第18話 妖猫とふたつの誕生日



 月読茶房に、珍しく華やかな客が訪れた。


 艶やかな黒髪に猫の耳、しなやかに揺れる尻尾。紅色の振袖に金の帯を締めた妖猫族の娘が、店の前で躊躇っていた。


「あの、すみません……」


 か細い声に気づいた巫(かなめ)が扉を開けると、猫娘は驚いたように飛び上がった。


「ひゃっ! あ、あの、ここは特別な茶房だって聞いて……」


「ようこそ、月読茶房へ。どうぞお入りください」


 巫の穏やかな声に安心したのか、猫娘は恐る恐る店内に入ってきた。きょろきょろと辺りを見回す様子は、まさに猫そのものだった。


「初めまして。ラネと申します」


 カウンターに座ったラネは、急に目を輝かせた。


「あの、お願いがあるんです! 誕生日のお茶って、作っていただけますか?」


「誕生日?」アカリが興味深そうに尋ねた。「今日がお誕生日なの?」


「はい!」ラネは嬉しそうに頷いた。「今日で十八歳になりました! 大人の仲間入りです!」


 その笑顔があまりにも眩しくて、クウも厨房から飛び出してきた。


「おめでとうございます! 十八歳かぁ、いいなぁ」


「ありがとう! 実はね、人間の街で誕生日ケーキっていうのを見て、すごく憧れちゃって。でも甘いものは苦手で……だからお茶でお祝いしたいなって思ったの」


 巫は微笑みながら、特別な茶葉を選び始めた。若々しさと希望に満ちた、華やかな花茶がいいだろう。


「素敵な十八歳の記念日になるよう、心を込めて煎れさせていただきますね」


 茶の準備をしながら、巫はラネの様子を観察していた。華やかな着物、丁寧に結い上げられた髪、爪先まで手入れの行き届いた様子。まるで特別な日のために、念入りに準備してきたかのようだった。


「十八歳って、人間界だと大人の仲間入りなんですよね?」ラネは楽しそうに話し続けた。「私もついに大人! これからは誰にも子ども扱いされないんです!」


 その時、天井から銀糸が降りてきた。ラネの前でくるくると回り始め、複雑な模様を描いていく。


「あら、可愛い蜘蛛さん」ラネが手を伸ばそうとした時、巫は銀糸の動きに気づいて息を呑んだ。


 銀糸が示していたのは数字。それも一つではない。1と8、そして……8と8。


「ラネさん」巫は慎重に声をかけた。「失礼ですが、本当に十八歳ですか?」


 ラネの笑顔が、一瞬にして凍りついた。


「も、もちろんです! 今日で十八歳! ほら、こんなに若々しいでしょ?」


 慌てて立ち上がり、くるりと回って見せるラネ。しかし、その尻尾が正直に感情を表していた。不安げに、申し訳なさそうに、小さく震えている。


 巫は優しい笑みを崩さないまま、完成した茶を差し出した。


「どうぞ。十八歳の誕生日を祝う、特別な花茶です」


 ラネは恐る恐る茶碗を手に取った。桜と梅の花びらが浮かぶ、美しい薄紅色の茶。香りを確かめ、そっと口をつける。


 次の瞬間、ラネの目から大粒の涙が溢れ出した。


「美味しい……すごく美味しい……でも、でも……」


 震える手で茶碗を置き、ラネは顔を覆った。


「ごめんなさい。私、嘘をついていました」


 しゃくりあげながら、ラネは顔を上げた。涙で化粧が崩れ、素顔が露わになる。


「本当は……本当は、八十八歳なんです」


 静かな店内に、ラネの嗚咽だけが響いた。


 クウが驚いて口を開けたが、アカリがそっと制した。巫は変わらぬ優しさで、ラネが落ち着くのを待った。


「妖猫族は長生きで、二百歳くらいまで生きるんです」ラネは涙を拭きながら話し始めた。「でも、見た目は二十歳くらいで成長が止まっちゃって……」


 震える声には、長い年月の重みが滲んでいた。


「最初は嬉しかったんです。いつまでも若くて綺麗でいられるって。でも……」


 ラネの肩が小さく震えた。


「人間の友達ができても、みんな年を取っていく。私だけが若いまま。気がつけば、友達はみんな私より年上に見えるようになって、やがて……」


 言葉が途切れた。その先を言うのが、辛すぎるかのように。


「だから私、十年ごとに街を変えて、新しい人生を始めることにしたんです。いつも十八歳として。新しい街で、新しい友達を作って、また十年経ったら次の街へ」


「それで今回も……」


「はい。この街に来たばかりで、また十八歳として生きることにしたんです。でも……」


 ラネは震える手で、もう一度茶碗を取った。


「本当の誕生日を祝ったのは、もう何十年も前。誰も私の本当の年齢を知らないし、知ったら怖がられるか、羨ましがられるか……普通に接してもらえなくなる」


 巫は立ち上がり、新しい茶葉を取り出した。


「では、改めて。八十八歳の誕生日を祝う茶を煎れさせていただきます」


「え?」


 ラネが驚いて顔を上げた。その瞳には、希望と不安が入り混じっている。


「でも、八十八歳だなんて……」


「八十八年という時間は、とても尊いものです」巫は穏やかに言った。「それだけの時を生き、多くの出会いと別れを経験してきた。その全てが、今のラネさんを作っているんです」


