10、ヴィルダ暦156年第一季 陰スクルダ月の19日



 人間と妖精の二人旅を始めてから、気づけば十年が経過していた。

 龍兎に意識がなかった期間も含めれば二十年間を共に過ごしたことになる。が、当人にはあまり実感はなかった。


 旅をしていると一月や一年といった一定の時間への感覚が鈍ってくる。

 季節の巡りを目の当たりにして、たまに実感するくらいだ。

 暑さ寒さへの耐性があることも相まって、時間の流れよりも出来事の数や大きさの方に意識が向いてしまうらしかった。


 さらに、十年という時間はあっという間に過ぎ去ったが、旅のうち半分くらいを移動時間を占めていることも理由だろう。

 徒歩や馬車、たまに馬にも乗った。練習は必要だったが。


 魔法の練習もこまめにやっていたおかげで、リリカからは一人前と認定された。

 それでも普段は一切使う気のない龍兎に呆れを通り越して感心していた。


 魔物と争うこともままあった。

 用心棒や傭兵働きはしなかったが、遭遇戦は避けられなかったし、国同士のいざこざに巻き込まれることも複数あった。


 ダンゲージルス王国から離れたのは、およそ五年ほど前である。

 属国扱いされていた小王国の方に抜けてから、大陸上にある別の国々を巡っていた。

 妖精を連れた旅人がいる、という噂は国境をすり抜けて他国にも広まっていたらしく、各地で歓迎されることは多かった。


 ただダンゲージルス王国と違って、妖精と理解しても襲ってこようとしたり、龍兎ごと力付くで捕まようとしたり、あるいは妖精を買い取らせてくれと言い出す馬鹿が出たりした。

