第3話『妹の涙と黒い影』

ぼくはハルキ。

ゴキブリになってしまったけど、夜の台所でパンくずを探しながら、なんとか生き延びている。



「……ん?」


その夜もパンくずを探していたとき、ユイの部屋のドアが少し開いているのが見えた。


妹のユイは、いつも元気でおしゃべりで、お菓子を隠れて食べてはママに怒られていた。

でも今夜はなぜか、枕を抱きしめて布団の中で小さく震えていた。


(ユイ、どうしたんだろ……)


ぼくは気になって、ドアの隙間から部屋に忍び込んだ。



「うっ……うぅ……」


ユイは声を殺して泣いていた。


机の上には学校のプリントが広げっぱなしで、その端っこには赤ペンで大きく“×”がついていた。


(テスト……か……)


人間だったころ、ぼくもテストで悪い点を取った日は泣きたくなった。

でも、泣いたらもっと恥ずかしくて、隠していたことを思い出す。


「……がんばったのに……なんで……」


ユイが声を絞り出した。


ぼくはゴキブリの体で、そっとユイの枕元まで近づいた。


(ユイ……大丈夫だよ。)


声は届かないけど、ぼくはそう心の中でつぶやいた。



そのときだった。


「カサ……」


部屋の奥から小さな音がした。


(え……!?)


見ると、ユイの机の下の暗がりから、もう一匹のゴキブリがこちらをじっと見ていた。


ぼくと同じ、黒くてツヤツヤした体。

だけど、その目はギラリと光っていて、冷たい風のようなものを感じた。


(お前……誰だ?)


声には出せないけど、心の中で問いかける。


(お前こそ、ここで何をしている……)


冷たい声が頭の中に響いた。


(ぼ、ぼくはハルキ……! ユイの兄貴だ!)


(兄貴……? フン、人間の家にいるゴキブリはすぐに死ぬ。ここは甘くないぞ。)


そのゴキブリはゆっくりと近づいてきた。


(お前はここで生き延びられると思っているのか?)



(生き延びるさ!)


ぼくは思わず叫んでいた。


(ユイのためにも! 自分のためにも! ぼくは生きるんだ!)


(……フン、口だけは達者だな。)


そのゴキブリは背中の羽をわずかに広げると、くるりと向きを変えて机の奥へ消えていった。


「……うぅ……」


ユイのすすり泣く声がまだ聞こえる。



そのときだった。


「ユイ、どうしたの?」


ママの声がして、部屋に入ってきた。


「ママ……テスト……またダメだった……」


「そっか。でも、ユイは頑張ったんでしょ?」


「……うん。」


「じゃあ、大丈夫。頑張ったら、次はもっと良くなるよ。」


ママが優しくユイの頭をなでた。


ユイはポロポロと涙を流しながら笑った。


「うん……!」



(よかった……)


ぼくはホッとした。


ゴキブリの体になってしまったけど、ユイが笑ってくれるだけで、それだけで、ぼくは生きている意味があるって思えた。



その夜、クロスケが冷蔵庫の裏で待っていた。


(おそかったな、ハルキ。)


(ごめん、ちょっと寄り道してた。)


(あの“黒い影”に会ったんだろう?)


(え!? クロスケ、知ってるの?)


クロスケは目を細める。


(あいつはゴキブリの中でも“夜影”って呼ばれるやつだ。夜の家の中を自由に歩き回る影のような存在だ。)


(夜影……?)


(お前も、覚悟しとけよ、ハルキ。これからが、本当のサバイバルだ。)


クロスケは静かに笑った。


ぼくも小さく笑った。


「大丈夫。ぼくは……生き延びるから。」


暗い台所でパンくずを探す夜は続く。

でもその夜は、少しだけ星が近く見えた気がした。

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