第22話推しと深夜と俺と

 ——教室のざわめき。

 黒板の前で、先生が「今日はお父さんやお母さんが来ています」と笑っている。

 窓の外から差し込む午後の光が、机の上に長い影を落としていた。

 隣の席の子が「すいー、またおまえんち来てないじゃん」と囁き、別の子がくすくすと笑う。

 笑い声が波紋みたいに広がって、耳の奥までじわじわと入り込んでくる。

 うつむいた机の木目が滲み、視界が揺らぎ、鉛のように重たい感覚が胸の真ん中に沈んだ。


 そこで、目が覚めた。


 暗い天井がぼんやりと視界に広がっている。

 窓は厚いカーテンで覆われ、部屋は薄い闇の中。

 寝具の中にはこもった体温が残り、額にはうっすらと汗がにじんでいた。

 胸の奥がまだ重く、息がうまく深く吸えない。

 時計を見ると、夜明けにはまだ遠い時刻——変な時間に目が覚めてしまったらしい。

 静まり返った室内に、自分の呼吸音だけが淡く響いている。


 このまま布団に戻っても、きっと眠れない。じっとりと嫌な汗もかいている。

 それなら、とシャワーを浴びることにした。


 脱衣所の灯りをつけると、蛍光灯の白い光が一瞬まぶしく瞬き、壁と鏡面を均一に照らす。

 タイルの床はひやりと冷たく、足裏からひんやりした感覚がじわっと登ってくる。どこか頭の片隅を冷やしてくれる感覚に、ほ、と息を吐き出した。

 服を脱ぎ、洗濯かごにそっと落とすと、布が柔らかく重なり合う音がする。

 シャワーのレバーをひねり、金属の管を水が走る音が短く響いて、そのあと細い水流が浴室の床を小気味よく叩き始める。

 肩にかかる温水は、夜の冷えをゆっくりと溶かしてくれる気がした。

 蒸気がふわりと立ち上がり、視界の端が白く霞む。

 頭を洗うとき、湯気が頬を包み、石けんの香りが鼻先を柔らかくくすぐった。

 額から首筋へと伝う湯の流れが、夢の残滓を薄めてくれるようだった。


 ——ようやく、すっきりした。


 バスタオルで髪と体を丁寧に拭き、布地の温もりと水気を吸い取る感覚に少し安堵する。

 着替えを手に取って脱衣所に出た、その瞬間だった。


「……あれ、キミドリくん?」


 ドアの向こうから、ひょいと顔を覗かせたりぜが立っていた。

 部屋着のTシャツは少しよれていて、胸元にかすかなシワが寄っている。先程まで静かだったから、寝ていると思っていたが、起こしてしまったのかもしれない。

片手にはタブレットがあり、編集画面らしき青白い光が暗い廊下を淡く照らしていた。

 前髪の一部が寝癖でふわりと跳ね、片目がまだ半分眠たげに細められている。


 だが——その目が、ふと、俺の身体に留まった。


 湿った髪から首筋、鎖骨、肩、胸元へと滴る水滴を、視線がゆっくりと辿っていく。

 まるで目に見えない指先で、肌をなぞられているような感覚がして、身体が遠い場所にあった熱を引き寄せる感覚に、思わず息を呑む。

 りぜのどこか熱を帯びた視線に、思わず身じろぎしてしまい、タオルを握る指先にほのかに力がこもる。

 動きに合わせて水滴がひとつ、鎖骨から胸元へと滑り落ちた。

 りぜの瞳がその軌跡を追った気がして、胸の奥が一瞬つまる。


「……りぜ、くん」


 自分でも不意だった呼びかけは、少し掠れていた。

 その声に、彼がわずかに瞬きをし、唇が小さく動く。


「……キミドリくん」


 名前を呼ぶその声音は柔らかく、けれど先ほどまでの視線の熱をほんのりと含んでいた。


「あ、ごめん。なんか物音してたから……」

 りぜはタブレットを持った手を軽く上げたが、その目はまだ完全には離れきらない。

「編集してたら寝落ちしててさ……喉かわいたなーって、廊下通ったら……」


 声は穏やかだが、視線の余韻がまだ肌の上に残っている気がする。


「……すみません。起こしてしまって……あの、すぐ着替えますので」


「うん、俺もお茶淹れてくるわ…飲むでしょ、着替えたらおいで」


 そう言ってりぜはようやく視線を外し、廊下の奥へ歩いていく。

 足音が静かな廊下に落ち、やがて遠ざかっていく。

 その音が消えると同時に、胸の鼓動も少しずつ落ち着きを取り戻していく。

 けれど、まだ指先にはタオルの端を掴んだ感触と、あの視線の余熱がはっきりと残っていた。



ドアを閉めると、脱衣所の中に自分の鼓動だけが残った。

湯気の名残がわずかに漂い、鏡の端が曇っている。

タオルを握る手にまだ微かな震えがあり、深く息を吸っても胸の奥の熱は引かない。

——落ち着け、と自分に言い聞かせながら、服を身にまとっていく。

布地が肌に触れる感触が、先ほどまで感じていた視線の余熱をかすかに和らげてくれた。

湿り気を帯びた空気が、足元からじわじわと冷えていく。


髪をざっと乾かし、部屋に置いてあったメガネをかけて廊下に出る。

足元に柔らかなラグの感触が広がり、廊下の先からほのかに茶葉の香りが漂ってきた。

静まり返った夜の家に、わずかな湯の音と湯気の香りだけが満ちている。


キッチンの明かりは、夜の静けさの中で温かい色をしている。

ステンレスのポットから湯気が細く立ちのぼり、カップに注がれる湯が小さな音を立てる。