 妖精の伝承が途絶えているのか、あるいは遭遇や逸話が広まっていないせいなのかもしれない。


 あの王国の治安は意外に良かったようなのだ。

 それを出国してから思い知る羽目になった。


 あるとき、小さな村に不釣り合いなほど立派な宿に泊まったところ、夕食に薬を盛られた。


 妙な胸騒ぎを感じて食事を取らず、ベッドで眠ったふりをしていたら、宿の主人が野盗を引き連れて部屋に押し入ってきたのだ。

 妖精に効くほどの薬ではなく、おそらくは食事をとっても眠ることはなかっただろうが、決して気分の良いものではなかった。


 さらに、彼らの見世物にしてボロ儲けだ、人間を殺せば妖精も言うことを聞くだろう、といった発言が引き金となって、襲撃者は全員血袋になった。

 普段はモンスター以外できるだけ手にかけないようにしている龍兎も、このときばかりは怒りに任せて力を振るうリリカを制止しなかった。


 他に宿泊客がいなかったことは不幸中の幸いだった。立派な宿は、見事に大炎上した。

 直視に耐えない悲惨な死体ごと消し炭となり、何かが起こった形跡ごと消滅した。思えば村の規模にあまりにも不相応な建物ではあった。

 野盗との繋がりも、呼びよせるにも手際が良すぎる。普段から寝入った旅人を殺しては金品を奪っていた常習犯だったのかもしれない。


 あまりにも派手にやりすぎたことと、妖精を連れた旅人の目撃情報が多かったことで、その国では手配首にされた。

 正当防衛だと訴えたが、証拠が何も残っていなかったことが災いしたらしい。

 二人は逃げ出し、ほとぼりが冷めるまで他の国で過ごすことにした。


 龍兎は各地で物語を語った。

 ネタ元は落語であったり、アーサー王伝説であったり、かつて読みふけってきた小説や漫画やゲーム、あらゆる創作物だったりした。


 短ければ数十分、長くとも三日以内に語りきれる題材でなければならない。

 前者は小話的なもの、後者は講談師のような良いところで切る形にしたが、それ以上となると無理が出る。


 稼ぐ手段に物語を選んだのは、これが情報集めにも役立つと考えたからだった。

 各地で面白い話を集めている。

 そういう体で人から話を聞くことも調べ物をするにも便利な言い訳として使えた。


 図書館なんて上等なものは滅多にない。

 各国の王都や城下町、王族か高位貴族のお膝元くらいにしかなかった。


 本そのものは高価だが流通している。活版印刷が技術的に存在してるらしいが、新聞などは発行されていなかった。

 だからか村の村長の家に一冊か二冊だけある本はどれも人間の手で写本された書物であった。

 そういうものを見せてもらうためにも、物語の収集と披露は大事なきっかけになった。


 龍兎の想定と大きく違ったのは、魔法が一般的ではなかったことである。

 この世界において魔法はおとぎ話や物語にしか出てこない。

 魔法の使い手となると、普通は誰も見たことがない妖精か、伝説上に出てくる偉業をなした人間か、この二択だ。


 ゴブリンのような醜悪で危険なモンスターは各地に跋扈しているのに、それに対抗する手段は物理戦闘しかなかったのである。

 もちろん、おとぎ話に出てくる魔法使いが魔法で魔物を薙ぎ払った、といった話は伝わっている。

 しかし、魔法は空想上のものという扱いなのであった。


 妖精が実在している以上は、妖精の魔法も実在していることになるのだが、そういったものを現実的に考える人間はほとんどいなかったらしい。

 これには龍兎も疑問を抱いたが、よくよく考えれば不思議でもなかった。


 地球上には宇宙に行ったことのある人間がいくらかいる。

 一般的な生活をしている人間にとって、それは現実ではあるが、同時に遠い世界のことなのだ。

 月に行ったことがある宇宙飛行士には会うこともあれば、会話もできる。実際に起こったことだと認識もできるだろう。


 しかし自分や自分の周囲が月や火星に降り立つことなど、身近に起こり得ることとして真面目に考えるものはごく少数である。

 存在することも、事実であることも分かるが、どこか遠く無関係なものに感じてしまうのが、多くのひとにとっての魔法という概念だったのである。


 ゆえに龍兎は旅の途中でいくつもの書物を読んだり、知識階級の人々との話はしたが、人間が魔法を使いうることも、その情報も見当たらず、魔法に精通していると言える人間は誰一人としていなかった。

 この世界の成り立ちから、現在に至るまで、人間の手に魔法があった事実が見つからなかった。


 悪魔の証明ではある。そうした情報が見つからなかったことをもって、魔法を使ったことがある人間がいない証明にはなり得ない。


 日本へと帰る方法を探す。

 あるいは、この世界に龍兎がやってきた理由を調べる。


 その手がかりを魔法と見込んでいただけに、この現状は龍兎を打ちのめすに十分な威力があった。

 魔法的な理由以外では実行も実現も不可能としか思えなかったからである。


 さらに厄介だったのは、この世界においては女神が信仰されているのだが、神話らしい神話が存在していなかった点である。

 しかも、当の女神は子供に読み聞かせるような、古いおとぎ話にしか出てこなかったのだ。


 龍兎は途方に暮れた。人間が存在しながら、確たる言語が使われていながら、歴史を紡ぐにあたってその土地に済む人間が共有する神話がないことなど、ありえるのだろうか。


 仏教のような思想的なもの、インド神話のようなスケールの大きな話、ギリシア神話のような人間の悪い部分を煮詰めたような神の習性、日本神話のような現象を神のかたちに当てはめたもの。

