記憶を煎れる異世界茶房 ~月の巫と癒しのスローライフ~

ソコニ

第1話 銀の砂と月のスパイスティー


月光が、砂漠の青年の頬を濡らしていた。


「妹を、探しているんです」


カウンターの向こう側で、喫茶師の巫(かなめ)は静かに頷いた。銀髪が月明かりを受けて、淡く光る。初めて訪れた客人の多くがそうであるように、この青年もまた、自分がなぜこの茶房に辿り着いたのか分からないでいる。


月読茶房。異世界の境界に浮かぶ、不思議な喫茶店。


「お名前を伺ってもよろしいですか」


「セリム、といいます」


青年の褐色の肌には、砂漠の民特有の細かな傷跡が刻まれていた。旅装束の隙間から覗く銀の砂袋が、月光を反射している。


「妹さんは、どのような方でしたか」


過去形で問われたことに、セリムの肩がぴくりと震えた。だが否定はしなかった。三年前の砂嵐で行方不明になった妹を、心のどこかで諦めかけているのだろう。


「シャムサ、といいます。いえ、いいました。十二歳でした。明るくて、いつも笑っていて……」


声が詰まる。巫は黙って、茶器を準備し始めた。月の石で作られた急須が、かちりと音を立てる。


「シャムサはね、スパイスティーが大好きだったんです。特に、カルダモンとシナモンと、あとほんの少しの黒胡椒を入れたやつ」


セリムの目が、遠い記憶を見つめている。巫の手が、茶葉を選ぶ動作の途中で止まった。カルダモン。その香りが、胸の奥で何かを揺らす。


「砂漠では貴重品なのに、いつも『お兄ちゃん、今日もスパイスティー作って』って。断ると、ほっぺたを膨らませて……」


巫は無言で、棚から数種類のスパイスを取り出した。カルダモンの鞘を指で潰すと、甘く刺激的な香りが立ち上る。その瞬間、右手がかすかに震えた。


——誰かを、待っていた。


断片的な映像が、脳裏をよぎる。小さな手。差し出されたカップ。そして、二度と戻らない約束。


「シャムサは、よく言っていました」セリムが続ける。「『お茶を飲む時間は、魔法の時間なの。だって、みんな優しい顔になるでしょう?』って」


巫の手元で、湯が沸騰し始めた。シナモンスティックを折る音が、静寂に響く。黒胡椒を数粒、指で潰す。香りが複雑に絡み合い、茶房の空気を満たしていく。


常連客のアカリが、カウンターの端で静かに光を灯していた。月の精霊の末裔である彼女の瞳は、今夜は深い金色に染まっている。満月が近いのだ。


「巫様」


厨房から、狼の獣人の少年クウが顔を出した。茶色の耳がぴんと立っている。


「お茶請けに、デーツの蜜漬けがありますけど……」


「ありがとう、クウ。それをお願いします」


デーツ。砂漠の民の主食であり、甘味。セリムの瞳に、懐かしさが宿る。


巫は慎重に、スパイスを煮出していく。火加減、時間、すべてが繊細な作業だ。そして何より、この茶に込める想いが重要だった。


「セリムさん」


急須から立ち上る湯気を見つめながら、巫は問いかけた。


「妹さんを失って、一番辛かったのは何でしたか」


青年の喉が、大きく上下した。


「約束を、守れなかったことです」


「約束?」


「『ずっと一緒にいる』って。『何があっても守る』って。兄として当たり前の約束なのに、僕は……」


涙が、褐色の頬を伝い落ちる。月光がそれを銀色に染めた。


巫の胸の奥で、何かが激しく脈打った。守れなかった約束。失われた誰か。そして、永遠に続く後悔の念。


——あの子も、きっと同じことを言っていた。


記憶の断片が、少しずつ形を成していく。月の光の下で交わした約束。小さな手を握った感触。そして、その手が冷たくなっていく瞬間の絶望。


「できました」


巫は、琥珀色のスパイスティーをカップに注いだ。立ち上る香りが、セリムの鼻腔をくすぐる。


「これは……」


「シャムサさんが愛したスパイスティーです。ただし」


巫は、カップをそっとセリムの前に置いた。


「これは記憶の茶でもあります。あなたの妹さんへの想いが、この一杯に込められています」


セリムは震える手で、カップを持ち上げた。唇に触れる温かさ。そして、口に含んだ瞬間——


砂漠の家。土壁の隙間から差し込む朝日。そして、台所で鼻歌を歌いながらスパイスを挽く少女の後ろ姿。


『お兄ちゃん、今日は特別なブレンドよ!』


振り返った妹の笑顔が、あまりにも鮮明で。


「シャムサ……」


セリムは声を上げて泣いた。三年間、押し殺してきた感情が、堰を切ったように溢れ出す。


巫もまた、カウンターの向こうで静かに涙を流していた。スパイスの香りが呼び覚ました記憶。それは、自分もまた誰かを待ち続けていたという、確かな真実だった。


「ありがとう、ございます」


セリムは深く頭を下げた。


「妹は、もう戻ってこない。でも、こうして思い出すことができる。それだけで、僕は……」


巫は優しく微笑んだ。その笑顔の奥に、まだ形にならない記憶の影が揺れている。


「思い出は、消えません。大切な人との時間は、永遠にあなたの中で生き続けます」


月が、雲間に隠れた。茶房の照明が、より一層柔らかく二人を包む。


セリムは最後の一口を飲み干すと、懐から小さな袋を取り出した。


「これを、お代として」


銀の砂が、わずかに入った小袋。砂漠では貴重な交易品だ。


「いいえ、お代は結構です。ただ」


巫は、その小袋を見つめた。銀の砂。なぜか懐かしい。


「もしよろしければ、その砂を少しだけ、茶房に残していってください。きっと、次の誰かの助けになりますから」


セリムは頷き、小袋から一つまみの銀砂を、カウンターに置いた。月光が戻ってきて、砂粒が星のように輝く。


青年が去った後、巫は銀砂を手に取った。指の間からさらさらと落ちる感触が、また新たな記憶の扉を叩く。


「巫様」


クウが心配そうに顔を覗かせた。


「大丈夫ですか? なんだか、今日は様子が……」


「大丈夫よ、クウ」


巫は振り返ると、いつもの穏やかな笑顔を見せた。だがその瞳の奥には、確かに何かが変わり始めていた。


アカリが、意味深に微笑む。


「始まりましたね、巫様の旅が」


風鈴が、静かに鳴った。月読茶房の長い夜は、まだ始まったばかりだった。


そして巫は知らない。今夜呼び覚まされた記憶の断片が、これから訪れる客人たちとの出会いによって、少しずつ繋がっていくことを。


失われた妹の記憶。月の巫としての使命。そして、自分が本当は何者だったのか——。


すべての答えは、一杯の茶の中に隠されている。




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