9、ヴィルダ暦146年第七季 陽ホルラム月の33日
草原を旅立ってから一年ほどが過ぎた。見習いを名乗れるくらいには、龍兎も魔法がどういったものなのかを理解しつつあった。
普段使おうとしないのは相変わらずだが、リリカというパートナーがいる分には問題はなかった。
一月ほど前、ようやく国の名前を知ることができた。
ダンゲージルス王国だそうだ。
大陸には四つだか五つだかの国があって、一番栄えていて、一番大きな国家であるらしい。
らしい、というのはその説明をしてくれた人物が大きな街の酒場で出逢った酔っ払い騎士の言によるものだったからである。
自国を悪く言う騎士などいるわけがないから、他国の規模や繁栄具合との比較は差し引いて聞くべきと龍兎は考えたのだ。
妖精を引き連れて旅をしている人間がいる、という噂はあちこちに流れていた。
一年も各地を徒歩で旅をしていれば、耳ざとい商人などは聞きつけることもあるだろう。
ここで大事なのは妖精である。草原の妖精にどんな悪評が流されていたのか、災禍として扱われていたのかは二人の耳には入ってこなかったが、大半の町村で歓迎された。
吟遊詩人か舞台役者さながらに、龍兎が語りで観衆を楽しませていたことも功を奏したのだろう。
ある意味、旅芸人のような扱いである。最初の方の村々では語りの対価に果実や野菜、手製の道具、酒などをもらったが、大きな街となると話は変わってくる。面子を気にする町長などは金貨を奮発してくれることもあった。金貨が一番高くて、次に銀貨、銅貨と価値が下がってゆく。紙幣は使われていないらしい。あるいは手形や証文は発行されているのかもしれないが、龍兎の手元には来なかった。
日本語が通じるのだから、使われている通貨も円で換算されているのではないか、と思ったのもつかの間、さすがにそんなことはなかった。
金銀銅の硬貨の名称がそれぞれ、フローリン、ターナー、ペニードと呼ばれていた。
若干イギリスやオーストラリアめいた響きだ。この世界の成り立ちが気になったが、そこらの町人に聞いたところで納得できる答えはかえってこないだろう。
ちなみに平民の一月にかかる生活費は、日本円換算でおよそ十万から二十万くらいだそうである。金貨一枚でギリギリといったところか。
なおフローリン金貨はここダンゲージルス王国で発行されているものを指すようで、他の国にはまた別の呼称があるとのことだ。
龍兎は、口で言う分には金貨一枚とか銀貨十枚でいいと思っていたが、他国の貨幣だと若干交渉の余地が生まれることに気づいて頭を抱えた。貨幣に含まれる金銀の比率や、コインそのものの価値に差異がありそうだったのだ。
報酬として要求する場合には、ただの金貨ではなくフローリン金貨と指定しないと損をしそうだ、と学んだ。横でリリカが面倒くさそうにしつつも、話はしっかり聞いていた。買い食いするとき困るぞと囁いたのが効いたのかもしれない。
偉そうにしているおっさんではあったが、騎士は知識階級なのだ。
最初は龍兎と、その肩に乗っていた妖精を前に、赤ら顔のまま子供が酒場に来るんじゃないと滾々と説教をくれたのだが、旅をしていることと仕事を探していることを伝え、大きな街に立ち寄った際は酒場で吟遊詩人の真似事をして旅費を稼いでいることまで説明すると、騎士は立ち上がって口上を述べだした。
「おお、なんと立派な子供ではないか! そういうことであれば、儂がこの店に大勢の客を呼んでやろう!」
「お気持ちはありがたいんですが」
「うむ! 感謝するが良い! 儂はこの街を守る騎士であるからな! このような幼い旅人と妖精には優しくしてやらねばと思っておったのだ! 店主よ! テーブルを借りるぞ!」
騎士は話を聞いていないで、勝手に動き出してしまった。龍兎は酒場の店主を見た。
強面の店主は諦めたように首を横に振って、言う通りにしたほうが良い、といった視線を返してきた。
退避しそこねたことに嘆息していると、騎士は目ざとく龍兎の態度を見咎め、大声で叫んだ。
