第21話推しと夕飯
夕方、窓の外は少しずつ茜色を帯びはじめ、キッチンの白いタイルにもやわらかな陽が差し込んでいた。
まな板の上でトントンと玉ねぎを刻む音が規則正しく響き、その合間に包丁の刃が木のまな板を軽く打つ乾いた音が混じる。刻むたびに玉ねぎの香りが立ち、目にうっすらと刺激が滲んだ。
背後から足音が近づく。
スリッパの布が床を擦る軽い音と、ほのかなシャンプーの香り。
気配がすっと背中に近づいたかと思うと、肩越しに覗き込む影が差し込んだ。
「キミドリくん、今日の晩ごはん何?」
「和風ハンバーグにしようかと。大根おろしとぽん酢で、さっぱりめに」
「いいね!……あ、手伝いたい」
りぜは袖を肘までまくり、迷いなく台所に入ってきた。狭い空間に二人分の体温が重なり、温もりのある温度を空気が帯びる。
流しの蛇口から冷水がひとすじ落ち、ステンレスのシンクで小さな水音を立てて弾けた。
「では、玉ねぎを軽く炒めてください。透き通るくらいまでで大丈夫ですよ」
「おっけー……あ、でも俺、油はねるの苦手なんだよなぁ……」
フライパンを受け取ったりぜは、ほんの半歩だけ距離を取り、フライパンを前にして構えるように立った。
油が「パチッ」と小さく弾けるたび、肩がぴくりと跳ね、腰がわずかに引ける。その横顔は真剣で、大人の手伝いを頑張る少年のようで可愛らしい。
「そんなに警戒しなくても……」
「いや、熱いのは熱いじゃん?手の甲やられると配信に支障出るし」
言いながらも、時おり眉を下げ、恐る恐るヘラを動かす。
玉ねぎが次第に透き通っていき、甘い香りが部屋いっぱいに広がった頃、俺は大きなボウルにひき肉と調味料を入れ、粗熱を取った玉ねぎを加える。
「ここからは一緒にやりましょうか」
「おー、こねるやつだね。俺、こういうの好き」
二人で向かい合い、ビニール手袋をした手を突っ込んでひき肉をこねる。
冷たい肉の感触が手のひらに沈み、指の間からやわらかく押し返す。
ときどき指先が触れ合い、そこだけ温度を混じる。りぜは「この感触、意外と癖になるかも」と笑い、つられて口元を緩めた。
「均等に混ざったら、空気を抜くように成形してください」
「はーい……あ、キミドリくんの形、きれいだな。俺のちょっといびつ」
「揃えると火の通りが均等になりますから。ほら、ここの端を少し押して……」
自分の手をそっと重ね、形を整える。
指先が彼の手の甲をかすめると、りぜが一瞬だけ息を呑み、それからすぐ笑顔に戻って「なるほどね」とうなずいた。
成形したハンバーグをフライパンに並べると、油が勢いよくジュウ、と音を立てる。
その瞬間、りぜは半歩下がり、俺の背中越しに様子を伺う。
「……やっぱコワ。俺、横から応援する係する」
「ふふ、はい。では、盛り付けはお任せしますね」
焼き面がきつね色に変わり、肉汁がじわりと溢れる。
箸で軽く押すと、ふわっと香ばしい匂いが立ち上り、台所の空気がいっそう食欲を誘った。
焼き上がったハンバーグを皿に移すと、りぜは大根おろしをふんわりとのせ、青じそを添える。
ぽん酢を回しかけると、柑橘の香りがふわっと漂い、二人一緒に小さく息を吸い込んだ。
「……うまそう!」
「ですね、ご飯も炊けましたし、運んでもらっていいですか?」
窓の外はすでに橙から群青に変わり始め、部屋の中には温かい照明と湯気がやさしく満ちている。
たった一緒に料理をしただけなのに、どこかそわそわと浮き足立つ気持ちを落ち着けるように息を吐き出した。
湯気を立てる和風ハンバーグをテーブルに並べ、温かいご飯と玉ねぎの味噌汁を添える。
焼きたての香ばしい匂いが空気に広がり、ぽん酢の爽やかな香りがふわりと鼻先をくすぐる。
照明の下で湯気がゆらゆらと立ちのぼり、白い湯呑が小さく光を返していた。
「いただきます」
「いただきます」
二人同時に手を合わせ、箸を取る。
りぜは真っ先にハンバーグへ箸を伸ばし、切り分けた断面からはじゅわりと肉汁がこぼれていく。
大根おろしと一緒に口へ運んだ瞬間、頬の筋肉が自然と緩み、目を細めて喉の奥で小さく息をもらした表情は、俺にとって嬉しいものだった。
「……やっぱり、キミドリくんの料理は特別に美味い…。優しいのに、ちゃんと味が立ってる」
「それは、光栄です」
淡々と答えても、その一言が胸の奥に静かに染みる。
湯気がふわりと顔に触れ、箸を持つ指先にほんのり熱が伝わってきた。
りぜが味噌汁を口に運ぶたび、湯気が頬を撫で、湯気越しに見える横顔が少し柔らかく揺れる。
