第2話「予想外の要求」

会議室の空調が静かに回り続ける中、田村さんは手元の資料を丁寧にめくっていた。

ケンジは向かいに座り、タブレットを机の上に置く。

金属の冷たい感触が指先に伝わる。

窓の外から微かに車の音が聞こえ、時折クラクションが響いた。


「弊社の新商品について、まずこちらをご覧ください。」


田村さんが差し出したのは、見慣れない形のパッケージ写真だった。


『MIA:画像解析開始。

パッケージデザイン分析中...商品カテゴリー特定:食品系87.3%、健康食品52.1%。詳細分析継続中です。』


視界の隅に分析データが流れる。

ケンジは写真を見ながら、MIAの情報を待った。

しかし、田村さんの説明は予想とは全く違う方向に進んでいく。


「こちら、『家族の記憶』という商品名なんです。」


「家族の、記憶...ですか?」


田村さんは微笑んだ。

資料の次のページを開くと、そこには高齢者の写真と、家族で食卓を囲む写真が並んでいた。


「認知症の方向けの栄養補助食品です。

ただし、これまでの健康食品とは全く違うアプローチを考えています」


『MIA:エラー。想定カテゴリーとの適合率23.7%。データベース再構築が必要です。

認知症関連市場データ:32件検出、信頼度47%。情報不足により精度の高い分析は困難です』


ケンジは軽く咳払いをした。

MIAが混乱している。事前の市場分析は、コスモ食品の主力商品であるカレールーやドレッシングを前提にしていた。

認知症向け商品なんて、データベースにほとんど情報がない。


「なるほど、高齢者向けの市場ですね。最近注目されている分野ですね。」


田村さんの表情が少し変わった。目の奥に、データや市場分析では測れない何かがある。


「違うんです、田中さん。私たちが狙っているのは、高齢者ではありません」


「と…いいますと?」


「その家族です。特に、40代から50代の息子さん、娘さん。

親の認知症に直面し、何かしてあげたいけれど、どうしていいか分からない人たちへ。」


ケンジは手元のタブレットに視線を落とした。

MIAが必死に関連データを検索している様子が画面に表示されている。

しかし、田村さんの話は、データでは捉えきれない領域に入り込んでいた。


『MIA:ターゲット分析更新中。

40-50代家族層:購買力指数78.4、健康関連商品購入頻度月2.3回、感情的購買傾向が統計値より32%高い数値を検出。

ただし、感情的要因の数値化は困難です』


「つまり、商品を購入するのは家族、実際に使用するのは認知症の方、ということになるんですね。」


「そうです。でも、もっと複雑なんです。」


田村さんは席を立ち、窓際に移動した。

午後の光が彼女の横顔を照らしている。


「購入する家族は、効果を求めているわけではないんです。

『何かしてあげている』という気持ちの安らぎを求めているんです。

でも、それを直接的に広告で謳うことはできない。」


ケンジは眉をひそめた。

これは、通常のマーケティング手法では対応できない案件だと。

ターゲットの心理が複雑すぎる。


『MIA:理解が困難です。

購買動機が「効果」ではなく「気持ちの安らぎ」というデータ。

数値化不可能な要素です。通常の購買行動モデルから逸脱しています。

標準的アプローチへの修正を推奨します。』


「なかなか難しい案件ですね。」


「だからこそ、御社にお願いしたいんです。」


田村さんが振り返る。

その視線は、ケンジではなく、まるで彼の奥にある何かを見つめているようだった。


「大手代理店なら、データに基づいた効率的な案を提案してくれるでしょう。

でも、私たちが求めているのは、データでは測れない部分への理解です。」


ケンジの額に、うっすらと汗が浮かんだ。

MIAが提供してくれる豊富なデータと分析結果。

それが、この案件では役に立たないかもしれない。


「具体的には、どのようなことを?」


「まず、実際に認知症の家族を持つ方々に会って、話を聞いてほしいんです。

データではなく、生の声を」


『MIA:警告。提案手法の効率性:低。インタビュー調査の精度:不確定。

統計的サンプリングによる市場調査の方が1,847%効率的です。コスト対効果を再計算してください』


しかし、田村さんの次の言葉で、ケンジの中の何かが動いた。


「私の母も、軽度の認知症なんです。

毎日、何かしてあげたいと思いながら、結局何もできずにいる。

そんな私たちの気持ちを、どうやって商品に込めればいいのか。

それを一緒に考えていただけませんか?」


会議室の空気が、一瞬で変わった。

これは単なるビジネスの話ではない。

田村さんの個人的な想いが込められた案件だった。


ケンジは手元のタブレットを見る。MIAが表示する分析結果やグラフが、急に無機質に感じられる。


「分かりました。ぜひお受けさせてください。」


口から出た言葉に、自分でも驚いた。

MIAの推奨する効率的なアプローチではなく、田村さんの想いに応えたいという気持ちが勝った。


『MIA:感情データ解析エラー。

「想い」「気持ち」は定量化困難。ビジネス判断における感情要素の重み付けができません。

論理的根拠に基づく判断への切り替えを推奨します』


だが、田村さんの安堵した表情を見て、ケンジは確信した。

これは、データだけでは解決できない案件だ。


「ただし、一つだけ条件があります。」


「はい、何でしょうか?」


「私たちも、一から学ばせてください。

この分野は、正直なところ初めてです」


田村さんは微笑んだ。

今度は、会議室に入った時とは全く違う、本物の笑顔だった。


「もちろんです。一緒に、答えを見つけましょう!」


ケンジがオフィスに戻る道すがら、MIAが静かに警告を続けていた。


『ケンジ、成功確率の算出ができません。未知の要素が多すぎます。』


「それが、面白いんじゃないか。」


初めて、MIAの助言を聞き流している自分に気づいた。

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