スマートグラスの向こう側 ~AIと挑む企業犯罪~
@yorunayouna
第1話「新しいパートナー」
月曜日の朝、オフィスに漂うコーヒーの香りが鼻をくすぐった。エアコンの低い唸り声に混じって、あちこちからキーボードを叩く音が響いている。田中ケンジは自分のデスクに向かいながら、まだ温かいコーヒーカップを片手に、スマートグラスの電源を入れた。
『MIA:おはようございます、ケンジ。今日のスケジュールをお伝えしますね』
視界の右下に青い文字が浮かび上がる。MIAの声は直接耳に届くが、周りには聞こえない。完璧にプライベートな会話だ。
「ああ、頼む」
『午前10時にコスモ食品との初回ミーティング、午後2時に社内企画会議、午後4時に——』
「コスモ食品の件、昨日の分析結果はどうだった?」
MIAからの返答を待ちながら、ケンジはPCを立ち上げた。画面に映る資料の山を見ると、いつものように軽いめまいを感じる。データの海に溺れそうになるたび、MIAが救いの手を差し伸べてくれる。それがもう当たり前になっていた。
『分析完了です。コスモ食品の過去3年間の広告戦略を調査しました。ターゲット層は30代女性がメイン、健康志向の高まりに合わせて自然派商品にシフト中です。競合他社との差別化ポイントは——』
「あー、後で詳しく聞く。今は概要だけでいい」
同僚の佐藤が隣のデスクで電話をしている。クライアントとの交渉らしく、声が次第に大きくなっていく。ケンジは軽く会釈して、資料整理に戻った。
コスモ食品。中堅の食品メーカーで、最近業績を伸ばしている。今回の案件は新商品のキャンペーン企画だ。うまくいけば年間契約につながる可能性もある。MIAの分析によれば、勝算は十分にあった。
ふと、3年前の失敗を思い出す。大手化粧品メーカーのプレゼンで、データを読み間違えて大恥をかいた。あの時MIAがいてくれれば——いや、あの頃はまだマーケティングAIアシスタントなんて夢物語だった。技術の進歩は本当に早い。
『ケンジ、心拍数が少し上がっています。緊張されていますか?』
「バレてるのか」
苦笑いしながら、ケンジは深呼吸した。MIAの観察力には毎回驚かされる。単なるマーケティングデータ分析だけでなく、人間の状態まで読み取ってくれる。
午前9時45分。会議室に向かう時間だ。ケンジは資料をタブレットに入れ、立ち上がった。廊下を歩きながら、MIAが最終チェックの結果を報告してくれる。
『相手方の担当者、田村絵美子さんについて追加情報です。マーケティング部部長、41歳、過去の発言から判断すると、数字よりも感覚的な提案を好む傾向があります』
「なるほど、感覚重視か」
『はい。統計的には、彼女のタイプの決裁者には情緒的なアプローチが効果的です。データの羅列よりも、商品に込められた想いや、消費者の心に響くストーリーを重視することをお勧めします』
会議室のドアの前で立ち止まる。中から女性の声が聞こえた。おそらく田村さんだろう。ケンジは軽く咳払いして、ノックした。
「失礼します、田中です」
ドアを開けると、スーツ姿の女性が振り返った。思っていたより若々しい印象で、目が鋭い。MIAのデータ通りの人物かどうか、まだ判断がつかない。
「お待ちしておりました。田村です。よろしくお願いします」
握手を交わしながら、ケンジはMIAの分析結果を思い出していた。感覚重視、情緒的アプローチ。でも実際に会ってみると、もっと複雑な人物のような気がする。
「今日はお忙しい中、ありがとうございます。早速ですが、新商品について詳しくお聞かせください」
田村さんは微笑んだ。しかし、その笑顔の奥に何かが隠れているような——そんな印象をケンジは受けた。MIAの分析では読み取れない、何か別の要素があるのかもしれない。
『ケンジ、相手の表情に微細な変化を検出しました。通常のパターンとは異なる反応です』
MIAの警告が頭の中に響く。予想通りにはいかないかもしれない。でも、それは同時に、この案件がただの定型作業ではないということでもあった。
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