第5話 月夜に溶ける嘘
鏡が、割れる音がした。
月読茶房の扉を開けた瞬間、床に何かが落ちて砕けた。振り返ると、そこには誰もいない。ただ、割れた手鏡の破片だけが、月光を反射して輝いていた。
「申し訳ございません」
声は、どこからともなく聞こえてきた。姿は見えない。いや、見えているのかもしれないが、認識できない。
「私の不注意で、大切な鏡を……」
巫は、落ち着いて破片を拾い始めた。
「お怪我はありませんか?」
「え?」
声の主は、明らかに動揺していた。
「私のこと、気にしてくださるのですか?」
「当然です。月読茶房にいらしたお客様ですから」
沈黙が流れた。そして、ゆらりと空気が歪む。
精霊だった。透明に近い身体を持つ、風の精霊。よく見れば、輪郭だけがぼんやりと見える。
「私は、カルナ」
精霊は、恥ずかしそうに名乗った。
「詐欺師の、カルナです」
詐欺師。その言葉に、巫の胸がちくりと痛んだ。
「詐欺師、ですか」
「はい。他人になりすまして生きています。この姿も、本当の私ではありません」
カルナの姿が、少しずつ変化していく。若い女性、老人、子ども、獣人……次々と姿を変えていく。
「私には、固定された姿がないんです。だから、いつも誰かの振りをして……」
巫は、静かに茶器を準備し始めた。何も言わず、ただ丁寧に。
「あの、怖くないんですか?」
カルナが不安そうに尋ねた。
「私は嘘つきです。今この瞬間も、あなたを騙しているかもしれない」
「そうかもしれませんね」
巫は微笑んだ。
「でも、嘘をつく理由があるのでしょう?」
カルナの姿が、一瞬揺らいだ。そして、ぼんやりとした人影の形で固定される。
「……ありません」
小さな声だった。
「理由なんて、もう覚えていません。ただ、本当の自分を見せるのが怖くて」
巫の手が、茶葉を選ぶ動作の途中で止まった。
本当の自分。その言葉が、深く突き刺さる。
——『お姉ちゃんは、本当は誰なの?』
——『月の巫? それとも、ただのお姉ちゃん?』
——『私、どっちのお姉ちゃんも好きだよ』
記憶の中の妹は、いつも真っ直ぐだった。嘘も偽りもない、純粋な瞳で自分を見つめていた。
でも、自分は?
月の巫として、どれだけの嘘をついてきただろう。どれだけの真実を隠してきただろう。
「カルナさん」
巫は、特別な茶葉を取り出した。月影茶。真実を映し出すと言われる、希少な茶葉。
「この茶を飲めば、嘘は溶けます。でも、それは苦しいかもしれません」
「苦しい?」
「はい。真実と向き合うことは、時に嘘よりも辛いものです」
カルナは、震えていた。姿が定まらず、輪郭がぼやけたり濃くなったりを繰り返す。
「でも……もう疲れたんです」
精霊の声には、深い疲労が滲んでいた。
「誰かの振りをし続けることに。名前を呼ばれるたびに、それが自分じゃないと思い出すことに」
巫は頷き、丁寧に茶を淹れ始めた。月影茶は、淹れ方が難しい。温度も時間も、すべてが完璧でなければならない。
そして何より、淹れる者の心が真実でなければならない。
「私も」
巫は、静かに告白した。
「私も、偽って生きていました」
カルナが、はっとしたように巫を見つめた。
「月の巫として、感情を殺して生きていました。妹の前でも、本当の気持ちを隠して」
熱い湯が、茶葉を優しく開かせる。銀色の液体が、少しずつ透明になっていく。
「『大丈夫』と嘘をつきました。『怖くない』と偽りました。『全部うまくいく』と、できもしない約束をしました」
巫の声が、かすかに震えた。
「そして結局、すべてを失いました」
茶が完成した。透明な液体は、まるで月光を液体にしたかのようだ。
「でも」
巫は、カップをカルナの前に置いた。
「真実は、時に優しいものでもあります」
カルナは、恐る恐る手を伸ばした。精霊の手が、初めてはっきりと見える。細い、美しい指だった。
最初の一口。
カルナの身体が、光り始めた。
「あ……」
輪郭が、少しずつはっきりしていく。透明だった身体に、色が戻っていく。
淡い青の髪。銀色の瞳。そして、頬に散る星のような斑点。
「これが……私……」
カルナは、自分の手を見つめた。震える手を。
「醜い……」
「いいえ」
巫は、きっぱりと否定した。
「美しいです。本当のあなたは、とても美しい」
カルナの瞳から、涙が溢れた。精霊の涙は、小さな光の粒となって床に落ちる。
「私、ずっと自分が嫌いでした。この姿も、この声も、全部」
「なぜですか?」
「昔、愛した人に言われたんです。『君の本当の姿は見たくない』って」
巫の胸が、激しく痛んだ。
見たくない。その残酷な言葉が、どれほど深く心を傷つけるか。
「だから、他人の姿を借りて生きてきました。でも……」
カルナは、残りの茶を飲み干した。
「もう、疲れました。嘘をつくことも、隠れることも」
静寂が流れた。
そして、カルナは立ち上がった。その姿は、もう揺らがない。しっかりと、自分自身として存在している。
「ありがとうございました」
深く頭を下げる。
「やっと、自分に戻れました」
「これからは?」
「わかりません。でも、もう他人の振りはしません。カルナとして、生きていきます」
精霊は、懐から小さな瓶を取り出した。中には、虹色に輝く液体。
「これは、真実の雫です。嘘を見抜く力があります。でも、私にはもう必要ありません」
巫は、その瓶を受け取った。
カルナが去った後、茶房には静寂が戻った。
「巫様」
クウが、心配そうに顔を出した。
「さっきの話……」
「ああ、聞いていたのね」
巫は、苦笑した。
「私も、嘘つきなのよ。あなたにも、アカリにも、本当のことを話していない」
「でも」
クウは、真っ直ぐに巫を見つめた。
「巫様は巫様っす。過去がどうでも、今の巫様が好きっす」
その純粋な言葉に、巫の目に涙が浮かんだ。
妹も、きっと同じことを言っただろう。
『お姉ちゃんは、お姉ちゃんだよ』
嘘と真実。
その境界線は、思っているよりも曖昧なのかもしれない。
でも、一つだけ確かなことがある。
いつか、すべての嘘が月夜に溶ける時が来る。その時、自分は本当の自分と向き合えるだろうか。
真実の雫が入った瓶が、月光を受けて静かに輝いていた。
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