その音はやけに鮮明で、静寂を柔らかく切り裂く。

りぜは片手でマグカップを支え、もう片方の手で急須を傾けていた。

肩越しに見える横顔は穏やかで、数分前のことなどなかったかのように、無造作な動作を繰り返している。

光に縁取られた髪が、少しだけ揺れた。


「あ、おかえり。温かいので良かった?」


「……はい。ありがとうございます」


返事をしながらも、視線を合わせるのに少しだけためらいがあった。

けれど彼はそんな様子に気付くこともなく、マグカップを差し出してくる。

陶器越しに伝わる熱が指先をじんわり温め、その感覚が妙に心地よい。

湯気が指先から鼻先へと昇り、乾いた空気を潤す。


りぜは自分の分にもお茶を注ぎ、カウンターにもたれながら湯気越しに俺を見た。


「さっき思ったんだけどさ……キミドリくんって、肌白いんだね」


ふっと口にされた言葉に、カップを持つ手がわずかに固まる。

ただの感想のはずなのに、さっきまでの湯気よりも熱がぶわっと広がるのを感じた。

脈が耳の奥まで届き、呼吸が浅くなる。


「……そんな、ことは」


「いや、ほんと。配信ばっかやってて意外と気づかなかったど……なんか、健康的なのにやわらかそうっていうか」


りぜはそう言って、少しだけ目を細める。

その表情にはからかいも色気もなく、ただ事実を述べるだけの無垢さがあった。

けれど、だからこそ余計に落ち着かない。

あの時の視線が肌を撫でる感覚だけが、確かに残っている。


「……りぜくんは、その、そういうこと、あまり……経験ないんですか」


「今はぜーんぜんない。配信と編集と企画で手一杯だし、恋人とか、そういうのとはもう何年も無縁……」


笑いながら答える声が、妙に近く感じる。

彼にとってはただの世間話。それでも、先ほどの視線の記憶が耳の奥でざわめきを残している。


「……よかった」


「ん?」


自分でもなぜ口にしたのかわからず、心臓が跳ねる。

慌てて、視線を逸らしたまま言葉を継いだ。


「あ、いや、あの……その……人気配信者の恋人バレって色々大変そうですし。炎上だとか、噂だとか……だから、その、ね……」


しどろもどろな言い訳に、りぜは小さく吹き出す。


「…変なとこ心配するよね、キミドリくんって」


「……そうでしょうか、推しの炎上は悲しいですし」


「そういうもんか。まあ……そういうの、俺はあんま考えたことないけど」


軽い調子でそう言いながら、湯気越しにふっと笑った。


「今はキミドリくんが支えてくれるからね」


何でもない一言のはずなのに、その響きが耳の奥にやけに長く残る。

湯気の向こうの笑顔が、柔らかくて、穏やかで——それが余計に胸を締めつけた。

軽く返事をしようとして、唇と語尾がわずかに震える。


「……そう、ですね」


 湯気に紛れるようにカップを傾け、熱い茶を飲み込む。

 喉を通る温もりに、ほんの少しだけ呼吸が整った気がしたが——結局、乱れているのは自分だけ。

 その事実が、ますます胸の奥を熱くしていく。


 この空気をなんとか変えたくて、思わず口が動く。


「……あの、罰ゲームのリップ音……いつ、撮るんですか」


 唐突な話題転換に、自分でも苦笑しそうになる。

 Shuyaの屈託のない笑顔を思い出せば、りぜだってこの変な空気が流れるのを払拭できるだろうと思った。

 だがりぜは、意外そうでもなくマグを置き、口元に笑みを浮かべた。


「近いうちかな。運営から“多めに”って言われてるし」


「……多め、ですか」


「そうそう。耳元で囁くやつとか」


 そこで、りぜがふっと首を傾ける。


「キミドリくんは……配信やらないじゃん?そういうのって、どういう気持ちで聞いてる?」


 視線をまっすぐ向けられた瞬間、心臓が軽く跳ねる。

 湯気の向こうから伸びるまなざしが、肌を薄くなぞるように感じられて、落ち着かない。


「……あまり、想像できませんが……距離が近いと、少し……落ち着かない、かもしれません」


「落ち着かない、ね」


 その言葉が、低く掠れた声で耳元に届く。

 気づけば半歩分、りぜの影が近づいていた。

 吐息の温もりが耳の横をかすめ、背筋に薄い電流が走る。


「……こうやって話すと、わかる?」


 耳殻をかすめるように柔らかな声。

 次いで、耳たぶに短く触れる唇の感触が、温かくそこだけを染め上げた。


「あ、…」


 反射的に肩が揺れる。

 逃げる間もなく額にふわりと唇が置かれ、頬へと滑る。

 そのたびに鼓動がひとつずつ速くなっていく。


 頬に触れた唇が離れた瞬間、視線が絡んだ。

 湯気の中、わずかに熱を帯びて潤んだ瞳が真っ直ぐにこちらを捉えている。

 呼吸が絡まり、空気が熱を帯びる。


 唇が触れあうまで、距離はなかった。

 柔らかく、けれど確かに重なる感触が、時間をゆっくりと引き延ばしていく。

 緩慢に離れたあとも、温度と脈が混ざり合い、胸の奥で鳴り続けていた。

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