 ありとあらゆる地域に神は作られ、神話は存在する。


 それは人間がどうしようもないものを神という形式に当てはめることで理解や納得をしようとする本能的な試みだからである。

 災害や苦難、試練や幸運と読み替えても良い。

 たとえば人々が自らに身に起こるすべてを、つまり、幸運も不運も、偶然も必然も、あらゆることがその神の仕業であると認めれば、その神はその瞬間から力を持つことになる。


 それは一種の契約である。

 人間の一生を左右するのは自分ではなく神であると、人間自身が持つべき責任を押し付けてしまったのだから。


 どこかの山の神は、そうして全知全能と語られるようになったのかもしれない。


 いつ、いかなる場所であっても、同じことは起こり得る。

 人間が容易く克服できない、自身の意志によってはどうにもならないすべてが、神として祭り上げられる可能性がある。


 しかし龍兎は、出逢った多くの人々が女神に祈りはするけれど、その女神がどんな来歴でありどんな力を持っているのか、はっきりとした答えを持つ者を見つけられなかった。

 かといって貴族相手に深く突っ込んだ話もしにくい。

 どんな地雷が埋まっているか分かったものではなく、漠然とした何か辛いこと困ったことがあれば女神に祈る、という風習のある国であり世界なのだ、と理解するしかなかった。


 が、あるとき見せてもらった古い書物によって、ひとつひらめいたことがあった。閃きだから何の証拠もない。それまで調べてきた諸々が繋がった気がしただけであったが、悪くない思いつきであるような気がした。


 女神を妖精と呼び替えれば、一応の説明がつく。かつて龍兎が一席ぶった落語の死神を妖精と読み替えたのと同じである。


 神とは、あくまで形而上の存在だ。

 実在しないからこそ、責任を押し付けられる相手である。


 それが妖精という、現に存在し遭遇しうるものにその役割を与えてしまえば、人間にとって都合の良い神話はさぞ作りにくかろう。

 超常の力を有しながら、気まぐれで、人間の利にも損にもなる動きをするくせに、望んでも出会えず、望まなくても現れて、社会を引っ掻き回しておいて、何の責任も取らずに姿を隠す。


 女神と呼び習わした最初の人間は、出逢った妖精を、本当に女神だと思ったのかもしれない。

 あるいは妖精と呼ぶべきではないと思ったのかもしれない。


 ただこの世界にはどうしてか日本語が既存の言語として使用されているから、概念としてではなく、単なる言葉としての女神がちょうどよかっただけかもしれない。

 少なくともリリカは、龍兎の想像する女神からはかけ離れているけれど、それはアテナやアマテラス、カーリーやヘラといった神話に出てくるエピソードを思い浮かべてしまうからだろう。

 フラットに考えれば、女性の姿をした、神の如き力を持つものは、女神と呼ばれてもおかしくはなかった。


 そして話が振り出しに戻った。

 帰還の手段を探すためには魔法じみた超常の力が必須で、それは結局のところ、妖精の使う魔法だったのだ。


 リリカから一人前と太鼓判を押されたが、今のところ龍兎は自身の魔法で日本に帰れる気はしていない。

 より強い力を持ったリリカでも無理だろう。


 魔法は、できることと、できないことがはっきりしていた。

 その魔法によって帰還が叶うかどうかは、感覚でわかるのだ。


 魔法はたしかに超常の力で、それを持っていない相手にはどうしようもないほどに強く一方的なものだが、あらゆる望みを無尽蔵に叶えてくれる夢の力ではなかった。


 頼るべき神もいない。龍兎の魔法では帰還はおそらく叶わない。


 では、どうすればいいのか。

 諦めるべきなのか。龍兎は結論を先送りにした。

 諦めるほど未来に希望がないわけではなかったからだ。


 ともあれ、人里、人間の集落を手当たり次第に回るのでは、このまま何の成果も得られないことは明白だった。

 あっという間に過ぎ去った十年だったが、龍兎はまったく長いとは感じなかった。むしろ長いと感じなかった自分に愕然とした。

 感性がだんだん妖精のそれに近づいているのかもしれない。


 龍兎は不安になってリリカを観察した。

 とある漁村の料理店で、美味しいと評判の料理を食べ損なったことがある。

 次に材料が用意できるのは三日後になると頭を下げられた。

 仕方ないから待つことにしたものの、リリカはわずか一日で癇癪を起こした。


 すぐ食べたい早く食べたいと地面に転げ回って、幼子のように地団駄を踏み、店主にしつこく絡んだ。

 それを見て龍兎は安堵したものだ。人間でも妖精でも時間感覚はそこまで乖離していなくて、単に十年の旅が濃密すぎただけらしい。


 人間だろうが妖精だろうがやることがあって、それに没頭なり熱中していると時間を忘れる。それだけのことだった。


 さらに、この十年、二人は一つの場所に長く留まることはしなかった。


 どこかに定住することを考えたこともあった。

 不可能でもなかった。

 今の龍兎は肉体こそ子供ではあったが、腕力や体力は成人男性と左程変わらない。


 元々龍兎は大卒である。この世界の常識にこそ疎かったがある程度は学んだこともあり、さらに共用語が日本語か、あるいは日本語をベースとしたほぼ同一の言語であることも相まって、会話にも応対にも不便はしなかった。


