命を捧げた執事は、器の少女の影で生きる

明日 空

第1話 執事は静かに、日常を整える

 ――ヴァルステリア伯爵家。


 王国北東部、山深く人里離れた領地に根ざす古き貴族家門。

 王家より“封印”を託されたその家は、代々〈器〉の血を継ぐ者を守り続けてきた。


 時代の表舞台からは遠ざかり、今ではその名を知る者も少ない。

 だが、この地には確かに存在している。

 王都から遠く離れた、霧に閉ざされた山間の屋敷――ヴァルステリア家の別邸。


 そしてそこには、ひとつの掟が生きている。


 ――器を守る者は、己の命を代償にしても、決して主に背を向けてはならない。


 私はその掟に従う一人の執事であり、誓約の継承者である。


*  *  *


 霧が静かに邸を包み込む朝。

 ヴァルステリア邸の石造りの屋根が白く霞んでいる。


「……時間です、ユリウス様」


 小さな声が背後から届く。

 振り返ると、年若い侍女のフィーネが、湯気立つ銀のティーセットを抱えていた。


「ありがとう、フィーネ。彼女を起こしに行こうか」


 私――ユリウス・アッシュレイ・レイヴァンは、この屋敷に仕える執事である。

 仕えるべき主人はただ一人。ヴァルステリア家の令嬢、ミレナ・ヴァルステリア。


 まだ十代だったあの日、この家に誓いを立てた。

 どんな災厄が降りかかろうとも、この家の“器”を守ると。


 それが私の契約であり、存在理由である。

*  *  *


 お嬢様の寝室へと向かう廊下は、朝の陽光をわずかに帯びていた。


「今日も“あの呼び方”ですね?」

 隣を歩くフィーネが、小声で笑う。


「もちろん。あの方にふさわしい名を呼ぶのも、執事の仕事の一つだ」


 ドアの前に立ち、私は軽くノックを一度。


「ミレナお嬢様。朝でございます」


 返事はない。だが、それが“いつも通り”でもある。

 私は静かに扉を開け、フィーネと共に中へ入った。


 純白のカーテンが朝風に揺れ、淡い日差しが室内を照らしている。

 寝台の上、銀の髪を広げた少女が、うっすらと目を開けた。


「……ん、ユリウス?」


「おはようございます、お嬢様。今日もご機嫌、麗しゅう」


 その言葉に、彼女は眠たげなまなざしのまま、少しだけ口元をほころばせた。


「ん……まあまあ、普通。夢の内容はあんまりよくなかったけど、声が聞こえたら戻ってこれた」


「それは何よりでございます」


 フィーネがそっとカーテンを開けると、光の筋が室内を切り取った。


 私は手を差し出し、彼女が起き上がるのを支える。

 そのとき、袖口からちらりと見えた左手首に、淡い印が浮かんでいた。


 ――契約の痕。


 それは、お嬢様が“器”である証。

 そして、私が彼女に命を捧げた、確かな記憶の残り火。


*  *  *


 午前中は、いつもの執務に追われていた。


「ユリウス様、第二倉庫の鍵が見つからなくて……」

「昨夕、銀器の手入れの後に第三棚へ戻したはずです。左から二番目です」


「今度は庭園管理の職人が、工具の発注が違うと……」

「承知しました。正規品と交換を指示しておきます」


 私にとっては日常の一部。

 だが、使用人たちにとっては“なぜすべてを把握しているのか”と首を傾げる理由になっているらしい。


 理由は単純だ。

 私はこの家を、“彼女を守る砦”として捉えている。ゆえに、隅々まで目を光らせるのは当然のこと。


*  *  *


 午後。

 書斎の窓際で、ミレナお嬢様は静かに本を読んでいた。

 日差しに透ける睫毛の影が、白い頬に落ちている。


「ねえ、ユリウス」


「はい」


「……あなたって、どんなときも絶対に私の執事でいてくれるの?」


 唐突な問いに、私は少しだけ間を置いてから答えた。


「“契約”が続く限り、私はいつでもお嬢様の側におります」


「契約って、そういう意味じゃなくて……」


 彼女の声が、少しだけ揺れた。


「……この半年が、普通であってほしいなって思うだけ」


「その願い、必ず叶えてみせましょう」


 私はそっと頭を下げる。

 それが、今この瞬間、彼女にできる唯一の誓いだった。

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