食卓に落ち着いた空気が流れたころ、俺は箸を置き、器の縁に指を添えたまま、そっと口を開いた。
「……本日、発売されたボイス、購入いたしました」
りぜが箸を止め、わずかに目を見開く。箸先から一滴の汁が皿に落ち、静かな音を立てた。
「……俺?」
「はい。……Re:noaLくんのボイスだからこそ、買わずにはいられませんでした」
器の縁を指先でなぞる感触が、やけに鮮明に意識に残る。
それは、ファンとしての衝動でもあり、もっと近くで声を聴きたいという、静かな欲だ。
「……ありがと…。なんか、そう言われるの、少し照れるな」
りぜはわずかに視線を伏せ、長いまつげの影が頬に落ちる。
湯気の中でその影が淡く揺れ、唇が小さく緩むのが見えた。
「……あとは、人生で初めてフィギュアを予約しました」
「……もしかして、それも、俺?」
「はい」
短く返すと、りぜは息を吸い、少しだけ目を丸くした。
指先が無意識に箸を転がし、その音がかすかに食卓に響く。
「……そんなふうに言われると、すごく大事にされてる気がする」
その声音には、驚きとほんのりとした温度が混じっていた。
湯気と香り、静かな箸の音が重なり、会話はゆるやかに流れていく。
食事を終えると、りぜは箸を揃えて静かに皿の上に置いた。
「ごちそうさま」と短く告げるその声は、満足感とわずかな余韻を含んでいる。ほんのり上がった口角が、その言葉に嘘がないことを物語っていた。
「片付けますので、りぜくんは少し休んでいてください」
そう言って立ち上がると、椅子が床をわずかに擦る音が響き、温かい空気が背後に残った。
食器を重ね、台所へ運ぶと、流しにあたる水音が心地よいリズムを刻み始める。水面に光が反射して、蛇口から落ちる一滴ごとに小さな輪が広がった。
背後では、椅子から立ち上がる音がして、りぜがゆったりとした足取りで横に来る。
「俺も手伝う」
「いえ、大丈夫です」
「大丈夫じゃない。ほら、俺が拭くから」
そう言って、りぜはタオルを片手に受け取り、横並びで皿を拭き始める。
肩がときどき触れそうな距離で、白い皿がタオルの中で軽く音を立てる。ふと、彼の袖口から覗く手首が視界に入り、濡れた皿の上で光る水滴と同じくらい目を奪われた。
作業の合間に、食器の縁から立ち上るほのかな温もりが指先に残り、それが妙に意識に引っかかる。
「……あのさ」
皿を拭く手を止めずに、りぜがぽつりと話し始めた。
声は柔らかく、水音に溶けるように耳へ届く。
「こうやって一緒に片付けるの、なんかいいな。静かで……でもちゃんと会話できる感じ」
「……そう、ですね」
短く返すと、りぜは少しだけ笑って、タオルを新しい皿へと移した。
布の端が皿を撫でるたび、くぐもった摩擦音が小さく響く。
水滴が落ちる音と、拭き取られる布の擦れる音だけが静かに重なり、まるで音楽のように流れていく。
隣には推しの声があり、過ぎる贅沢をじんわりと噛み締める。
全て片付け終わる頃には、夜の空気が少し冷たく感じられた。
窓の外では街灯がぽつぽつと灯り始め、カーテン越しに柔らかい光が差し込んでいる。外を通る車のライトが一瞬だけ部屋をかすめ、壁の影がゆらりと揺れた。
「そういえば……」と、りぜが唐突に口を開いた。
「今度の配信でさ、ファンから送られたボイスの感想読む回やるんだ。……キミドリくんも、送ったら?」
「……それは、匿名であれば」
「匿名でも、俺はたぶんわかるけどな」
その言葉に、思わず手元のマグカップを握る指先に力が入る。陶器の表面がひんやりしているのに、掌の内側だけじわりと熱を帯びていく。
温もりが掌に広がり、耳の奥までほんのり熱が届く。
りぜはそんな様子に気づいたのか、気づかないのか、ソファに腰を下ろし、足を投げ出してくつろいだ。
その姿は、何もかも自然で、こちらの反応など特別意識していないように見える。足首を軽く揺らしながら、テーブルの上に置いたスマホへ指先を伸ばした。
「……じゃあ、送らないでおきます」
「えー、つまんない」
不満げに口を尖らせたあと、彼は手元のスマホを弄り始めた。
画面の明かりが頬に反射して、その横顔を淡く照らす。長いまつげの影が頬に落ち、その影が微かに瞬きをするたび揺れた。
この日常が、当たり前のように続いてほしい——そう思った瞬間、胸の奥に静かな熱が宿った気がした。
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