第3話『妹の涙と黒い影』
ぼくはハルキ。
ゴキブリになってしまったけど、夜の台所でパンくずを探しながら、なんとか生き延びている。
◇
「……ん?」
その夜もパンくずを探していたとき、ユイの部屋のドアが少し開いているのが見えた。
妹のユイは、いつも元気でおしゃべりで、お菓子を隠れて食べてはママに怒られていた。
でも今夜はなぜか、枕を抱きしめて布団の中で小さく震えていた。
(ユイ、どうしたんだろ……)
ぼくは気になって、ドアの隙間から部屋に忍び込んだ。
◇
「うっ……うぅ……」
ユイは声を殺して泣いていた。
机の上には学校のプリントが広げっぱなしで、その端っこには赤ペンで大きく“×”がついていた。
(テスト……か……)
人間だったころ、ぼくもテストで悪い点を取った日は泣きたくなった。
でも、泣いたらもっと恥ずかしくて、隠していたことを思い出す。
「……がんばったのに……なんで……」
ユイが声を絞り出した。
ぼくはゴキブリの体で、そっとユイの枕元まで近づいた。
(ユイ……大丈夫だよ。)
声は届かないけど、ぼくはそう心の中でつぶやいた。
◇
そのときだった。
「カサ……」
部屋の奥から小さな音がした。
(え……!?)
見ると、ユイの机の下の暗がりから、もう一匹のゴキブリがこちらをじっと見ていた。
ぼくと同じ、黒くてツヤツヤした体。
だけど、その目はギラリと光っていて、冷たい風のようなものを感じた。
(お前……誰だ?)
声には出せないけど、心の中で問いかける。
(お前こそ、ここで何をしている……)
冷たい声が頭の中に響いた。
(ぼ、ぼくはハルキ……! ユイの兄貴だ!)
(兄貴……? フン、人間の家にいるゴキブリはすぐに死ぬ。ここは甘くないぞ。)
そのゴキブリはゆっくりと近づいてきた。
(お前はここで生き延びられると思っているのか?)
◇
(生き延びるさ!)
ぼくは思わず叫んでいた。
(ユイのためにも! 自分のためにも! ぼくは生きるんだ!)
(……フン、口だけは達者だな。)
そのゴキブリは背中の羽をわずかに広げると、くるりと向きを変えて机の奥へ消えていった。
「……うぅ……」
ユイのすすり泣く声がまだ聞こえる。
◇
そのときだった。
「ユイ、どうしたの?」
ママの声がして、部屋に入ってきた。
「ママ……テスト……またダメだった……」
「そっか。でも、ユイは頑張ったんでしょ?」
「……うん。」
「じゃあ、大丈夫。頑張ったら、次はもっと良くなるよ。」
ママが優しくユイの頭をなでた。
ユイはポロポロと涙を流しながら笑った。
「うん……!」
◇
(よかった……)
ぼくはホッとした。
ゴキブリの体になってしまったけど、ユイが笑ってくれるだけで、それだけで、ぼくは生きている意味があるって思えた。
◇
その夜、クロスケが冷蔵庫の裏で待っていた。
(おそかったな、ハルキ。)
(ごめん、ちょっと寄り道してた。)
(あの“黒い影”に会ったんだろう?)
(え!? クロスケ、知ってるの?)
クロスケは目を細める。
(あいつはゴキブリの中でも“夜影”って呼ばれるやつだ。夜の家の中を自由に歩き回る影のような存在だ。)
(夜影……?)
(お前も、覚悟しとけよ、ハルキ。これからが、本当のサバイバルだ。)
クロスケは静かに笑った。
ぼくも小さく笑った。
「大丈夫。ぼくは……生き延びるから。」
暗い台所でパンくずを探す夜は続く。
でもその夜は、少しだけ星が近く見えた気がした。
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