「いかん、いかんぞ少年! そのようなしょぼくれた顔で誰が話を聞いてくれるというのか! さあ、この儂にまかせておくがよい! 金は払わんが客集めは手伝ってやるからな! 店主、暇をしているやつらに声をかけておいてくれ!」
「へい。あの、ところで騎士様はどうなさるので」
「ふはははは! 儂はここで酒を飲むという崇高な使命があるからな!」
龍兎とリリカは顔を見合わせた。相手は騎士である。
どれくらい偉いか、力があるかは分からないが、昼間から酔っ払っていて騒いでも酒場から追い出されないくらいの自由はある。
この状況で逃げ出したりしたら何をされるか分かったものではなく、面倒事は避けたかった。
そうして店主があちこちに声をかけているあいだ、騎士は二人にいろいろな話をした。
世情に疎い子供と思ってのことか、世の中の常識を噛み砕いて語ってくれたのだ。国のこと、街のこと、騎士がどれだけ大変な仕事であるか。
大半は自慢話だったが、ところどころで気になったところを尋ねると、気持ちよく喋り続けてくれた。
そうして情報を吸い出していると、コップの酒を勢いよく煽ってから、笑っていた騎士は突然真顔になった。
「はっはっは、少年よ。知識欲があることも好奇心があることも良いことだ。だが、あまりに聡いことばかり言っていると間諜と疑われるぞ。気をつけたほうが良いな」
空気が急に緊迫したことにリリカも気づいたのか、さっと警戒態勢を取った。
騎士が手を伸ばしたのは剣ではなく酒瓶であった。
襲いかかってくるわけでもなく、空になったコップに琥珀色の液体をなみなみと注ぎ入れる。
龍兎は完全に、ただの酔っ払いと思って油断していた。
酔っていても騎士である。暴力を上手く使う側の人間であった。
街に入った時点から目をつけられていたのだろう。
そして酒場を訪れたことを知って、自分の目でどういった旅人であるかを確かめに来たか、監視に来たのだ。
一年間の旅のあいだ、小さな揉め事に巻き込まれることはあっても、危機を感じたことはなかった。
だからすっかり注意を怠っていたのだ。
権力は、理不尽に振るわれることもある。
この騎士は忠告だけで済ませてくれたが、場所や相手によっては問答無用で捕縛や処刑もありえた。
「……はい」
「よいよい。儂はひとを見る目があるからな。少年がどこぞから送り込まれてきた者ではないと分かっておる。が、世の中の連中は儂ほど目が利く者は少ないのでなあ」
「ご忠告ありがとうございました。では、俺達はこれで……」
「待て待て待て! 先を急ぐのでなければ、少年には仕事をしていってもらわんとな。すでに儂の名の元に客を呼んでしまったからな。店の主人が今も必死に駆けずり回っておるだろう? なのに主役にいなくなられては困るぞ」
流れのまま酒場から立ち去ろうとしたら、制止されてしまった。うやむやにするつもりがそうは問屋がおろさなかった。
「ああ、そう警戒するな。客という体で部下を呼んで囲もうというわけではない」
「そう言われても」
「少年。なにか勘違いしているようだが、いま圧倒的に不利なのは儂だぞ。話に聞く妖精の力があれば、こんな街など一晩で滅ぼされてしまうのだろう? 儂は街を守る騎士として、どうか迂闊なことはしてくれるな、とお願いをしに来た立場なのだ」
その割に偉そうである。語っている合間合間にも酒を片手に上機嫌に見える。
「ま、噂に名高い少年の物語りも聞いてみたかったしな」
「……名高い?」
「おや、知らんかったのか? あちらこちらから噂が漏れ聞こえてきていたぞ。面白い語りを披露してくれる旅の子供がいるが、何より面白いのは、話している当人が物語に謳われるような妖精を引き連れていることだとな」
なるほど、言われてみればその通りであった。
妖精と出逢う機会などそうはない。一生に一度見られたら自慢できるレベルである。
つまり、普通の人にとっては伝説上の存在と変わらない。なのに小さな子供と一緒に旅をしているという話題性。
その子供が各地で目撃されていれば、大きな街には自然と話が流れてくるものだ。それはそれは目立つことだろう。
