第2話 猿みたいになる!

 中学2年の夏、小池強志は学校の課外活動で、近くの老人ホーム「すずらん苑」へボランティアに行くことになった。雑巾がけや、入居者との会話。最初は気が重かったが、年老いた人々の語る戦争や農業の話に、次第に興味を持つようになった。


 だが、そこにも“あいつ”がいた。


 津田翔吾――小池を“ヨボヨボ”と呼び、ことあるごとに背中を叩いて笑いものにしてくる、同じクラスの憎き存在。


「うわ、小池、またジジイと話してるよ。お前の仲間か? もう棺桶入っとけって~」


 入居者の前でも容赦ない。昼休みに用具入れに閉じ込められた日、小池は誰にも見られないように、そっと泣いた。手に持っていた老人の手記が、床に落ちて静かに開いた。


 その日の夜、小池は家に帰って、ふとテレビをつけた。画面には、甲冑を身にまとった男が映っていた。


> 「わしのような者でも、天下が取れるのじゃ――!」



 それはNHK大河ドラマ『秀吉』。サルと呼ばれた男が、持たざる者として泥を這い、信長に仕えてのし上がっていく姿だった。


 気づけば、小池は食い入るように画面を見つめていた。


「……あいつも、最初は“ヨボヨボ”だったんじゃないか?」


 サル、裸足、百姓の子――そんな蔑まれた存在が、ついには太閤と呼ばれる存在にまでなった。秀吉の笑顔と眼の奥の炎に、小池は初めて自分と重ねられる“英雄”を見た。


> 「俺も……なってやる。秀吉みたいに。見返してやるんだ、絶対に」



 その日から、小池は変わった。図書室で日本史の本を読み漁り、老人たちからも戦国時代の話を聞くようになった。秀吉の生き様を、ひとつの“教科書”として、心の中で何度も反芻した。


 津田にいじられても、笑い返すようになった。


> 「おう、わしは“サル”だ。だが、サルが天下を取るって知ってっか?」


 津田は一瞬、意味がわからずに眉をひそめた。だがその瞬間、小池の中に、確かに「何か」が宿りはじめていた。



 1996年、夏。

 水戸の空に、容赦ない蝉時雨が降り注いでいた。アスファルトは陽炎を立ち上らせ、駅南の再開発地域では重機の唸り声が蝉の声に溶けていた。


 その日、芹沢慎司はスーツの上着を脱ぎ、ワイシャツの袖をまくったまま、廃ビルの一室にいた。エアコンはない。室内の空気は淀んで重く、壁に貼られたホワイトボードには、政治家の顔写真と地元新聞の切り抜きが何枚もピンで留められている。


 その中心に記された赤字――「水戸市議・梶谷正一」。

 彼は“再開発利権”のキーマンだった。

 表向きは改革派を装いながら、裏では建設会社と癒着し、巨額の金を動かしていた。


「――時間だな」


 慎司が呟くと、隣室のドアがノックされた。現れたのは、黒のスーツに身を包んだ若い男。耳には無線機、足元は地下足袋。元・陸自空挺団の経歴を持つ“処理屋”――**葉山龍一はやまりゅういち**だった。


「梶谷、今夜9時。京成百貨店の屋上で裏取引っす」

「誰とだ?」

「地元の建設業者、磯浜興業。裏にいるのは、関東六龍会の若頭・青柳」


 慎司は黙って立ち上がった。デスクの引き出しから、黒革の手袋を取り出す。

 そして再び、あの鎖鎌の箱に視線を落とした。


> 「政治も暴力も、表と裏は紙一重だ。なら、俺が“裏”から全部書き換える。」



 その晩。

 百貨店の屋上に現れた梶谷と青柳は、ふと背後に気配を感じたときにはすでに遅かった。

 宙を切る音。鉄鎖が空を裂き、梶谷の腕に巻きつき、足をすくった。

 地面に叩きつけられた梶谷を、白いマスクの男が見下ろす。


 ――慎司だった。


「梶谷、お前の正義は口先だけだ」

「ま、待て……!誰かに頼まれたのか?それとも……」


 その問いに答えることなく、鎖鎌が地を這うように回転し、青柳の喉元を裂いた。

 返り血が慎司の頬にかかる。


 夜の闇に、蝉の声が遠ざかる。

 

---


 夜が明け、慎司は再びイベント会社「RING Promotions」の表玄関から姿を現した。

 スーツを新調し、記者会見に臨む。


「私たちは、新しい水戸の都市文化を創ります。クリーンで、開かれた街を――」


 カメラのフラッシュの裏で、鎖鎌の鈍い光が静かに眠っていた。


 平成の維新は、始まったばかりだった。

 



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