 巫が新たに選んだのは、古い茶壷の奥にしまわれていた茶葉だった。長い年月をかけて熟成され、若い茶葉にはない深みと豊かさを持つ『時の薫』。


 丁寧に、敬意を込めて、巫は茶を煎れていく。


「年を重ねることは、確かに怖いことでもあります」


 茶を煎れながら、巫は静かに語った。その声には、自身の痛みも滲んでいた。


「失うものも多い。大切な人との別れも経験する。でも……」


 巫の手が、一瞬止まった。脳裏に、永遠に十五歳のままの妹の姿が浮かぶ。


「年を重ねられることは、生きている証でもあるんです。時間と共に深まる思い出、積み重なる経験、それら全てが宝物です」


 新しい茶が完成した。深い琥珀色をした、時間の重みを感じさせる茶。立ち上る香りには、熟成された深みがあった。


「八十八歳のラネさんに」


 巫は恭しく茶を差し出した。


 ラネは震える手で茶碗を受け取り、一口含んだ。


 瞬間、彼女の中で何かが解き放たれた。


「これは……私の、私の八十八年が……」


 茶の中に溶けていたのは、ラネ自身も忘れかけていた記憶の数々だった。


 初めて人間の街に出た日の緊張。初恋の甘酸っぱさ。親友との他愛ない会話。見送った友人たちの笑顔。新しい街での出会い。別れの涙。そして、その全てを経験してなお、前を向いて生きてきた自分自身の強さ。


「私、ちゃんと生きてきたんだ」


 ラネの声は、涙で震えていた。でも、それは悲しみの涙ではなかった。


「八十八年、ちゃんと生きてきた。友達を作って、恋をして、泣いて笑って……全部、私の大切な時間だった」


「そうです」巫は優しく頷いた。「全て、ラネさんの宝物です」


 その時、クウが奥から小さなケーキを持ってきた。


「あの、これ……猫族でも食べられる甘さ控えめのやつです。八十八歳のお誕生日、おめでとうございます!」


「まあ!」


 ラネの顔が、初めて心からの笑顔に輝いた。年齢を偽る必要のない、素直な喜びの表情。


 小さなろうそくに火を灯し、みんなで誕生日の歌を歌った。八十八本は多すぎるので、8と8で二本のろうそく。


「お願い事は?」アカリが優しく尋ねた。


 ラネは少し考えてから、ろうそくを吹き消した。


「もう叶いました。本当の私を受け入れてくれる場所があったから」


 その夜、ラネは何度も自分の本当の年齢を口にした。


「私、八十八歳なの」


 そのたびに、肩の力が抜けていくようだった。長年背負っていた嘘の重みから、少しずつ解放されていく。


「来年は八十九歳ね」巫が言った。「その時も、ぜひいらしてください」


「本当に? 八十九歳の誕生日も祝ってくれるの?」


「もちろんです。百歳も、百五十歳も、二百歳も」


 ラネは涙ぐみながら、深々と頭を下げた。


「ありがとう。本当にありがとう」


 帰り際、ラネはふと立ち止まった。


「あの、巫さん」


「はい?」


「年を重ねるって、怖くないですか?」


 巫は少し考えてから、正直に答えた。


「怖いです。でも、それ以上に……」


 月光が、巫の銀髪を優しく照らした。


「生きていることに、感謝しています。年を重ねられなかった人の分まで、しっかりと生きていこうと思っています」


 ラネは理解したように頷き、月夜の中へと歩いていった。その足取りは、来た時よりもずっと軽やかだった。


 巫は後片付けをしながら、ふと思った。


 妹は永遠に十五歳。自分だけが年を重ねていく。その罪悪感と寂しさを、ずっと抱えていた。


 でも、ラネの笑顔を見て気づいた。年を重ねることは、妹の分まで生きることでもあるのだと。


 銀糸が巫の肩に止まり、優しく寄り添うように糸を震わせた。


「ありがとう、銀糸。私も、ちゃんと年を重ねていくわ」


 月は変わらず空に浮かんでいる。でも、その下で生きる者たちは、確実に時を重ねていく。


 それを恐れるのではなく、愛おしく思える日が、いつか来るかもしれない。


 八十八年を生きた妖猫の笑顔が、そう教えてくれた夜だった。

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