 義務教育を通過した日本の成人が日常で使うような計算で困るはずもなく、やろうと思えばどこかの商家に雇われる手もあったし、話の分かる貴族や騎士から仕事の誘いもあった。


 十年もすれば、パートナーのリリカも人間と関わることに慣れようものだ。

 二人で、どこかの街で平穏に暮らすことは、望むのであれば決して難しいことではなかった。


 問題は龍兎の見た目だった。

 妖精が不老であっても人間は嫉妬しないが、龍兎相手ではそうもいかない。


 ずっと子供の姿のままであることを意識されれば、不老でなくとも長寿であることは想像に容易い。

 妖精の仕業と考えるのは自然なことだ。

 結果的に、権力者の意向次第では国を挙げての捕縛作戦が敢行されても不思議ではない。

 それほどに不老長寿は蠱惑的で、時の権力者の誰もが求める大いなる力であった。


 さらに十年が過ぎた。

 旅をする妖精と人間の二人組の話は、少しばかり有名になりすぎた。


 徒歩にこだわったわけでもないので、使える場所は馬車で移動をしたこともあったが、二十年も旅をしていれば、大陸を一周してなお余りある距離を進んだことになるだろう。

 日本の地図を作ったとされる伊能忠敬ですら測量を終えるまでに二十年かかっていないのだ。


 この大陸の全体図が日本より大きいことは龍兎の体感として明らかではあったが、それでも東西南北のほぼすべてを網羅したと考えられた。


 結局、帰還方法は見つからなかった。

 あらゆる資料、書物を調べきったわけでも、賢人知人から話を聞けたわけでもなかったが、王城の地下にある書庫に忍び込むわけにも、罪人として捉えられている塔の上の囚人を解放するわけにもいかない。

 手詰まりではあった。


「じゃあ、海を渡ろっか」

「……いいのか?」


 生まれた場所を離れることに抵抗はないのか。

 龍兎の問いに、リリカは首を横に振った。


 最初の五年十年とは違い、あとの十年では他の妖精にも遭遇した。

 手がかりを求めて妖精の国に足を踏み入れもした。そこでも何の手がかりもなかった。

 より正確には、リリカ以外の妖精との会話があまりにも苦痛すぎて早々と逃げ出したのだが、結論としては同じだった。


 妖精に気に入られた人間が招かれるとされる妖精の国は、リリカが同族に見切りをつけるのが理解できる場所だった。


 龍兎の印象としては、リリカを除いた妖精は言葉が通じるだけの魔物だった。

 言葉は通じるのにまるで話にならないのだ。

 人間相手でもそうだが、これほどに恐ろしいものはない。関係を深めたり抜け出せなくなる前に退散するのが正しい。


 あと足を踏み入れていない場所は秘境めいた山奥か、人間が近寄ることすら出来ない険しい山の向こう側か。


「そろそろ、この国にいるのも危ないでしょ?」

「まあ、そうだな」


「ほとぼりがさめるまで、他の場所に行くのも悪くないかなって」

「帰れないかもしれないが」


「いいわよ別に。リュウトと一緒にいられるのなら」


 黒目黒髪の少年と、可愛らしい妖精の二人組。

 そんな分かりやすい特徴の人間が目をつけられないはずもなかった。


 そして、二十年の歳月は、この大陸に存在するすべての国に、多くの人々にある事実を認識させるには十分な時間だった。


 妖精を連れた少年は歳を取っていない。物語を集めたり、語ったりしながら旅をする十歳前後の少年は、ひとたび見聞きすれば印象に残ってしまう。


 だから同じ村や街、都市に二回訪れるようなことはなるべく避けていた。村や街は動かないが、人間は動く。


 話は広がり続ける。そして物語を語っていた少年は、物語の存在として語られるようになってしまった。


 危惧していたことが起こった。

 各地に手配書が回され、ある国では丁重に、ある国ではどんな手段を使ってでも、龍兎とリリカを引き入れようとする動きが起こった。最初のうちは裏で手を回されているようで、大々的な動きは少なかった。


