第4話 忘却の森と香るジャスミン


血の匂いと、ジャスミンの香り。


月読茶房の扉が乱暴に開かれ、獣人の青年が倒れ込んできた。狼の特徴を持つ大柄な身体は、傷だらけで震えている。


「助け……て……」


巫は素早く立ち上がり、青年を支えた。クウが慌てて駆け寄る。


「同族っす! 狼の獣人っす!」


クウの声には、動揺と心配が入り混じっていた。


「クウ、清潔な布と水を。それから救急箱も」


巫の指示は的確だった。アカリも灯りを増やし、青年の様子がよく見えるようにする。


傷は深くないが、数が多い。まるで森の中を、何かから逃げるように走り回ったような——


「森で……迷った……」


青年が掠れた声で呟いた。


「忘却の森……入っちゃいけないって……でも……」


忘却の森。その名を聞いて、巫の顔が青ざめた。記憶を食らう森。入った者は、少しずつ自分を忘れていくという。


「お名前は?」


巫が尋ねると、青年は苦しそうに眉を寄せた。


「ギル……だと思う。いや、違うかも……覚えてない……」


すでに記憶の侵食が始まっている。巫は青年を椅子に座らせ、すぐに茶の準備を始めた。


「覚えていることを、何でもいいから話してください」


「俺は……兵士だった。誰かを守ってた。大切な誰かを……」


ギルの琥珀色の瞳が、虚空を見つめている。


「でも、誰だったか……どうしても思い出せない……」


その言葉に、巫の手が震えた。


守るべき誰か。その記憶を失う恐怖。それは、自分も知っている感覚だった。


「ジャスミンの香りがした」


ギルが突然言った。


「森の中で、急にジャスミンの香りがして……それを追いかけたら、ここに……」


巫は、棚からジャスミン茶を取り出した。白い小さな花が、ガラス瓶の中で月光を反射している。


なぜだろう。ジャスミンの香りが、自分の記憶も揺さぶる。


——『お姉ちゃん、このお花の香り、好き』


——『ジャスミンよ。月の花って呼ばれているの』


——『じゃあ、お姉ちゃんの花だね!』


胸が、きりきりと痛んだ。妹は、いつもそんな風に無邪気に笑っていた。


「兵士……」


クウが、ギルの傷を手当てしながら呟いた。


「どこの部隊っすか?」


「覚えてない。でも……」


ギルは、首から下げていた認識票を外そうとした。だが、文字が掠れて読めない。まるで、記憶と共に現実も薄れていくかのように。


巫は、慎重にジャスミン茶を淹れ始めた。この茶には、特別な力がある。記憶を呼び覚ます力が。


「誰かが、俺を呼んでた」


ギルが言った。


「『お兄ちゃん』って……いや、違う……『隊長』だったか……」


熱い湯が、ジャスミンの花を優しく開かせる。香りが、茶房全体に広がっていく。


その瞬間、巫の脳裏に鮮烈な記憶が蘇った。


戦場。炎。そして、自分を守ろうとして倒れていく兵士たち。


『巫様をお守りしろ! それが我々の使命だ!』


『でも、隊長!』


『いいから行け! 月の巫を失うわけにはいかない!』


血の匂い。折れた剣。そして——


『お姉ちゃん、怖い』


震える妹を抱きしめながら、自分は兵士たちを見捨てて逃げた。守ってくれた者たちを、置いて。


「……巫様?」


アカリの声で、巫は現実に戻った。涙が、頬を伝っていることに気づく。


「大丈夫です。ただ……」


巫は、完成したジャスミン茶をギルの前に置いた。


「この香りを、深く吸い込んでください。そして、ゆっくりと飲んで」


ギルは、言われた通りにした。ジャスミンの香りが、鼻腔を満たす。


そして、最初の一口を飲んだ瞬間——


「リナ!」


ギルが叫んだ。


「妹の名前だ! リナ! 俺の妹!」


記憶が、堰を切ったように戻ってくる。


「俺は、王国の国境警備隊の兵士だった。妹のリナは、まだ十歳で……」


ギルの瞳に、光が戻ってきた。


「忘却の森に迷い込んだのは、妹を探していたからだ。隣村に薬草を取りに行くって言って、帰ってこなくて……」


巫は、静かに聞いていた。妹を探す兄。それは、どこかで聞いた話のようでもあり、自分自身の物語のようでもあった。


「でも、森に入ったら、どんどん忘れていって……」


ギルは、震える手でカップを握りしめた。


「リナのことまで忘れるところだった。もし、あのジャスミンの香りがなかったら……」


「それは、きっと妹さんが導いてくれたんですよ」


巫は優しく言った。


「大切な人との絆は、どんな魔法よりも強い。忘却の森でさえ、その絆は断ち切れません」


ギルは、涙を流しながら残りの茶を飲んだ。一口ごとに、記憶が鮮明になっていく。


「リナは、ジャスミンが好きだった」


ギルが微笑んだ。


「『お兄ちゃん、この花、月の光で光るんだよ』って」


巫もまた、微笑んだ。だが、その笑顔の奥には、深い悲しみが潜んでいた。


自分も、妹を守れなかった。いや、守ろうとして、もっと大きな何かを失った。


「巫様」


クウが、心配そうに声をかけた。


「ギルさん、もう大丈夫みたいっすけど……」


「ああ、そうね」


巫は、ギルに向き直った。


「妹さんは、きっと無事です。忘却の森は、悪意ある場所ではありません。ただ、記憶を預かるだけ」


「預かる?」


「はい。いずれ、正しい時が来れば返してくれます。だから、諦めないで」


ギルは立ち上がった。傷の痛みも、もう気にならないようだ。


「ありがとうございました。俺、もう一度探しに行きます。今度は、ジャスミンを持って」


巫は、小さな袋を差し出した。中には、乾燥したジャスミンの花。


「これを。きっと、道標になります」


ギルが去った後、茶房には甘い香りだけが残った。


「巫様」


アカリが、静かに尋ねた。


「あなたも、誰かを探していらっしゃるの?」


巫は、窓の外を見つめた。月が、雲の切れ間から顔を出している。


「探しているのか、逃げているのか……自分でもわからないんです」


記憶は、少しずつ戻ってきている。だが、それは必ずしも喜ばしいことばかりではない。


思い出したくない記憶もある。


守れなかった者たちの顔。裏切った信頼。そして、すべての始まりとなった、あの日の選択。


でも、逃げ続けることはできない。


ジャスミンの香りが、まだかすかに漂っている。それは、月の花の香り。月の巫の花の香り。


そして、妹が愛した花の香り。


「明日も、きっと誰かが訪れる」


巫は呟いた。


「そして、また一つ、記憶の欠片が戻ってくる」


それが救いなのか、罰なのか。


答えは、まだ月の向こうに隠されている。

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