第13話 軋む音、蘇る命の旋律

あの廃墟となった集会所で、埃を被ったピアノと再会して以来、美咲の心は、新たな希望に満ち溢れていた。母ひなこが、れいと共に夢見た「どんな人でも自由に音を奏でられる場所」。そして、その夢が形を変えて、この阿波座の集会所のピアノへと繋がっていたこと。その全てが、美咲の心を、止まっていた時間から解き放ち、未来へと力強く押し進めてくれていた。


第十二話で業者に見積もりを依頼し、半年以上かかるという修復期間と高額な費用が提示された後、れいの協力もあって、美咲はピアノの修復を依頼した。だが、その道のりは、想像以上に長く、困難を極めるもんやった。


修復の始まりと、直面する壁

数週間後、業者が集会所にやって来て、ピアノの本格的な解体作業が始まった。美咲とれいは、その様子を、まるで手術を見守る家族のように、複雑な心境で見つめていた。ピアノは、まず外装が外され、次に鍵盤、そして内部の複雑な機構が、一つ一つ丁寧に分解されていく。ハンマーや弦、響板といった、音を司る重要な部品が露わになると、美咲は、その傷み具合に改めて息を呑んだ。錆びついた弦、虫食いでボロボロになったフェルト、湿気で反り返った木材……。


「やはり、予想以上に内部の傷みが激しいですね。特に、響板の割れは深刻で、これは慎重に修復しないと、元の響きは取り戻せません」

業者の担当者の言葉は、まるでその度に、美咲の胸に重く響いた。


ピアノは、集会所から業者の工房へと運び出された。美咲とれいは、空っぽになった集会所を見つめ、寂しさと、それでも必ず戻ってくるという希望が入り混じった感情を抱いた。


焦燥と、紡がれる絆

それから、本当に長い時間が流れた。季節は二度巡り、桜が咲き、新緑が眩しい季節を過ぎ、真夏の太陽が大阪の街に照りつけるようになった。美咲は、社会人としての仕事にも完全に慣れ、忙しい毎日を過ごしていた。それでも、毎週土曜の午後、れいの家を訪れ、二人で業者からの進捗報告を聞くことは、何よりも大切な時間やった。


電話越しに伝えられるのは、いつも困難な状況ばかりやった。

「この年代のピアノに使われている部品は、もう製造されていませんので、一つ一つ手作業で修理するか、海外の専門業者に依頼するか、古い他のピアノから代用を探すしかなくて……」

「特に、ハンマーのフェルトは、当時の羊毛の質を再現しないと、音色が全く変わってしまいます。試行錯誤を繰り返しているところです」

「鍵盤下の木製フレームも、湿気でかなりの反りが出てしまってますね。削り直して調整するんですが、ミリ単位の精度が求められるので、熟練の職人がつきっきりで作業しています」


美咲は、そのたびに心が折れそうになった。こんなにも時間がかかって、本当にあのピアノは、また音を奏でるようになるんやろうか。不安が募り、諦めそうになる夜もあった。仕事で疲れて帰ってきても、ピアノのことが頭から離れず、眠れない日もあった。


そんな時、いつも美咲を支えてくれたのは、れいやった。

「ええんや、美咲ちゃん。ひなこは、待つのが得意な子やったから。私たちも、焦らんと、じっくりと待ちましょ」

れいは、美咲の手を優しく握り、まるで自分自身に言い聞かせるように、穏やかに語りかけた。れいの瞳の奥には、美咲の不安を包み込むような、深い優しさと、ひなことの思い出が宿っていた。

「この鍵盤は、ひなこがよく『この部分が、音を優しく包み込んでくれるんや』って言ってたのよ」

「このダンパーのフェルトの色、ひなこが好きやった色に似てるやろ?」

れいは、業者から送られてくる修復中の部品の写真を見ながら、一つ一つの部品にまつわるひなこの思い出を語ってくれた。その言葉が、美咲の心を支えた。修復の過程で、美咲は、改めて母のピアノへの愛情や、音楽への想いを深く感じ取っていった。それは、単なる機械の修理やのうて、母とれいの青春の記憶を、一つ一つ紡ぎ直していく作業やった。


