(八)はなぞむかしの

「さすがは咖哩道指南役。白湯さゆひとつ取っても、かほどに味が違うとは」

 冷えた指先を暖めるように抱えた汲み出し茶碗を、平沼将監しょうげんはしげしげと見つめた。隣に座る戸場とばも、やはり己が茶碗の中身を凝視していたが、やがてぽつりとつぶやいた。

「白湯……と申しても、拙者のは白うはござらぬが?」

 平沼は、救いを求めるように武林たけばやしに目を転じたが、今日の正客たる彼は、端然と座ったまま、とこに掛けられた掛け軸を眺めていた。


 一客一亭の当日。唯一の客である武林と、その付き添いである平沼将監と戸場の三人は、獅子浦ししうら邸の庭にある待合まちあい袴付はかまつけ)に通され、半東はんとうをつとめる五百いおが供した白湯を喫している。


 武林の付き添いと言っても、平沼らの目的は半分護衛、半分監視である。大目付の詮議を拒み、屋敷に立て籠った武林は、罪人同然の扱い――討っ手を差し向けられるほどの――だった。それが、討っ手である璃々江りりえの懇請を受けた家老・杉平すぎだいら外記げきの命により一転。この一客一亭の座が終わるまで武林に手出しは無用、獅子浦邸まで武林をつつがなく送り届けよ、となったのだ。


 平沼は首を振り、ふたたび白湯を口に含んだ。お歴々の考えることは分からん、今はただ、無事に武林を送り迎えするだけだ――万一武林が逃亡を企てた際に備え、戸場を連れてこなければならなかったことだけは残念だが。


 それにしても、この白湯は美味い。

「実にやわらかな、かぐわしさすら感じますなあ」

 つい、口に出してしまう。その嘆声に、はじめて武林が反応した。

「いい水を、時間をかけて沸かしたのです。水は、咖哩道の命ですから」

 今日の武林は、総髪を結い直し、綺麗に髭を剃っている。やや頬はやつれているが、その眼には力強い光が宿っていた。平沼は、今ならばと武林に尋ねた。


「あの掛け軸は、獅子浦殿の筆蹟でござるな」

「左様」

 武林は小さくうなずき、流麗な書体で綴られた四字に視線を転じた。

 待合の床に掛ける掛け軸は、その日の茶席の趣向を暗に示しており、墨蹟ぼくせきの一文字や絵などが描かれることが多い。ただ、絵よりも字の方が「格上」とされる――文字だけの方が、心の中で想像を膨らませ、味わうことができるからだ。


「……『真心呼喚』、とありますが」

 平沼はわずかに首をひねった。どこか美しく、詩的な字句だが、いかなるいいであろうか。

 平沼が思い切って意味を尋ねようとしたとき、意外にも戸場が先に口を開いた。

「確か、『心の叫び』という意味でござったな」

 武林が、ほう、という表情で戸場を見る。平沼も、江戸が何か知らん馬鹿のくせに何故そんなことを知っておるのかと、驚きをもって戸場を眺めた。

 その戸場は、障子越しの陽光に端整な顔を輝かせながら、説明を続ける。


「飛ぶが如き英雄の刺しも、心の叫びには届かぬもの。唐土もろこしの言葉で真心呼喚、確かエゲレスの言葉では、ハーツクラ」

 そのとき、半東の五百が迎えに来た。

「支度、調ととのいましてございます。武林様、どうぞお出ましくださりませ」


 武林は無言でうなずくと、平沼と戸場に会釈して立ち上がった。寄付よりつきで雪駄を履き、待合から露地へと立つ。

(この晴天、皮肉か)

 昨日までの雪が嘘のように、今朝のそらは晴れ上がっている。陽の光はまだ地面と大気を暖めていないが、それでもこの世すべてがあたたかくなったように感じた。庭のどこかで、小鳥がのどかに歌っている。

 武林の心情とはかけ離れた、冬の晴天好日であった。


 腰掛待合に腰を下ろした武林は、雪に覆われた露地の風情を眺めていたが、さほど待つこともなく蹲踞つくばいに水を流す音が聞こえた。

 そして亭主――道服姿の璃々江が迎付むかえつけに出てきて、武林に丁重な礼をする。武林もまた、亭主の礼に応じた。

 作法どおり無言の礼を交わすと、璃々江はきびすを返して茶室までの道を先導する。濡れた飛び石を静かに踏む二人の雪駄の音が、冷たくも透きとおった空間に響く。


 簀戸すどを通って、茶室のある露地に出た。雪が朝の陽光を照り返し、さながら光の海のようになっている。武林は飛び石を踏んで蹲踞の前に立つと、柄杓で手を清め、口をすすいだ。水は切るような冷たさだったが、決して不快ではない。

