第17話  嵐の中のティーマスター



 嵐が月読茶房を襲った夜、一人の男が扉を押し開いた。


 風に煽られて激しく揺れる扉を、やっとの思いで閉めた男は、荒い息を整えながら店内を見回した。三十代前半、旅装束の上に防水の外套を羽織り、背中には大きな荷物を背負っている。


「失礼します!」


 男の声は、嵐の轟音に負けないよう大きく響いた。巫(かなめ)は穏やかに微笑み、手招きで男を店内へと誘った。


「大変な夜にようこそ。どうぞ、荷物を下ろしてください」


 男は礼を言いながら、重そうな荷物を床に置いた。その瞬間、巫の鼻腔に懐かしい香りが漂ってきた。上質な茶葉の香り。しかも一種類ではない。


「ありがとうございます。この嵐では、とても先へは進めそうになくて」


 外套を脱いだ男の腰に、小さな札が下がっているのが見えた。巫はその札に刻まれた文字を読み取る。『流雲庵』──喫茶師の証だった。


「もしかして、同業の方ですか」


 巫の問いに、男は驚いたような、それから理解したような表情を浮かべた。


「ええ、そうです。ソウと申します。諸国を巡りながら、茶を煎れている者です」


 男──ソウは懐から札を取り出し、正式に見せた。年季の入った札には、幾つもの地方の印が押されている。


「なるほど、ここが噂に聞く境界の茶房でしたか」


「ご存知なのですか」


「ええ。旅の途中で何度か耳にしました。月に選ばれし者だけが辿り着ける、特別な茶房があると」


 クウが興味深そうに厨房から顔を出し、アカリも珍しい来客に目を輝かせていた。同じ茶を生業とする者の来訪は、茶房始まって以来のことだった。


「一晩、雨宿りをさせていただけませんか」


「もちろんです。ついでに、温かいお茶でも」


 巫がいつものように茶の準備を始めようとした時、ソウが挑戦的な笑みを浮かべた。


「それなら、提案があります」


 カウンターに両手をつき、ソウは巫の目を真っ直ぐに見つめた。


「お互いに一杯ずつ、茶を煎れ合いませんか。同業者同士の、ささやかな交流として」


 店内の空気が変わった。


 クウが息を呑み、アカリは二人の間に流れる緊張を感じ取った。銀糸も天井から降りてきて、様子を窺うように糸を震わせている。


 巫は一瞬の沈黙の後、微笑んだ。


「面白いご提案ですね。お受けしましょう」


 二人は向かい合い、それぞれの準備を始めた。


 ソウは慣れた手つきで荷物を解き、道具を取り出していく。小ぶりで頑丈な急須、幾つもの小箱に収められた茶葉、折り畳み式の風防、携帯用の茶杓。すべてが機能的で、長い旅に耐えうる作りをしていた。


 対する巫は、いつも通り月の石の茶器を並べる。繊細で優美な急須、透き通るような茶碗、銀の茶杓。定住の茶房ならではの、洗練された道具たち。


「では、私から失礼します」


 ソウが最初に選んだのは、深い緑色をした茶葉だった。


「これは東の山で摘んだ野生茶です。人の手が加わっていない、自然のままの茶葉。荒々しいですが、だからこそ力強い味わいがあります」


 ソウの手つきは素早く、無駄がなかった。湯の温度を手の甲で確かめ、茶葉の量を目分量で測り、急須に湯を注ぐ。その所作には、数えきれない土地で、数えきれない人々に茶を振る舞ってきた経験が滲んでいた。