埃の向こうに見えた希望

数ヶ月が経った頃、ようやく、状況が好転し始めた。

「長い間探していた弦の代用品が、ドイツの古い工房で見つかりました。費用はかかりますが、当時の響きに近いものを再現できるでしょう」

「ハンマーのフェルトも、納得のいく仕上がりになりそうです。音の立ち上がりが、格段に良くなりましたよ」

業者からの報告は、少しずつ、確かな希望の光を帯びてきた。美咲とれいは、電話越しにその言葉を聞き、思わず顔を見合わせて、小さく喜び合った。


そして、ある日。美咲が、ピアノの周りの埃を拭いていると、鍵盤の奥に、何か小さなものが挟まっているのに気づいた。埃にまみれて、ほとんど見えへんかったけど、そっと抜き取ってみると、それは、色褪せた一枚の紙やった。手のひらサイズに折り畳まれていて、開くと、母の丸い字で、五線譜が書かれている。そして、その譜面の下には、こんな言葉が添えられていた。


『いつか、この歌を、あの子と、そして、みんなと歌いたい。』


美咲の心臓が、ドクンと大きく鳴った。これは、母がこのピアノで、この集会所で、未来への願いを込めて作った歌なんやろうか。美咲は、その譜面を大切に手に取り、れいの元へと駆け寄った。


「森田さん! これ、お母さんの歌ですよね? きっと、このピアノで歌いたかった歌なんです!」

美咲が興奮して見せると、れいの顔色が変わった。

「これは……」

れいが、その譜面をじっと見つめた。その瞳の奥に、遠い日の思い出が鮮やかに蘇っていくようやった。

「そうや……これは、ひなこが、あの『秘密の教室』で、最後に私に聞かせてくれた歌や。未来への希望を込めて、二人で作った、私たちだけの歌……」

れいの声が、震えていた。喜びと、懐かしさと、そして、失われた時間への郷愁が、入り混じった感情やった。


美咲は、その譜面を、れいと共に何度も見つめた。美咲には楽譜は読めへんけど、そこに込められた母の想いは、確かに感じられた。そして、れいは、指でその譜面をなぞりながら、途切れ途切れに、メロディを口ずさんだ。それは、どこか懐かしく、温かい、優しい旋律やった。


いよいよ、その時へ

秋が深まり、冷たい風が吹き始めた頃。ついに、業者から待ちに待った連絡が入った。


「お待たせいたしました。ピアノの修復が全て完了いたしました。素晴らしい音色を取り戻しましたよ」


美咲とれいは、電話越しにその言葉を聞き、思わず顔を見合わせて、目に涙を浮かべた。長かった。本当に長かった。


「美咲ちゃん、いよいよやね」

れいの声が、喜びと感動で震えていた。


翌日。美咲とれいは、修復を終えたピアノを初めて見に、業者の工房を訪れた。そこにあったのは、埃にまみれていた過去の残骸ではなかった。磨き上げられ、新しい命が吹き込まれた、一台の美しいピアノやった。鍵盤は白く輝き、木目も深く艶やかになっている。まるで、あの日のひなこが、そこに立っているかのようやった。


「森田さん……きれい……」

美咲は、感動のあまり、声が出なかった。


担当者が、ピアノの最終調整を終え、二人に向き直った。

「ご希望の日程で、いつでも集会所へ搬出できますが、いつにされますか?」


美咲とれいは、再び顔を見合わせた。この日を、どれだけ待ち望んだことか。このピアノが、再びあの集会所で、ひなこの夢を、二人の歌を響かせる日が、いよいよ目の前まで迫っていた。


肥後橋から阿波座へと繋がる、母の残した旋律。それは、止まっていた時間を動かす、二人の心と心が重なり合う、美しい協奏曲となり始めていた。

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