第2話 花嫁と不在の茶葉



純白のドレスが、泥と草の汁で汚れていた。


月読茶房の扉を押し開けたエルフの令嬢は、花嫁衣装のまま、荒い息を整えようとしていた。薄い金色の髪は乱れ、頬には涙の跡。それでも彼女の青い瞳には、強い意志の光が宿っていた。


「いらっしゃいませ」


巫は、普段と変わらない調子で迎えた。どのような姿の客人も、この茶房では等しく旅人だ。


「ここは……?」


令嬢は周囲を見回した。和風の内装、月の石の茶器、そして窓から差し込む不思議な月光。


「月読茶房です。月に導かれた方だけが辿り着ける、小さな喫茶店」


「月に、導かれた……」


令嬢は、自嘲するように笑った。


「逃げてきただけなのに。月の女神も物好きね」


巫は黙って、カウンターの椅子を引いた。令嬢は一瞬躊躇したが、重いドレスの裾を引きずりながら腰を下ろした。


「お名前を伺ってもよろしいですか」


「リリィ。リリィ・アルベールよ」


アルベール。エルフ族の中でも、特に格式高い家名だ。巫は頷きながら、茶器の準備を始めた。


「今日は、花嫁姿でいらっしゃったのですね」


リリィの肩が、ぴくりと強張った。


「ええ、そうよ。三時間前まで、結婚式の最中だったから」


「三時間前まで?」


「誓いの言葉の直前に、逃げ出したの」


彼女の声には、悔いも迷いもなかった。ただ、深い疲労だけが滲んでいる。


巫は、棚から茶葉を選び始めた。指先が、いくつかの瓶の前で迷う。この令嬢に必要な茶は何か。慰めか、励ましか、それとも——


「相手は、ドラゴニア商会の御曹司よ」リリィが続けた。「百五十歳も年上で、私のことなんて商売道具としか見ていない。でも、家のためには完璧な縁談」


エルフの寿命は長い。百五十歳の年の差も珍しくはない。だが、リリィはまだ若い。おそらく成人して間もないだろう。


「断ったの。何度も。でも父は聞いてくれなかった。『家のため』『一族のため』って」


リリィの手が、白いグローブを握りしめた。


「あなたに、兄弟はいますか?」


突然の質問に、巫の手が止まった。兄弟。その言葉が、胸の奥で小さな波紋を作る。


「……妹が、いたような気がします」


「気がする?」


「記憶が、曖昧なんです。でも、確かに誰かを守りたいと思っていた。そんな記憶があります」


リリィは、不思議そうに巫を見つめた。そして、小さく微笑んだ。


「私にも、妹がいたの」


過去形であることに、巫は気づいた。


「五年前に、病気で。まだ三十歳だった。エルフとしては、子どものような年齢よ」


巫の手が、無意識に震えた。また誰かを失った話。そして、その記憶が自分の奥底にある何かと共鳴する。


「妹はね、お茶が大好きだった。特に、花のお茶。カモミール、ラベンダー、ローズ……」


リリィの声が、優しさに包まれていく。


「病床でも、『お姉様、今日はどんなお茶を淹れてくれるの?』って。だから私、毎日違う花茶を用意したの」


巫は、ゆっくりと花茶の瓶に手を伸ばした。乾燥した花びらが、月光を受けて淡く光る。


「でも、妹が一番好きだったのは」


リリィの声が、かすかに震えた。


「『お姉様が淹れてくれる』ということ自体だった。味なんて、関係なかったのよ」


巫の脳裏に、突然鮮明な映像が浮かんだ。


小さな手が、自分の手を握っている。病床の少女。いや、違う。これは自分の記憶だ。自分の妹の——


「だから私、結婚なんてできない」


リリィの言葉で、巫は現実に引き戻された。


「妹との約束があるから。『幸せになる』って。誰かの道具として生きるなんて、妹に顔向けできない」


巫は、選んだ花茶をポットに入れた。カモミール、ローズペタル、そして少しのラベンダー。湯を注ぐと、優しい香りが立ち上る。


「リリィさん」


「なに?」


