第19話推しと後輩

 夕方になる頃、部屋の窓から差し込む光が少しずつ赤みを帯びてきた。

 Re:noaLの昼配信で中華料理の話をしているのを聞いてたら、RINEに《今日は中華料理食べたい》と入っていた。

 そんなリクエストに応えて台所では弱火で煮込んだ薬膳スープの香りが漂い、テーブルには蒸し鶏と中華風おかずが少しずつ並べ始めていた。香味野菜をさっと湯通しした皿の上で、湯気が優しく立ちのぼる。包丁の音が規則的に響くなか、まるで空間そのものが静かに食卓の準備を待っているようだった。


 いつものように支度を進めていると、背後からりぜが顔を覗かせる。

 柔らかな足音に続いて、髪を束ねたままの無防備な彼がひょこっと覗き込んできて、空気がふわりと和らいだ。


「キミドリくん……あのさ、ちょっと言い忘れてたことあるんだけど……」


「はい?」


「今日、しゅうやが来るって。さっき連絡きた」


 俺は一瞬手を止めて、思わず振り返った。

 鍋の湯気越しに見るりぜの顔は、申し訳なさそうに口元を引き結んでいたけれど、どこか嬉しそうでもあった。


「……事前に言ってくれれば、もう一品増やせたのに…」


「はは、ごめんごめん。あ、でも昼配信で中華の話してたのは向こうも聞いてたみたいで、ちゃんと今日は中華料理って伝えてある。喉にやさしいやつって」


 その言葉に、俺は肩の力を抜いて小さく笑った。

 彼の“ごめん”が、あまりに軽くて無邪気で、怒る気も失せる。


「……了解です。では、準備を整えますね」


 中華といっても、今日は和風出汁を利かせたやさしい味付けにしてある。生姜の効いた鶏団子スープと、豆腐のあんかけ、にんじんのナムル風。すべて油を控えめに、喉に負担のかからないものばかり。

 部屋には湯気とともにやわらかな香りが広がり、まるで癒しの気配が立ちのぼるようだった。


 玄関のチャイムが鳴ったのは18時半を少し過ぎたころだった。

 空はすでに夕闇を帯び、部屋の中では淡いオレンジの照明が静かに灯っていた。


「あ、来た!」


 りぜが駆け足でドアを開けると、そこにいたのは、ふんわりした前髪と目尻の柔らかさが印象的な草食系男子VTuber、Shuya。アバターそのままの、あどけない雰囲気をそのまま纏った青年だった。