 茶を蒸らす間、ソウは語った。


「旅をしていると、毎日違う水、違う環境で茶を煎れることになります。同じ茶葉でも、場所によって全く違う味になる。それが面白くて、この仕事を続けています」


 巫は興味深そうに聞いていた。定住の茶房で、同じ水、同じ環境で茶を煎れ続ける自分とは、正反対の在り方だった。


「はい、どうぞ」


 差し出された茶碗を、巫は両手で恭しく受け取った。


 一口含んだ瞬間、巫の表情が変わった。


 確かに荒々しい味だった。洗練さとは無縁の、野趣あふれる味わい。しかしその奥に、大地の力強さ、風の爽やかさ、太陽の温もりが感じられた。


 そして何より──


「旅の記憶が、溶け込んでいますね」


 巫の言葉に、ソウは嬉しそうに頷いた。


 茶の中には、ソウが歩いてきた道のりが詰まっていた。山道を歩く靴音、川のせせらぎ、焚き火を囲む夜、満天の星空、出会いと別れ、笑顔と涙。


「素晴らしい」巫は素直に賞賛した。「まさに、旅の茶です」


「ありがとうございます。では、次はあなたの番です」


 巫は少し考えてから、棚の奥から特別な茶葉を取り出した。月光のような銀色に輝く『月の雫』。月読茶房でしか手に入らない、希少な茶葉だった。


「これは、満月の夜にだけ摘むことができる茶葉です。月の光を浴びて育ち、月の力を宿しています」


 巫の手つきは、ソウとは対照的だった。ゆっくりと、瞑想的に、まるで儀式を執り行うかのように。月の石の急須に茶葉を入れ、温度を慎重に測った湯を注ぐ。


 その所作は優美で、見る者の心を落ち着かせる何かがあった。嵐の音さえも遠のいていくような、不思議な静寂が茶房を包む。


 茶を蒸らす間、巫は口を開いた。


「私は、ずっとこの場所で茶を煎れています。訪れる方を待ち、その方に必要な茶を差し出す。それが私の──」


 言葉を切り、巫は完成した茶をソウの前に置いた。


「どうぞ」


 淡い金色の茶を、ソウは慎重に口に運んだ。


 次の瞬間、ソウの目が大きく見開かれた。


「これは……」


 ソウの口の中に広がったのは、ただの味ではなかった。静寂、安らぎ、そして深い深い優しさ。まるで長い旅の果てに辿り着いた、安息の地のような味わい。


 だがそれ以上に驚いたのは──


「記憶が、溶けている」


 ソウの声は震えていた。


「あなたの記憶が、感情が、この茶の中に」


 巫は静かに頷いた。


「私の茶は、記憶と感情を煎れることができるのです。それが、月読茶房の茶です」


 二人の間に、長い沈黙が流れた。外では嵐が最も激しい時を迎えているはずだが、茶房の中は不思議な静けさに包まれていた。


「なぜ」


 ソウが口を開いた。


「なぜ、旅をしないのですか。これだけの技術があれば、もっと多くの人に茶を届けられるはずだ」


 巫は答えに詰まった。


 確かにソウの言う通りだった。自分の茶は、もっと多くの人を救えるかもしれない。なのになぜ、自分はこの場所に留まり続けているのだろう。


「私は……待っているのかもしれません」


「何を?」


「分かりません。ただ……」


 その時、巫の脳裏に記憶が蘇った。


 月の巫として各地を巡っていた日々。人々の記憶を操作し、都合の悪い真実を消去し、時には幸せな思い出さえも奪った。すべては世界の均衡のためと信じて。


 そして最後の任務。妹の存在を、世界から消し去らなければならなかった、あの夜。


「私は昔、動き続けていました」


 巫の告白が始まった。嵐の音が、その重い言葉を包み込む。


「月の巫として、世界中を巡っていました。人々のため、世界のためと言いながら……でも本当は、逃げていたのかもしれません」


「逃げる?」


「自分のしていることの重みから。立ち止まって考えることから」


 巫の手が震えた。


「だから今は、ここに留まっています。訪れる人を待ち、その人に必要な茶を煎れる。それが私の──」


「贖罪ですか」


 ソウの問いに、巫は首を振った。


「いいえ。祈り、です」


 ソウの表情が和らいだ。理解の光が、その瞳に宿る。


「なるほど。動く祈りと、留まる祈り」


 ソウは立ち上がり、巫に向かって手を差し出した。


「もう一度、今度は一緒に茶を煎れませんか」


 巫は驚きながらも、その手を取った。


 二人は並んで立ち、一つの茶を作り始めた。ソウの茶葉と巫の茶葉を混ぜ、二人で一つの急須に向かう。動と静、自由と献身、二つの哲学が溶け合っていく。


「いい香りだ」


 ソウがつぶやき、巫も頷いた。立ち上る香りは、どちらの茶葉だけでは生まれない、新しい調和を持っていた。


 完成した茶を、二人は分け合って飲んだ。


 言葉では表現できない味だった。旅の自由と、待つことの深さ。広がることの喜びと、留まることの強さ。相反するようで、実は同じ本質を持つ二つの在り方が、一つに溶け合っていた。


「ありがとう」


 ソウが静かに言った。


「大切なことを教わりました。茶を煎れることは、確かに祈りなのですね」


「こちらこそ。私も初めて気づきました。茶を煎れることが、私にとっての祈りだということに」


 嵐はいつの間にか収まり、雲の切れ間から月が顔を覗かせていた。


 翌朝、ソウは旅立つ準備を整えていた。


「また会えますか」


 巫の問いに、ソウは笑顔で答えた。


「ええ、きっと。今度は私が、もっと多くの記憶を集めて帰ってきます」


「私は、ここで待っています。新しい茶を用意して」


 二人は固い握手を交わした。同じ茶を愛する者同士の、深い理解と敬意を込めて。


 ソウの姿が朝靄の中に消えていくのを見送りながら、巫は思った。


 動くことも、留まることも、どちらも等しく尊い。大切なのは、その選択に誇りを持ち、真摯に向き合うこと。


 茶を煎れることは、自分にとっての祈り。


 その確信を胸に、巫は新しい一日の準備を始めた。今日もまた、月に導かれた誰かが、この茶房を訪れるだろう。その人のために、心を込めて茶を煎れよう。


 それが、自分の祈りなのだから。

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