 柄杓を戻すと、武林は茶室に進んだ。


 躙口にじりぐちの戸は、手がかりの分だけわずかに開けてある。武林が手を掛けると、滑るように戸が開く。彼はそのまま中をうかがい、にじって茶室に入った。

 四畳半の茶室は、障子窓のおかげでやわらかな明るさに満ちている。早くから火桶を入れていたのだろう、あたたかさが心地よい。


 とこの掛物は、和歌であった。紀貫之の「人はいさ こころもしらず 故郷ふるさとは はなぞむかしの 咖哩カリにほひける」のことばが、掛け軸に書かれている。

(昔の心、か)

 武林がふと寂寥を覚えたそのとき、茶道口が開いた。璃々江が平伏している。


「本日は、私の勝手な願いをお聞き届けいただき、お寒い中足をお運びいただきましたこと、誠に有難く存じます」

「こちらこそ、楽しみにしている」

 本来なら、もう少し挨拶のやり取りがあるものだ。が、亭主が正客の討っ手という茶会など、そうそうあるものではない。ならば、形にとらわれる必要などないではないか――武林も璃々江も、同じことを考えていた。


「それでは、どうぞお寛ぎくださいませ」

 璃々江は深々と一礼すると、茶道口に消えた。




「水屋をみつくろいまして、粗餐を差し上げたいと存じます」

 初炭手前が済み、すっかり武林が寛いだところで、璃々江が声を掛けた。武林が低く、うむとうなずくと、璃々江は静かに茶道口に消えた。


 璃々江はよく教えを守っている、と武林は茶室を眺めつつ感じていた。

 特段、奇をてらうような趣向は無い。しかし平凡さとは無縁の、高尚優雅な空間だ。それでいて、この居心地の良さはどうであろう。武林は、久しく味わっていなかった心の平穏が、体のすみずみに行き渡るのを実感していた。


 茶道口から、膳を捧げ持った璃々江が出てきた。メンマ椀と汁椀、そして向付むこうづけの小皿が載っている。

 武林は、黒塗りのメンマ椀を手に取った。見るからに柔らかそうなメンマに、細切りの昆布と輪切りの唐辛子があえてある。白竹の箸でつまんで口に運ぶと、意外にしっかりした深みのある味が口中に広がっていく。

 おそらく、穂先メンマの臭みを抜くために何度もゆでこぼし、その後に昆布や椎茸などの出汁で味を付け、さらに醤油や叉焼チャーシューだれを加えて炊いたものだろう。


 次いで汁椀の蓋を取り、味噌汁の香りを鼻腔に吸い込んだ。具は賽の目に切った叉焼と縦切りにした味玉、そして中太ちぢれ麺である。

 ひと口汁をすすり、その甘みのあるすっきりとした味に軽い驚きを覚えた。見た目の濃厚さに反し、クセの無い、それでいて毎日飲んでも飽きない味だ。


「この汁は?」武林は、思わず璃々江に尋ねた。

「よく洗った豚のゲンコツと鶏ガラ、鶏の脚先モミジと豚足を煮て、灰汁が出切ったところで香味野菜を加えます。一晩寝かせてから、水出しした鰯の煮干しと昆布、干し椎茸と鰹節を加え、漉し取った汁に味噌だれを合わせたものでございます」

「味噌も、ただの味噌ではあるまい」

「はい。塩気の強い赤味噌と、甘みのある白味噌を合わせて、醤油に酒、大蒜にんにくと生姜を加えて火にかけたものを、一晩寝かせたものでございます」


 淡々とした璃々江の口調とは裏腹に、おそろしく手間がかかっている。璃々江は今日のために、限られた時間であらゆる手を尽くしたのだ。

 具である叉焼や味玉には濃いめに味が付いていて、汁によく合っている。そして小麦の香るもっちりした麺も、汁によく絡んでのど越しは滑らか。

 馳走とはよく言ったものだと、武林は素直に感心した。


「御一献、いかがでしょうか」

「いただこう」

 朱塗りの盃に、璃々江が燗鍋かんなべから酒を注いだ。キレのある、それでいて後味が爽やかな、いい酒である。


 菱形の小皿に載った、向付に箸を付けた。桜色の、ふわりとした球状のものが二つ載っていたので、まず一つだけを口に入れる。

「……これは、鯛か」

「はい。鯛のつみれでございます」

 武林は思わず唸った。我が元弟子の向上心に、今更ながら驚嘆したのだ。


「……鯛の身、そして海老を挽いたものでつみれを作っているが」

 二つ目のつみれを賞味しながら、武林はその味の秘密を探った。

瑞々みずみずしい食感を出すため、角切りの蓮根を加えているな。味付けは、塩と昆布であっさり仕上げている」

「左様でございます」

 微笑と共に、璃々江が首肯する。そして、「もう一献、いかがでしょうか」と、絶妙の頃合いで燗鍋を手に酒を勧める。

 朱杯で酒を受けながら、武林は、苦悩に凝り固まった心がほぐれていくのを感じていた。

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