第12話 埃の向こう、響く協奏曲

あの廃墟となった集会所で、埃を被ったピアノと再会して以来、美咲の心は、新たな希望に満ち溢れていた。母ひなこが、れいと共に夢見た「どんな人でも自由に音を奏でられる場所」。そして、その夢が形を変えて、この阿波座の集会所のピアノへと繋がっていたこと。その全てが、美咲の心を、止まっていた時間から解き放ち、未来へと力強く押し進めてくれていた。


「森田さん、どうやったら、あのピアノ、直せるんでしょうか?」

週末、美咲は、再びれいの家を訪ねていた。テーブルには、美咲がネットで調べた、古いピアノの修復に関する記事や、専門業者の情報が広げられている。

れいは、美咲の情熱的な瞳を見て、優しい笑みを浮かべた。

「そうやねぇ……まずは、専門家に見てもらうのが一番やろうね。あれだけ年季が入っとるんやから、相当手がかかるはずやけど」

れいの言葉には、美咲と同じくらい、ピアノを修復することへの期待が込められているのが伝わってきた。


美咲は、ネットで見つけた地元のピアノ専門業者に問い合わせた。数日後、業者の担当者が阿波座の集会所まで来てくれることになった。美咲とれいは、あの集会所の前に立つ。埃っぽい空気と、錆びたブランコの音が、廃墟となった場所の静けさを際立たせていた。


「これはまた、随分と年季の入ったピアノですねぇ」

やってきた担当者は、ピアノを見るなりそう呟いた。

「正直、かなり厳しい状態です。鍵盤は黄ばんで、いくつか音が出ないところもありますし、内部の木材も湿気で傷んでる可能性が高い。修理となると、費用も時間もかかりますよ」

専門家の言葉は、美咲の期待を打ち砕くには十分やった。だが、美咲は諦めなかった。

「どれくらいかかりますか? どれだけ時間がかかっても、費用がかかっても、私たちは、このピアノを直したいんです」

美咲の真剣な眼差しに、担当者は少し驚いたようやった。れいは、そんな美咲の隣で、ただ静かに頷いていた。

担当者は、数日後に見積もりを出すことを約束し、集会所を後にした。


その夜、美咲は、れいの家で、母のアルバムをもう一度開いていた。特に、ひなこが理科準備室のピアノの前で楽しそうにしている写真や、れいと二人で歌っている写真に目を留める。母は、こんなにも音楽を愛していたんや。美咲が知らなかった、母の情熱。


「そういえば、森田さん、お母さんって、音楽のどんなところが一番好きやったんですか?」

美咲が尋ねると、れいが遠い目をしながら答えた。

「ひなこはね、歌うのが、誰よりも好きやった。上手い下手じゃなくて、感情をそのまま音に乗せるのが、大好きやったんや。それで、みんなの心に、喜びとか、勇気とかを届けたいって、いつも言うてたな」

れいの言葉に、美咲は、母の夢「どんな人でも自由に音を奏でられる場所」の意味を、改めて深く理解した。それは、技術や才能じゃなく、心の音を大切にする場所。


数日後、業者から届いた見積もりは、美咲が予想していたよりも、遥かに高額やった。美咲は、思わず息を呑んだ。社会人になったばかりの自分には、とてもじゃないけど払える金額やない。美咲の顔に、諦めの色が滲みそうになった、その時。

「美咲ちゃん、心配せんでええ。私にも、少しだけ蓄えがあるから。残りは、私が出すわ」

れいの声が、美咲の耳に届いた。

「森田さん……でも……」

「これはな、ひなこが私に残してくれた、最後の宿題みたいなもんや。それに、あんたが、こんなにも真剣に考えてくれてるんやから、私も、できる限りのことをしたい。このピアノは、私にとっても、ひなことの絆そのものやから」

れいの目は、優しく、そして力強かった。その言葉は、美咲の心を温かく包み込み、新たな決意を固めさせてくれた。


長い修復の道のり

ピアノの修復には、業者曰く**「半年は最低でもかかるでしょう。もしかしたら、もっとかかるかもしれません」**とのことやった。その期間の長さは、美咲の想像をはるかに超えていた。初めは、早く音を聴きたいという焦りもあったけど、れいは焦らず、美咲に言った。

「ええんや、美咲ちゃん。ひなこは、待つのが得意な子やったから。私たちも、焦らんと、じっくりと待ちましょ」

その言葉に、美咲は、ゆっくりと頷いた。焦る必要はない。母の夢を、この手で、一つ一つ丁寧に実現していくことが、今、自分にできることなんや。


数週間が過ぎ、数ヶ月が経った。業者の報告は、いつも「予想以上に内部の傷みが激しい」とか、「特殊な部品の調達に時間がかかっている」とか、困難な状況を伝えるものばかりやった。美咲は、そのたびに心が折れそうになった。こんなにも時間がかかって、本当にあのピアノは、また音を奏でるようになるんやろうか。


それでも、美咲とれいは、毎週のように集会所へと足を運んだ。業者から作業の進捗を聞き、時には、ピアノの解体された部品が並んだ様子を、二人でじっと見つめることもあった。ピアノの骨組みだけになった姿は、まるで、母の体がバラバラになってしまったようで、美咲の胸は締め付けられた。


「美咲ちゃん、ここ見てみ。この木の色。ひなこが、よう『この木は、ええ音色出しそうやね』って言うてた、木の色にそっくりや」

れいは、そんな時、いつもピアノの部品を指差しながら、ひなこの思い出を語ってくれた。その言葉が、美咲の心を支えた。修復の過程で、美咲は、改めて母のピアノへの愛情や、音楽への想いを深く感じ取っていった。


ある日、美咲が、ピアノの周りの埃を拭いていると、鍵盤の奥に、何か小さなものが挟まっているのに気づいた。そっと抜き取ってみると、それは、色褪せた一枚の紙やった。手のひらサイズに折り畳まれていて、開くと、母の丸い字で、五線譜が書かれている。そして、その譜面の下には、こんな言葉が添えられていた。


『いつか、この歌を、あの子と、そして、みんなと歌いたい。』


美咲の心臓が、ドクンと大きく鳴った。これは、母がこのピアノで、この集会所で、未来への願いを込めて作った歌なんやろうか。美咲は、その譜面を大切に手に取り、れいの元へと駆け寄った。


「森田さん! これ、お母さんの歌ですよね? きっと、このピアノで歌いたかった歌なんです!」

美咲が興奮して見せると、れいの顔色が変わった。

「これは……」

れいが、その譜面をじっと見つめた。その瞳の奥に、遠い日の思い出が鮮やかに蘇っていくようやった。

「そうや……これは、ひなこが、あの『秘密の教室』で、最後に私に聞かせてくれた歌や。未来への希望を込めて、二人で作った、私たちだけの歌……」

れいの声が、震えていた。喜びと、懐かしさと、そして、失われた時間への郷愁が、入り混じった感情やった。


美咲は、その譜面を、れいと共に何度も見つめた。美咲には楽譜は読めへんけど、そこに込められた母の想いは、確かに感じられた。そして、れいは、指でその譜面をなぞりながら、途切れ途切れに、メロディを口ずさんだ。それは、どこか懐かしく、温かい、優しい旋律やった。


ピアノの修復は、まだ道半ばやった。それでも、美咲とれいの心は、この歌を、再びあのピアノで奏でる日を夢見て、固く結ばれていた。肥後橋から阿波座へと繋がる、母の残した旋律。それは、止まっていた時間を動かす、二人の心と心が重なり合う、美しい協奏曲となり始めていた。

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