「もし、今あなたの妹さんがここにいたら、何と言うでしょうか」


リリィは息を呑んだ。そして、目を閉じる。


「……『お姉様、また泣いてるの?』って」


涙が、白い頬を伝った。


「『私のために泣かないで。私はお姉様の笑顔が見たいの』って」


巫は、出来上がった花茶をカップに注いだ。琥珀色の液体から立ち上る湯気が、月光の中で虹色に輝く。


そして、カップをリリィの前に置いた瞬間——


巫の手が、激しく震えた。


なぜだろう。この動作を、自分は何度も繰り返していた。病床の誰かのために。震える手で、それでも笑顔で、茶を差し出していた。


『お姉ちゃん、手が震えてるよ』


幼い声が、記憶の底から響いてくる。


『大丈夫? 無理しないで』


「あなた……」


リリィが、巫の震える手を見つめていた。


「あなたも、誰かを失ったのね」


巫は答えられなかった。ただ、震えを止めようと、もう片方の手でしっかりと握りしめる。


「ごめんなさい」リリィが慌てて言った。「私、無神経なことを……」


「いいえ」


巫は、優しく微笑んだ。


「あなたの妹さんの話を聞いて、私も思い出したんです。大切な人のために茶を淹れることの意味を」


リリィは、そっとカップを手に取った。最初の一口を含むと、顔がくしゃりと歪む。


「妹の……妹が淹れてくれた味がする」


それは、ありえないことだった。でも、記憶の茶とは、そういうものなのだ。飲む人の心が求める味を再現する。


「リリィさん」


巫は、静かに語りかけた。


「逃げることは、恥ではありません。自分の人生を選ぶことは、誰にも奪えない権利です」


「でも、家族は……」


「本当の家族なら、あなたの幸せを願うはずです。妹さんがそうだったように」


リリィは、残りの茶を飲み干した。そして、深く息を吸い込む。


「私、もう一度父と話してみる。今度は、逃げずに」


立ち上がったリリィは、汚れたドレスにも関わらず、凛とした美しさを放っていた。


「でも、このドレスじゃ帰れないわね」


厨房から、クウが飛び出してきた。


「あの、これ!」


手には、簡素だが清潔な旅装束。


「ちょうどいいサイズがあったっす!」


リリィは驚いて、それから優しく微笑んだ。


「ありがとう、優しい狼さん」


クウの耳が、嬉しそうにぴくぴくと動く。


着替えを済ませたリリィは、最後に巫を振り返った。


「あなたの妹さんも、きっと」


言いかけて、首を振る。


「いいえ、おせっかいはやめておくわ。でも、覚えておいて。妹という存在は、姉の幸せを誰より願っているものよ」


扉が閉まり、リリィの姿が月夜に消えていく。


巫は、空になったカップを見つめていた。そこに映る自分の顔が、涙で歪んでいることに気づく。


「巫様……」


アカリが、そっと近づいてきた。


「思い出されたのですね。少しだけ」


「ええ」


巫は涙を拭った。


「私にも、守りたかった妹がいた。でも、守れなかった。それだけは、確かなようです」


窓の外で、月が雲に隠れた。


茶房の中が、一瞬暗くなる。そして再び月光が差し込んだ時、カウンターの上に白い花びらが一枚、残されていた。


リリィのドレスから落ちたものか、それとも——


巫はその花びらを手に取った。かすかに香る花の匂いが、また新しい記憶の扉を開こうとしている。


月の巫としての記憶。失われた妹。そして、なぜ自分がこの茶房にいるのか。


すべての答えは、まだ闇の中だ。でも、一歩ずつ、確実に真実に近づいている。


クウが後片付けをする音を聞きながら、巫は花びらを大切に懐にしまった。


次の客人は、どんな記憶を運んでくるのだろうか。

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