「それから何度も噂は聞いたが、どこかの町が滅んだ話もなかったからな。決して悪い妖精、恐ろしい妖精ではないと思っていたぞ。儂としては、昔話に謳われた、我が国の端にあるという黄金の草原……いや、妖精の草原だったか? そこを許可なく通った人間は、妖精の怒りに触れ、ことごとく非業の死を遂げたと伝え聞く。少年の連れた妖精が、ああした危険な存在でないことを願いつつ、こうしてこの曇りなき眼で直に見に来た、というわけだ」
曇りなき眼、と言いつつ血走った目でじろじろと見つめられると、居心地が悪い。
「しかし妖精にもいろいろといるのだな。
草原の妖精はそれはそれは醜く、常に怒りを吐き出し、近づいてきた人間にあらゆる呪いをかけて、のたうち回るのを見るのが喜びだという……それはそれは恐ろしい姿らしい。
儂も子供の頃、ばあやから寝物語としてよく聞かされたものだ。早く寝ないと妖精が窓から入ってきて、お前を真っ赤な林檎に変えてしまうぞ、と。
悪戯をして叱られたときにも、悪い人間は妖精が来て林檎にされて食われてしまうぞ、と言われたな。
今思えば林檎ではなく血まみれにされてしまうことであったのだろうなあ……」
そして騎士はぐいっと顔を近づけてきたが、きわめて酒臭かった。
龍兎はちらり、とリリカの反応を確かめた。若干そちらを見るのは怖かったが、気にしないわけにもいかない。
予想外なことに、リリカは穏やかな表情をしていた。好き勝手言われていたと気づいていないのかと一瞬思ったが、そんなわけがない。
ずっと龍兎相手に語っていた騎士が、すっと近寄っていったリリカに顔を向ける。
「ねえニンゲン」
「おお、妖精どの。申し訳ない。あんな恐ろしい草原の妖精と、こんな可愛らしい妖精どのを一緒にしてしまっては、気分を害されたであろうな」
「それはいいのよ。ただ、ひとつ言わせてもらうと……もし、真っ赤な嘘で、ありもしない悪評を流された妖精がいたなら……その嘘つきを決して許さないと思うわ。林檎に変えるなんて生易しいことで済ませるんじゃなくて、生きていることを後悔するような目に遭わせる……かもね」
「……とんだ失礼を。同族を悪しきざまに言われて、嬉しいはずもありませんでしたな」
「まあ、いいんだけど。まだ生きていたらの話だし、そもそも、最初にそんな噂を流したニンゲンはもう死んでるし」
「……っ!」
「あ、アタシが殺したわけじゃないわよ? 誤解しないでよね!」
「は、はは。そうですな。これは申し訳ない」
リリカは単純に、当時噂を流したであろう人間は全員寿命で亡くなっていると語ったのだが、騎士はそうは受け取らなかったようだ。
龍兎は二人の齟齬に気づいたが、あえて口を挟むような愚は犯さなかった。
妖精はしっかりと復讐をする生き物だ、と為政者やそれに近しい人間が認識してくれるならそれに越したことはなかったからである。
そうして互いに怖い目に合わせた騎士と、人間と妖精の双方は、穏やかなのか緊張しているのか分からない空気の中、来るはずの大勢の客を待った。
店主がどんなに駆け回っても、まだ昼間なので暇な人間はさほど多くなかったらしい。
ようやく店の半分ほどが埋まったあたりで、騎士がテーブルを組んで作った簡易の舞台の上に龍兎が腰を下ろした。
何が始まるかと怪訝そうにしている体格の良い男たちと、彼らに文句を言わせないとばかりに正面に陣取った騎士、そして困った顔の店主と話を聞きつけて勝手についてきた若い女性が数人、期待に満ちた目で龍兎を見る。
薄暗い酒場の照明が輝く。
揺れる影から、誰かが妖精の存在に気がついた。
旅をしている、妖精を連れた子供。にわかに盛り上がりつつある店内に歓声が飛び交った。
面白い話をするからと噂になっている。ということは、すでにした話の概要も一緒に流布されている、と考えたほうが良いだろう。
まったく同じ話をしてもよかったが、この耳ざとい騎士に一矢報いてやる手もある。酒場でするなら長話は避けた方が良い。
短くて、面白くて、それでいて騎士が興味を惹かれる物語。
「では、ある国の騎士と、その妻になった女の話をしましょうか」
