬はひそひそと話をしている。目の前の男はどう足掻いても貴族だ。民衆は貴族の横暴を良しとしない。ここでお前が不当に俺を貶めたと分かれば後々面倒なのはその鳥の巣みたいな頭でも分かるだろう。
「そうだな、確かに実習の中止を真っ先に提案したのは俺だ」
素直に認めた男に笑ってしまった。
「だが俺はリベルタの隊長だ。リベルタでのことは俺の一存で決められる。お前はリベルタに入ることを許さない」
「流石貴族様は傲慢だ。とにかくあの女をここに連れてこい。中止なら中止でその口で伝えさせろ」
「お前はミスティアの身体に馴れ馴れしく触ったらしいな」
一気に怒りに震える声になった。なんだそんなことまで聞いたのか、潔癖そうな男だから伝えていないのかと思っていた。
「彼女は髪に触れられた時にやめてと言ったと聞いている」
「やめて? 女はそういうもんでしょ。いつだって嫌だ、やめてなんて言いながら喜んでる。あの女もそうだった、それにそのあとも手を繋いでも嫌がりはしなかった。嫌なら抵抗すればいい」
「怖がる彼女が抵抗できたと言いたいのか!」
「嫌くらい言えるだろ、言わないってことは満更ではないってことでしょ。残念だったな他の男にもあぁいう態度ってことはとんだ尻軽なんだよ」
「――あなたの考えはよく分かりました」
聞き覚えのある声に言葉が詰まる。囲んでいた野次馬からひとりの男が進み出るとジルバの隣に立った。赤毛の下から覗く冷めた目が蔑むように睨み付けてきた。見覚えのある白衣を着ていた。
「朝早く申し訳ありません。セーニョ様」
医学学校副校長だ。貴族街に住むこの男がこんなところにいるわけがない。そしてこういった騒動の野次馬になる男でもなかった。
「父の名代で参りました。昨日伯爵から相談をもらった時はまさかとは思ったのですが、どうやら事実のようですね」
この男――!
「オリバー、あなたの心根がよく分かりました。あなたに実習を続ける権利はありません。医学学校に戻りなさい」
「それは……指導医が決めることで」
「違います。指導医の話を聞いて我々が決めること。昨日ミスティアさんからも話を聞きました。指導医への態度のこと、なにより実習の態度を聞いて、まさかとは思いましたが――」
目の前で怒りを含んだ顔をした副校長は軽蔑の眼差しを向ける。
「ですが、これは私の判断です。あなたには医師になる大事な素質が抜けている。一体この2年近く何を学んできたんですか。これでは実習の意味がない。実習は中止です、行きますよ」
目の前が真っ暗になる。そうか、わざわざ外で、こんな人の往来で話し始めたのは俺の言葉をこの男に聞かせるためだったのか。
「薄汚い手を使いやがって……!」
副校長が睨み付ける。あの男はと言うと今まであった怒りは何もないと言った顔だ。さっきのあれは演技だったのか――っ。
「お前らみたいな環境に恵まれた貴族に何が分かる! あの女も利用してるんだろ! シエル家はハーフエルフの地位向上の立役者だもんなぁ! 人権家のパフォーマンスにはちょうどいいよな!」
「勝手に言ってろ。俺はそんなつもりでミスティアと恋仲になってない。お互い好きだったから恋仲になった、それだけだ」
見知った顔に腕を取られた。皆、医学学校の教員だ。それを振り払おうとするが羽交い締められる。
「触んじゃねぇ! ちくしょうっちくしょう! お前らくたばっちまえ! 殺してやる! 殺してやる! お前も! あの女も!」
あの男は副校長に頭を下げるとすぐに踵を返した。そして、リベルタの建屋へと入っていく。バタン、と大きな音を立てて扉が閉まった。
こうして俺の短い実習は終わりを告げた。
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