 ことは不老長寿を体現している人間と、それを実現できそうな妖精についての話だ。

 自分のもとに招こうとするのに、わざわざ他勢力に気づかれるような真似をする権力者はいない。ただ人の口に戸は立てられぬものだから、だんだん話も騒ぎも大きくなった。


 流言飛語である。伝言ゲームである。

 いつしか、その二人組を捕まえたものには大金が支払われる、といった話にすり替わっていた。


 秘密裏にしていたはずが、野盗崩れや裏社会に潜んでいた悪党どもまで噂を聞きつけて、複数の国家や組織が相争う、派手なお宝争奪戦が始まってしまったわけである。


 こうなると手のつけようがない。

 国中どころか大陸全土が人探しのため大混乱に陥って、捕縛どころか賞金首と間違われて殺されそうになったことも何度もあった。

 匿ってくれようとする寒村の農夫もいれば、山小屋に匿ったふりをして黙っていてほしければと脅迫してくる猟師もいた。


「妖精はとにかく騒ぎを起こすのが好きな生き物だ、って話だが」

「そんな言われ方もしてたわね」


「ある意味では、これもそうか」

「あはは。ニンゲンの愚かさをこれでもかと見られて、あいつらは楽しんでいるかもね」


「リリカは?」

「この状況で、アタシが、楽しめると思う?」


「ま、そうだよな。どんな馬鹿騒ぎも当事者にされるとうんざりするものだし」

「だいたい、偉いニンゲンって、みんな馬鹿じゃないの? なんで無条件に自分もリュウトみたいになれるって思ってるの? こんだけ嫌な気分にさせられて、アタシがそいつらのためになにかしてあげようなんて思うワケないじゃない!」


 そうしてリリカは、軽く指を振り、姿を隠す魔法を使った。一瞬で二人の姿は普通の人間からは見えなくなった。

 そのまま港に泊まっていた船に乗り込んだ。他の大陸へ向かうための大型船であった。


 船長の人柄次第では正面から乗船を頼みにいく手もあったが、大陸全体でここまでの騒ぎになっている以上、秘密裏に船に乗ることは不可能だっただろう。

 善良な船長であれば余計な迷惑をかけることになるし、そうでなければ通報なり自分の手で捕まえようとするかもしれない。


 結論として、勝手に乗り込んでしまった方が面倒が少ないと考えた。

 そうして二人はいくつもの伝説と物語を残して、名前も知らない大陸をあとにした。


 それから一ヶ月ほどの航海の末、もうすぐ隣の大陸が見えてくる頃合いに、船は突然ひどい嵐に見舞われた。

 帆はズタズタに破れ、巨大なマストは半ばで折れ、船体には無数の穴が空いている。


 今にも沈みそうな悲惨な有り様だったが、なぜか二日間沈むことなく耐えきって、追い風に運ばれるまま、隣の大陸へと辿り着いた。


 幽霊船もかくやという見た目の大型船が、帆も機能していないのに進んでくるのだ。

 港に自分の船を留めていた海の男たちは、さぞかし心胆寒からしめられただろう。入港する直前、船は自重に耐えかねたかのように自壊していった。


 ついに力尽きたのだ。

 そう思わせる、一瞬で瓦解していく船体の凄まじい破砕音だった。

 退避と船長が叫び、船員たちと一緒に海に飛び込んだ。死者が出なかったのは奇跡のようだった。


 そして、それを後押しした功労者二名は、集まってきた見物客に密航を見咎められる前に、そそくさと逃げ出していた。

 乗船の代金としては十分だったろうと龍兎は振り返り、身体がべたべたするから早くお風呂はいりたーい、と騒ぐリリカを布で隠した。


 この大陸で妖精がどんな扱いをされているか、どう認識されるか分かる前に見つかるのを避けようとする一心だった。


「リュウト! いきなりなにすんのよ!」

「静かに」


「これ以上黙ってたら息が止まっちゃうじゃない! アタシ、船の上でずっと黙ってたのよ。見つかるとまずいからって。密航者はサメの餌にされるからって。でも、こうして海を渡りきったんだからもう我慢しなくていいでしょ!? それとも……」