騎士の身分はやはり高いのだろう。
下手な滑稽噺をすれば、怒りを買いかねない。
それを心配するような視線が龍兎に集まる。当の騎士本人はいったい何を語るのかと鷹揚に頷く。
「もちろんこれは遠い国の話、ずっと昔から伝わっている物語です。誠実な騎士の嫁取り話として誰もが知っている逸話でもあります」
そうして龍兎が語ったのは、アーサー王伝説の一幕であった。
本来ならアーサー王についても語るべきだろうが、ざっくり省略と改変して遠い国のすごい王様、ということにしておいた。
落語の真似事とは違うトーンで、口調はあえて丁寧さを心がける。街の人間の趣味に合いそうな言葉選びも大事なのだ。
「ある日、その国の王のもとに、若い女が助けを求めてやってきました。女が言うには、捻くれ者の騎士が彼女の恋人を捕まえ、自分の城に閉じ込めてしまったのだと。その王は国一番の戦士でもあったので、悪い騎士からその恋人を取り返してやろうと約束しました」
王にとって、女の恋人は自分の部下でもあったのだ。
だから助けに向かったのである。しかし、ことはそう容易くなかった。
「ところがそれは罠であり、捻くれ者の騎士の城に入った途端、王の手足からは力が抜け、大きな声も出せなくなってしまいます。捻くれ者の騎士が現れて、王に向かってこう告げます」
龍兎は声色を変えて、こう続けた。
「今ここで二つの約束をするのなら、ひとまず自分の国に帰ることを許してやろう。
ひとつは、今年の暮れまでにこの場所に戻ってくること。
ふたつ目の約束は、世の中の婦人たちが一番望むものは何であるか。
この質問の答えを持ち帰ってくることだ。
この二つの約束を破ったなら、君は国王の座を私に明け渡さなければならない」
一方的な約束ではあったが、断れば殺されることは目に見えていた。王は誓った。
「城に入っただけで手足から力が抜け、声も出せなくなるのです。
何らかの魔法がかかっていることは間違いありませんでした。その約束は、守らなければならないものでした。
王は出された質問の答えを求めて、城で働くもの、村で暮らすものたちに聞いて回りましたが、どの答えもありきたりで信じるに値しないものでした。
約束の期限まであとわずかというとき、王は考えながら彷徨っているうちに森の中に足を踏み入れてしまいました」
一呼吸置いて、酒場に集まった客たちの顔を見回してみる。
「ふと気がつくと、目の前に真っ赤な服を着た女がいました。
女の顔は、王が自然と目を背けてしまうほどに醜いものでした。
その女は王に対し、答えを知っていると話しかけてきたのです。
追い詰められていた王は、彼女の願いを叶えることを条件に、答えを聞き出しました」
聞き手の表情はいろいろだ。
興味深そうにしている者もいれば、なんだこのけったいな話はみたいな顔をしている者もいた。
一番分かりやすい反応を見せたのは女性で、訳知り顔で頷いている。
「彼女の願いは……美しく、礼儀を良くわきまえた騎士と結婚することでした。王はこれを約束したのです」
客のうち、女たちは笑っていた。男どもは呆れたようにお互いの顔を見合わせていた。
騎士がひとりだけ、険しい顔で腕を組んだ。今のところお気に召してはいないらしい。
「王は再び捻くれた男の城を訪ねました。そして質問の答えを口にしました。
聞き回った答えを順々に語っていったと、最後にあの醜い女からの答えを告げました。女は答えはこうでした」
受けが悪いだろうな、と龍兎は顔には出さず淡々と告げた。
「女の望みは、自分の意志を持つことである、と」
女たちと対象的な、集められた男たちの不満そうな顔に、空気が悪くなる。客の一人が罵声を口にしようとしたのを、騎士が手で制し、龍兎を見た。続きを、ということらしい。
「捻くれた騎士は、その答えを認めました。そして、こう言ったのです。
その答えを口にした醜い顔の女は自分の妹であると。
捻くれた騎士は悔しがり、城から去っていきました。
助けを求めた女の恋人も助け出せて、めでたしめでたし――とはいきません。
王にはまだ大事な仕事が残っていました」