 白いTシャツの上にはラフなパーカー、肩に掛けたトートバッグが少し斜めにずれている。


「おじゃましまーすっ……って、えっ!? ここって、ノアさんの……自宅!?え?!ゴミ袋の山は?!」


 玄関で固まるShuyaが、俺を見てぱちぱちと目を瞬かせる。目を見開いて、指を交互にりぜと俺に向けてくる様子に、思わず喉の奥で笑いがこみ上げた。


「あっ!マネさん……ほんとに同居してるの!?」


 思わず笑いそうになりながら、俺は一歩前に出て軽く頭を下げた。

 彼の驚きがそのまま空気を明るく染めて、緊張を溶かしてくれる。


「はい、短期ではありますがマネージャーの喜緑と申します。本日はようこそお越しくださいました。食事の準備も出来てます、どうぞ」


「マジか…!えっ、すごいですね!?執事出身??なんか、アニメの中みたい……!」


 Shuyaがわたわたと靴を脱いでリビングへ入っていく横で、りぜがくすっと笑った。

 部屋の奥からは炊きたてのごはんの匂いが立ち上り、食卓の湯気が優しく迎えている。


「風呂もあるし、泊まってっていいよ。ごはんも、キミドリくんがめっちゃ美味しくしてくれてるから」


「えぇー!!いいな、俺もキミドリさん欲しい!!」


 そう言ったかと思うと、りぜがするりと俺の背後に回り込んだ。

 素早く気配が近づいてきたかと思えば、急に体が温もりに包まれる。


 不意に、後ろからそっと両腕が回される。腰にあたたかな感触が添えられて、動揺する暇もなく、りぜが軽く顔を寄せて耳元でささやいた。

 体温が、やけに近くてくすぐったい。息づかいが肌に触れそうなほどの距離にあって、瞬間、全身が熱を帯びる。


「俺のでーす、だめ~」


 息がかかる距離で、冗談めかして笑いながら、少しだけ抱く力が強くなる。

 軽いふざけにも似た甘さに、呼吸が一瞬止まった。


 急に動けなくなった俺は、言葉を探して口を開くこともできないまま、背中越しに彼の鼓動と体温を感じていた。

 腕の中で聞こえる、鼓動がやけに近い。


「えっ……えっ!?ちょ、ちょっ……え!? えー!? えっ!!!??」


 Shuyaが両手をバタバタさせて飛び跳ねるように反応する。

 興奮で顔が真っ赤になり、思わずスマホを取り出しかけているのが見えて、さらに苦笑した。


「職権乱用!?ちょっ、ちょっと待って!? 今の俺、見なかったことに……できない……!配信で言っていい?!」


 りぜはそんなShuyaの騒ぎっぷりを楽しむように笑い、やがて俺の腰から手をすっと離した。

 名残惜しそうに、でもさりげなく自然に。


「さ、キミドリくん。そろそろごはんの時間じゃない?」


 俺は心拍の落ち着かないまま、小さく咳払いをして返事をした。

 耳の先まで熱くなっていたのを、スープの湯気のせいにしたかった。


「……んん。はいおふたりとも、リビングで待っててくださいね」


 背を向けてキッチンに戻る間も、背中にはまだ、彼の腕のぬくもりが微かに残っていた。

 それはまるで、落ちた羽根がそっと肌に触れていたかのように、心に残るやわらかさだった。


 食卓に並べられた湯気たつ料理たちが、リビングの空気をやわらかく満たしていく。

 電球色の照明がテーブルを優しく照らし、陶器の器の縁がほのかに光を返している。

 ほかほかと湯気を立てる薬膳スープ、きらきらと照りの入った中華風蒸し鶏、湯通しした青菜のあえもの、そして甘みを残したにんじんのナムル風——喉にやさしい、けれど滋味あふれる料理たち。


「いただきます!」


 手を合わせて一番に声を上げたのはShuyaだった。目をきらきらと輝かせて、スプーンを手に取ると、いの一番にスープをひと口。


「っっ……ん!? なにこれ、え、え、えっ、喉通った!? 喉が開いた!!! えっ!? 何これすごい……薬膳って苦いイメージあったのに……!?」


 ひと口ごとに感想が止まらず、感動が全身に漏れているのが伝わってくる。

 スープの表面には細かいごま油が控えめに浮き、生姜と鶏の香りが鼻に抜ける。Shuyaはその度、眉を上げたり、口元をくにゃっと緩めたり、大忙しだった。


「喉、通りましたか? 今日のは和風出汁をベースにして、棗とクコの実は風味づけだけ。干し椎茸と昆布も少し使ってます」


「何それ優しすぎるでしょ!? ……っはあ〜、生き返るぅ……!」


 まるで温泉にでも浸かったかのような恍惚の表情で、彼は椅子にぐでんと身を預けた。

 そんな姿を、りぜが口元を緩めながら横目で見ている。


「しゅうや、リアクション大げさすぎ」


「だってほんとに美味いんですよっ!?てか、ノアさんこのスープ毎日飲んでるんすか?」


「このスープとは別のは飲んでる。キミドリくんのは全部やさしい味だから、飲んでて疲れないんだよね」


 りぜはそう言いながらも、手に取った小鉢の中の青菜に箸を運んでいた。

 それを見て、俺は小さく目を見張る。


「……あれ、ノアさん。野菜。苦手ってこの間の企画で言ってませんでしたっけ」


「ん。ふつうは無理。でも、キミドリくんのなら……なんか、食べられるんだよね。不思議」


 青菜をくるりと巻いて口に運び、咀嚼するたびに視線がふわっと落ち着いていく。

 あの偏食気味のりぜが、文句ひとつ言わず野菜を食べている光景は、なんというか、胸にあたたかい火が灯るようだった。オタク冥利に尽きる。


「え、それすごくないですか?……ねぇキミドリさん、付き合ってるんですか?って聞いたら怒られます?」


「しゅうやくん」


「ごめんなさいごめんなさい調子乗りました」


 小皿に盛った豆腐のあんかけを抱えながら、Shuyaは自ら顔を伏せた。だが次の瞬間にはすぐ持ち直し

「でもマジで、ごはんが全部喉に沁みてくる感じで、感動してます」

と、真顔で語ってくれる。


 テーブルの真ん中には、炊きたての白米を小さな羽釜で用意していた。湯気がふわっと上がり、木の香りと甘い米の香りが重なって、食欲をそそる。


「このご飯も、なんか甘い……米が美味い……日本人で良かった……俺、今日からここに住んでいいですか……」


「だーめ。ここ、俺んち」


 さらりと返すりぜの声が、どこか上機嫌だった。

 食卓を囲んだ3人の空気は、湯気と笑い声に包まれて、穏やかで、あたたかい。

 スプーンや箸が器に触れるたびに、静かに響く音が、今この場所の満たされた空気を形にしているようだった。


 カチャカチャと音を立てるShuyaの箸は止まることを知らず、どの料理にも「うまっ…!」という呟きが挟まれる。

 それを見て、俺は器に取り分ける分量を少しだけ増やした。食べる人が喜んでくれると、作る手にも自然と力が入る。


「……ごちそうさまって言うのが惜しい……」

 Shuyaがふっと息を吐いて椅子にもたれたとき、部屋の外では、夜風がカーテンをかすかに揺らしていた。


 深くなる夏の夜。窓の外の光は少しずつ滲み、部屋の中の灯りだけが、ほんのりと灯る火だまりのように暖かかった。

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