(八)はなぞむかしの
「さすがは
冷えた指先を暖めるように抱えた汲み出し茶碗を、平沼
「白湯……と申しても、拙者のは白うはござらぬが?」
平沼は、救いを求めるように
一客一亭の当日。唯一の客である武林と、その付き添いである平沼将監と戸場の三人は、
武林の付き添いと言っても、平沼らの目的は半分護衛、半分監視である。大目付の詮議を拒み、屋敷に立て籠った武林は、罪人同然の扱い――討っ手を差し向けられるほどの――だった。それが、討っ手である
平沼は首を振り、ふたたび白湯を口に含んだ。お歴々の考えることは分からん、今はただ、無事に武林を送り迎えするだけだ――万一武林が逃亡を企てた際に備え、戸場を連れてこなければならなかったことだけは残念だが。
それにしても、この白湯は美味い。
「実にやわらかな、
つい、口に出してしまう。その嘆声に、はじめて武林が反応した。
「いい水を、時間をかけて沸かしたのです。水は、
今日の武林は、総髪を結い直し、綺麗に髭を剃っている。やや頬はやつれているが、その眼には力強い光が宿っていた。平沼は、今ならばと武林に尋ねた。
「あの掛け軸は、獅子浦殿の
「左様」
武林は小さくうなずき、流麗な書体で綴られた四字に視線を転じた。
待合の床に掛ける掛け軸は、その日の茶席の趣向を暗に示しており、
「……『真心呼喚』、とありますが」
平沼はわずかに首をひねった。どこか美しく、詩的な字句だが、いかなる
平沼が思い切って意味を尋ねようとしたとき、意外にも戸場が先に口を開いた。
「確か、『心の叫び』という意味でござったな」
武林が、ほう、という表情で戸場を見る。平沼も、江戸が何か知らん馬鹿のくせに何故そんなことを知っておるのかと、驚きをもって戸場を眺めた。
その戸場は、障子越しの陽光に端整な顔を輝かせながら、説明を続ける。
「飛ぶが如き英雄の刺しも、心の叫びには届かぬもの。
そのとき、半東の五百が迎えに来た。
「支度、
武林は無言でうなずくと、平沼と戸場に会釈して立ち上がった。
(この晴天、皮肉か)
昨日までの雪が嘘のように、今朝の
武林の心情とはかけ離れた、冬の晴天好日であった。
腰掛待合に腰を下ろした武林は、雪に覆われた露地の風情を眺めていたが、さほど待つこともなく
そして亭主――道服姿の璃々江が
作法どおり無言の礼を交わすと、璃々江は
柄杓を戻すと、武林は茶室に進んだ。
四畳半の茶室は、障子窓のおかげでやわらかな明るさに満ちている。早くから火桶を入れていたのだろう、あたたかさが心地よい。
(昔の心、か)
武林がふと寂寥を覚えたそのとき、茶道口が開いた。璃々江が平伏している。
「本日は、私の勝手な願いをお聞き届けいただき、お寒い中足をお運びいただきましたこと、誠に有難く存じます」
「こちらこそ、楽しみにしている」
本来なら、もう少し挨拶のやり取りがあるものだ。が、亭主が正客の討っ手という茶会など、そうそうあるものではない。ならば、形にとらわれる必要などないではないか――武林も璃々江も、同じことを考えていた。
「それでは、どうぞお寛ぎくださいませ」
璃々江は深々と一礼すると、茶道口に消えた。
「水屋をみつくろいまして、粗餐を差し上げたいと存じます」
初炭手前が済み、すっかり武林が寛いだところで、璃々江が声を掛けた。武林が低く、うむとうなずくと、璃々江は静かに茶道口に消えた。
璃々江はよく教えを守っている、と武林は茶室を眺めつつ感じていた。
特段、奇を
茶道口から、膳を捧げ持った璃々江が出てきた。メンマ椀と汁椀、そして
武林は、黒塗りのメンマ椀を手に取った。見るからに柔らかそうなメンマに、細切りの昆布と輪切りの唐辛子があえてある。白竹の箸でつまんで口に運ぶと、意外にしっかりした深みのある味が口中に広がっていく。
おそらく、穂先メンマの臭みを抜くために何度もゆでこぼし、その後に昆布や椎茸などの出汁で味を付け、さらに醤油や
次いで汁椀の蓋を取り、味噌汁の香りを鼻腔に吸い込んだ。具は賽の目に切った叉焼と縦切りにした味玉、そして中太ちぢれ麺である。
ひと口汁をすすり、その甘みのあるすっきりとした味に軽い驚きを覚えた。見た目の濃厚さに反し、クセの無い、それでいて毎日飲んでも飽きない味だ。
「この汁は?」武林は、思わず璃々江に尋ねた。
「よく洗った豚のゲンコツと鶏ガラ、
「味噌も、ただの味噌ではあるまい」
「はい。塩気の強い赤味噌と、甘みのある白味噌を合わせて、醤油に酒、
淡々とした璃々江の口調とは裏腹に、おそろしく手間がかかっている。璃々江は今日のために、限られた時間であらゆる手を尽くしたのだ。
具である叉焼や味玉には濃いめに味が付いていて、汁によく合っている。そして小麦の香るもっちりした麺も、汁によく絡んでのど越しは滑らか。
馳走とはよく言ったものだと、武林は素直に感心した。
「御一献、いかがでしょうか」
「いただこう」
朱塗りの盃に、璃々江が
菱形の小皿に載った、向付に箸を付けた。桜色の、ふわりとした球状のものが二つ載っていたので、まず一つだけを口に入れる。
「……これは、鯛か」
「はい。鯛のつみれでございます」
武林は思わず唸った。我が元弟子の向上心に、今更ながら驚嘆したのだ。
「……鯛の身、そして海老を挽いたものでつみれを作っているが」
二つ目のつみれを賞味しながら、武林はその味の秘密を探った。
「
「左様でございます」
微笑と共に、璃々江が首肯する。そして、「もう一献、いかがでしょうか」と、絶妙の頃合いで燗鍋を手に酒を勧める。
朱杯で酒を受けながら、武林は、苦悩に凝り固まった心がほぐれていくのを感じていた。
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