緊張感に、喉が渇く。そっとリリカがコップを運んできてくれて、喉を潤す。
店主からの差し入れらしい。
「王は、自分の部下のなかでもっとも誠実な騎士に、醜い女の結婚相手を見つけなければならないと相談します。
誠実な騎士は、自分がその女と結婚すると申し出ました。
これには王も、あんな女にはもったいないとばかりに引き止めますが、誠実な騎士は頑なに主張したため、王はしぶしぶそれを認めました」
ここで男たちからは哀れみの声が上がった。女性客が睨むと、肩をすくめてやりすごす。
「結婚式が行われ、初夜に二人きりにされましたが、誠実な騎士は手を出しませんでした」
おいおい、ガキンチョ、初夜ってなんのことか分かってるのかよ。
揶揄が飛んできたのを、龍兎は鼻で笑った。物語の途中だから言い返しはしなかったが、あしらわれた酔客が横の女に耳を引っ張られているのを見て溜飲を下げた。
「女がなぜ手を出さないのかを聞くと、騎士は正直に答えました。あなたが年上であること、顔が醜いこと。
そして上品でないことが嫌なのです、と。
妻となった女は、機嫌を悪くすることもなくこう言い返しました。
年を取っているから、若い者よりものを知っていて、深く考えることができるのです。
醜い顔ならば、あなたは私を他人に奪われる心配をしなくて済みます。
上品かどうかは生まれつき決まるものではないのですから、あなた好みに私を育てれば良いでしょう」
ここで、おおっ、と声があがった。物語の山場である。
「騎士が答えに感心をして、ふと妻を見ると、彼女の顔は美しくなっていました」
何が起きたのか。もはや合いの手もなく、みなが話に聞き入っているようだ。
「妻は、私は悪い魔法使いによって呪われていたのです、と言いました。
呪いを解くために必要な条件は二つ。そのうちの一つが、若く、そして優れた騎士を夫にすることだったのです。呪いの半分が解けたことで、妻はどちらが良いかを選んでほしいと切り出しました」
酔っ払い騎士が、無言のまま、瞑目している。
眠っているようにも見えるが、しっかりと耳をそばだてているのは分かった。
「昼のあいだは美しく、夜のあいだは醜いほうが良いのか。それとも逆に、昼のあいだは醜く、夜のあいだだけ美しい方がよいのか。どちらが良いと思いますか、と」
解けた呪いは半分だけ。だから、元の美しい姿を保てるのは昼か夜のどちらかひとつ。
「騎士は、夜だけ美しいほうが良いと答えました。昼の間は他の男に言い寄られる心配がなく、自分だけが美しい顔を独り占めできるからと。
妻は、昼に美しくありたいと言いました。大勢に見られる姿が醜い自分ではありたくないと」
龍兎はさて、と問いかけた。皆さんならどちらが良いと思われますか。ああ、答えは結構。思った答えは胸の中にしまい込んでおくほうが良いでしょう、と。
全員が思い思いに自分の答えを決めた頃合いを見計らって、こう続けた。
「騎士は自分の考えを取り消すと伝え、妻の願いを選びました。
その瞬間、妻にかけられた呪いはすべて消え去りました。
呪いが消えた妻は、素晴らしい笑顔を夫に向けました。
そうして誠実な騎士は、美しい妻を手に入れました。
女も、素晴らしい騎士を夫に迎えることが出来ました。
今もなおその国では語り継がれているこの話には、誠実な騎士の嫁取りの話の他に、もうひとつの呼び方があります。それは――」
複雑な顔をしている酔漢もいれば、意味がわかっていなさそうな男性客もいる。
目を輝かせている女性客もいれば、皮肉そうに腰に手を当てて眉をひそめた商売女もいる。
龍兎は、たっぷりの間を取ってから、口を開いた。
「――女が一日中美しくあるために何が必要かを教えてくれる話」
以上です、と龍兎は締めくくった。拍手はまばらだった。教訓っぽさの強い話だ。女性ばかりなら大受けしただろうが、酒場の席を占めているのは男のほうが圧倒的に多い。
「騎士様がいらっしゃったので、遠い国で語られる騎士の物語を選んでみました。初めての語りだったので拙いところがあったなら申し訳なく思いますが、いかがでしたか?