「リリカ」

「なによ」


 後ろを指し示す龍兎に、振り返ったリリカは、そこに見知った顔を見つけた。

 船の上でさんざん隠れて見ていた顔である。あの大型船の船長が、息を切らして、龍兎とリリカの二人を追いかけていたのだ。


 もう浅瀬だったから死ぬ心配はなかったとはいえ、船の崩落から逃げ切ったあと、泳ぎきったあとである。

 事情の説明を求められていただろうに、それを全部放りだして二人を追跡していたことになる。顔がひきつったリリカに、龍兎は肩をすくめた。


 今の言葉は、ごまかしようがなかった。

 少し手前で立ち止まったのは、走り続けて体力が尽きたせいか。


 船長は全身ずぶ濡れのまま、立派な三角帽子から水滴が垂れて顔に当たるのもかまわず、二人を睥睨して叫んだ。

 見事なまでの凶相で、船の上では怪力自慢の海の男たちを統率するにふさわしい威厳もあったが、いま目の前にいる船長は咳き込みながら、大きく肩で息をしている姿だった。


「そうか、やってくれたのは、てめえらか……!」

「逃げるぞ!」


「えいっ」


 龍兎の判断は早かった。支持を出すと、待っていたかのようにリリカが指をふる。

 空気に溶けるようにして、二人の姿が消えた。


「なっ……消えた?」


 周囲には大勢がいて、船長の登場で注目を浴びてはいたが、何が起きたのか分かっている人間はいなかったようだ。

 群衆に紛れ込んでしまえば逃げられると踏んで、龍兎は駆け出した。足音が響いたことで、驚いていた船長が気づく。


 周辺がにわかに騒がしくなる。


「そっちか……ま、待てっ! どけ、どいてくれ! おれは、あの二人を……」


 制止しようとする船長だったが、すでに二人の姿は見えない。

 周囲を見回すが、巨大船の沈没という大事件のため港に大勢が集まってきていた。

 人だかりにもみくちゃにされながら、よろめきながら必死に探そうとする船長も、ついに倒れ込んでしまった。限界だったらしい。


「今のって……」

「妖精?」

「なら、船が沈んだのって……」


 無責任な噂が流れ出すのを知りつつも、二人は港に併設された街へと駆け込んだ。

 何年に一度あるかの大事件に港湾関係者以外も野次馬に行くらしく、その流れに逆らって街中へと足を踏み入れる。


「面倒なことになる前に、さっさと街を出るか」

「えっ。ここで食べる予定だった魚料理は!?」


「隣の町にも魚料理くらいあるだろ」

「捕れたてが美味しいって言ったのはリュウトじゃない! 楽しみにしてたのに!」


「俺だって港町で食べたかったけど、あの様子だと……しつこく追いかけてくるぞ」

「うう、分かったわよ! なによあのニンゲン、そんなに怒らなくてもいいのにね」


 船長の顔と勢いが怖かっただけで、本当に怒っていたかどうかまでは分からなかったが、それを龍兎は口にはしなかった。

 それよりも目撃者が大勢いる場所で、安易にリリカに魔法を使わせてしまったのは良くなかったか、と龍兎は後悔していた。


 リリカが目ざとく、相棒の表情を見咎めた。


「リュウト、また何か難しいこと考えてたの? 考えるだけムダよ、ムダ。あんなにいろいろ考えて対策してたって、結局あっちの大陸で追いかけられることになったじゃない」


 痛烈な一言に龍兎は反論できなかった。リリカが続けた。


「考えるなら、次に何を食べるか、何を見に行くかとかの方が良いわ。いっぱい楽しいことを考えると、考えているあいだもずっと楽しいんだから!」

「さすがリリカ。賢いな」

「でしょ!」


 新たな大陸での第一歩は、そんな派手な場面から始まったのだ。


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