悪漢を千切っては投げ千切っては投げる、子供が喜ぶような、もっと分かりやすい話も考えましたが……ここは大人の社交場ですし、少しばかり対象年齢が高い話をしてみたのですけれど」
龍兎が語ってみせたのは、アーサー王伝説の『ガウェイン卿とラグネルの結婚』のダイジェスト版である。
また古典落語を元ネタにする手もあったが、中途半端に聞いたことのあるかもしれない話をするよりは、一度も人前でやったことのない内容の方がよかろうと判断したのだ。
若干わざとらしかったか、と思いつつも、赤ら顔の騎士の様子を確かめる。
「あ、ああ……いい話であったぞ。噂で聞いたより、もっと素晴らしい! 少年はまさに物語りの名手である! この街にある劇場ですら一度も聞いたことのない筋書きであったな。なるほどなるほど、これは評判になるのも頷けよう。皆のもの、いかがであったか!」
と、酒場の騎士は自分の名で呼び集めた観客たちに声をかける。騎士の手前、大声を上げるのも遠慮していたであろう観衆はそれを皮切りに口々に騒ぎ出した。
数人の女性客が龍兎をもみくちゃにして褒め称えているのを、大笑いして指差す男もいれば、面白くなさそうに睨んでいる男たちの姿も見える。
全員にウケるならそれに越したことはないが、なかなかそうもいかないものだ。
語りの最中は龍兎の背中に隠れていたリリカも、いつの間にか肩の上に登り直していた。
寒村の村人と違い、さすがに大きな街の市民である彼らは、懐に余裕があるのか、次々に代金として銅貨や銀貨を服のポケットにねじ込んでいった。
なお、いま龍兎が着ている服は半年ほど前に買ったボロ布とハギレを使った修理品である。
旅の途中で身につけた針仕事で縫い直したり、ポケットを付けたりしたものだが、既製品と違って継ぎ接ぎだらけで美しくはない。
ただ、決して貧相ではない格好を心がけている。最初の頃に着ていた白い貫頭衣は、今思えばかなり怪しげであった。
リリカのおかげで、裸足でも苦も無く道を歩けはするのだが、やはり靴を履いてこそ文明人である。
だから各地を巡って手に入れた稼ぎは、まっさきに靴の購入費用に消えた。
靴、ズボン、服、着替えと揃えてきた結果、ようやく大きな街でもさほど奇矯な格好とは思われないくらいには身なりを整えられたのだ。
隣にリリカがいるから奇異の目で見られることには変わりないのだが。
龍兎がこれまでの旅路に思いを馳せていると、騎士が呟いたのが耳に届いた。
「女が一日中美しくあるためには、何が必要か……か」
他の客はともかく、赤ら顔の騎士には何かが届いたらしい。
酒場に入り浸っているような飲んだくれ騎士相手に響くかどうかは賭けだった。
ただ、忠告の返礼くらいにはなっただろう。
リリカが騎士の前にふよふよと進み出た。
「む、妖精どの。何かありましたかな」
「ねえニンゲン。リュウトのお話、面白かった? 難しい顔してるけど」
「……っ! ええ、ええ、たいへん感銘深く聞き入りましたとも。ただ、儂にはいささか薬が効きすぎたようでしてな」
「あっそ。じゃあ、早く奥さんの元に帰ってあげたら?」
「……そう、ですな。店主、こちらの少年と妖精どのに好きなだけ食わせてやってくれ。代金は儂につけておいてくれ。では、今日のところはこれで失礼する」
騎士は足早に店を出ていった。店主がぼそりと小声でつぶやいた。
「あんたら、意地が悪いぜ。ああ見えて、騎士様はお優しい方なんだからよう。まあ、無茶振りされたから意趣返ししたくなる気持ちは分かるけどさあ」
「どういうこと?」
「……ああ、そりゃそうか。知るはずもなかったな。騎士様、去年奥方を亡くしてるんだよ。それからはこうして毎日のように酒浸りでね。いいかげん後添えをもらえって周りがうるさいから、酒に溺れた男として振る舞っていなさるのさ」
「俺、そういうつもりじゃ……」
「みたいだね。その顔を見れば分かるさ」
「別にいいんじゃない? あのニンゲンも、やることを思い出したって顔してただけだし」
「そうか?」
「うん。それよりリュウト、なにを頼もっか」
「ああ、うちは酒場だから大したもんは出せないが、ツマミなら揃ってるぜ」
「じゃあじゃあ、まずはナッツでしょ。燻製肉ある? あ、ミルクあったら欲しいんだけど」
「おうよ。妖精さまのお口にあうかはわからんが、うちで一番いいやつだ」
「リュウトー? この肉噛み切れないんだけど!」
「ははは、そいつは酒を飲みながら口ん中でひたすら噛み続けるもんでさあ」
「んっ、んっ、んんぅー。はぁはぁ……美味しいけど疲れるー! ほら、リュウトも!」
「ああ、……ぐっ。固っ、なんだこれ」
「はっはっは。坊主にはまだ早かったか。ああ、さすがに酒は出さんからな」
「俺もミルクでいいよ。さっきの騎士さまは……まあ、俺達の出る幕じゃないか」
「そうそう。あ、向こうのテーブルで手招きしてる。行って良い?」
「良いけど金をかけるの禁止な。あと、相手は酔っぱらいだからな。やりすぎるなよ」
「りょうかーい。ほらほら、リリカ様が来てやったわよ! ニンゲンども、アタシの可愛さにひれ伏しなさいっ!」
「……妖精って、ああいうもんですか」
「アレは特殊例なので参考にしないでください。他の妖精相手に同じ対応したら死ぬか、死ぬより酷い目に遭う危険性があるので……」
「ひええ……そりゃ怖いこって」
日も暮れ、酒場に客が増えてきた頃に二人は店を出た。
すっかり暗くなっている。
店の外に警邏や番兵が待ち構えているということはなかったが、代わりに一人の若い女が立って、龍兎を睨みつけていることに気がついた。
女は無言で懐から何かを取り出した。
一瞬刃物かと思い身構えた二人だったが、その場から動かず、腕を伸ばした。
握られているのは、じゃらじゃらと金属のぶつかる音のする重たげな袋であった。
「銀貨がそれなりの量入っています。貴方がたに差し上げますから、今日のうちに街から出ていってくれませんか」
「なによいきなり! 失礼なニンゲンね!」
「……お願いします」
「そんな言われてもな。こっちも都合があるんだ。せめて事情を聞かせてもらわないと、受け取って良いお金なのかどうかも分からない」
年端も行かぬ子供らしからぬ物言いに、女が驚いた顔を見せた。
その反応から、先ほど酒場の店内で龍兎の語りを聞いていた客ではないと察せた。ますます自分たちを街から追い出す理由が思いつかず、龍兎は首を傾げる。
リリカは宙に浮いたまま、しゅっ、しゅっ、とパンチの真似事をして牽制している。
腹は立てているが激怒しているわけでもない。リリカの暴発はなさそうだ、と龍兎はこっそり安堵する。
「貴方がたなのでしょう? あの方に悲しみを思い出させてしまったのは。どうか、あの方の心をかき乱さないでほしいのです」
「……騎士さまのことか」
ピンと来た龍兎が、どこか消沈して店を出ていった騎士のことかと尋ねると、若い女はどこか悲壮感をにじませながら頷いた。
「アタシたちが何をしたっていうのよ。ただリュウトが物語を語っただけじゃない!」
「騎士の結婚にまつわる話をされた、とお聞きしました」
「そんな辛くなるような話じゃなかったでしょ!?」
龍兎はなにか言うより先に、リリカが反論し、若い女は目を伏せた。
不意に、おおよその事情を察した龍兎はリリカを止めるべきか、それとも目の前の女性に心情を吐き出させるべきかを迷ってしまった。
「ならばなぜ、あの方は泣いていらしたのです。奥様を亡くされたときにも動じず、何事もなかったかのように振る舞っておられたあの方が!」
「知らないわよそんなの! ずっと泣きたかったのに泣けなかっただけじゃないの? だったら感謝されこそすれ文句言われる筋合いじゃないわ!」
「そんなわけ……!」
「そもそも……だいたいアンタ、さっきのニンゲンの何なのよ!」
「わ、わたくしは」
「リリカ」
「なによリュウト、アタシはこいつが勝手なことを言ってるからっ」
「リリカ」
「……わかったわよ。任せる」
両者に間に割って入った龍兎は、女性にこう告げた。
「あなたの懸念というか、心情は理解しました。俺達はすぐにこの街を出ていきます。ただ、その金を受け取る謂れはない。こちとら物乞いじゃないんでね」
「……申し訳ありません。侮ったこと、非礼はお詫びします。しかし、この袋はどうか受け取っていただけませんか。勝手なことを申し上げているのはこちらなのですから」
女もはっとして、すぐ頭を下げた。
「なんでアタシたちが追い出されるみたいに出ていかなきゃいけないのよっ」
と、リリカはふてくされた顔でそっぽを向いて、怒りを飲み込むのに苦労していた。
「……やはり、受け取れません」
「そう、ですか」
「行くぞリリカ」
「分かったわよっ! ふんだっ」
本来なら、数日は滞在するはずだった街並みを眺めてから、龍兎は歩き出した。
騎士が集めた客たちの払いは良かった。酒場でそこそこ懐が暖かくなっていなかったら、銀貨入りの袋を受け取っていたかもしれない。
ただ、目の前の女性を警戒したのだ。
受け取ったあとで、盗まれたとか奪われたと主張されると不利になるのは龍兎たちである。
余所者と市民では扱いが違う。
さらに、この若い女性は身なりが良く、振る舞いにも品が滲む。良家のお嬢様、といった風体と仕草から見える教育の気配もこの場合は危険だった。
あまり敵対的に振る舞うのもよろしくないが、言う通りにもしたくない。その折衷案が金銭の授受を断ることだったのだ。
リリカは肩に乗っている。女性から少しだけ離れてから、振り返る。
「誰かのためを想ってすることは、どんなことであれ素晴らしいことです」
「……皮肉ですか」
「ええ、もちろん。あなたはそんなことは思ってないのでしょうが」
去り際に、龍兎は小さな呪いを残した。魔法によるものではなく、言葉によるささやかな仕返しだった。
そのくせ、それが意味をなすことがなければ良いと思った。
無体なお願いに腹に据えかねているのはリリカだけではなかったのだ。そして前言の通り、龍兎とリリカは街を出ていった。
夜のあいだに街を出る羽目になって、ちょっとだけ面倒くさい。
門番からも、えっ本当にこの時間から出ていくのか、と問われたが、偉そうな方の不興を買ってしまったようなので、と龍兎が肩を竦めると、同情したような目で見られた。
街から離れて、口を開いた。
「さて、予定が狂ったけど、仕方ないから次の街に行くか」
「いいの? アレ、放っておいて」
「好きにすればいいさ。俺たちにはもう関係がないことだ」
「……最後のやり取り、なんだったの?」
リリカには良く分かっていなかったらしい。龍兎はただの推測だけれど、と前置きして騎士と若い女との関係を説明した。
あの騎士は妻を亡くし、酒に逃避していた。
あの若い女は、そんな騎士のことを想っていたか、後妻の座を狙っているようだった。
その邪魔になりそうだったから、余計な考えを吹き込みそうな龍兎たちを街から追い払いたかったのだろう、と。
「よく分からないんだけど」
「分からなくて良い。ああいった手合いの考えることは、俺にもわからん」
「そう? じゃあ気分悪かったし、さっさと忘れるわ」
龍兎は嘆息した。
騎士に、亡くした妻のことを思い出させてしまったのが良かったのか悪かったのか。
それは自分には分からない。
感謝されたのか、恨まれたのかも分からない。
ただ、どちらにしても、あの若い女は先走って余計なことをしたことだけは間違いなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます