【第2話】かつての背中、今は遠く

薄曇りの朝。

リョウは寮舎の食堂で、無言のままパンとスープに口をつけていた。


周囲には十数名の少年少女がいたが、誰も彼に話しかけようとはしない。

昨夜の一件――

腕を変異させ、同居人を一撃で沈黙させた“あの光景”が、彼を異物として隔てていた。


だが、リョウ自身は気にも留めていなかった。


食事とは栄養の摂取に過ぎない。

会話とは、情報交換以上の意味をまだ理解できない。


それよりも――


(……あの声)


彼の耳には、昨晩聞いた音声が、今なおこだましていた。


『お前に名前をやる。リョウ。』

『人間になれ。それが俺からの命令だ。』


その男の名は、“黒牙翔真”。


変異体と化しながら、なお“ヒーロー”と呼ばれた存在。


“翔真”という単語は、記録端末の中にしか存在しなかった。

公的な記録には存在せず、報道にも名を残していない。


ただ、「彼」の戦闘記録と音声ログだけが、密かに保存されていた。


リョウは、そのログの断片を何度も再生した。


画面には、異形の戦士が映っていた。

漆黒の装甲。蒼く光る眼。

圧倒的な存在感を放ちながらも、敵の前で立ち止まり、誰よりも苦悩している。


「これが……黒牙翔真」


彼の姿は、リョウの中に根を張った。

“目標”ではなく、“問い”として。


(なぜ彼は、戦えたのか。なぜ人を守ろうとした?)


(……俺は、どうすれば――)


その日、施設の管理官からリョウに新たな指令が下された。


「本日から君には“外部通学型適応訓練”が科せられる」


「通学……?」


「郊外の一般高校に“仮編入”される。滞在は数週間だ。社会性と順応性を確認する」


リョウは頷いた。


(“人間になれ”って言ったのは、あの声だった。なら……やってみるしかない)


市立翔栄高校。

人間の“日常”が流れる場所。


制服姿で登校したリョウは、教室に通された。


「今日から仮編入してくるリョウ・ナナミくんです。皆さん仲良くしてあげてくださいね」


担任が紹介すると、生徒たちは一斉に視線を向ける。


その中には好奇心もあったが、警戒も、明確な拒絶もあった。


人間は――異質なものに敏感だ。


「席は、窓際の一番後ろね」


リョウは淡々と移動し、机に座る。


その背中に、数人のヒソヒソ声が飛ぶ。


「……あいつって、寮生じゃない?」「なんか目つきやばくね?」「怖……」


だが、彼は反応しない。


(これが“日常”か……)


昼休み。屋上。


ひとり静かに空を眺めていたリョウの背後に、誰かの気配が立った。


「――ここ、使ってる?」


声をかけてきたのは、一人の少女だった。


栗色の髪に、眼鏡をかけた地味な印象。だがその眼差しはまっすぐだった。


「……かまわない」


「ありがとう。ここの空、好きなんだ」


彼女は手すりにもたれ、弁当箱を開く。


「名前、リオって言うの。偶然だね、リョウと一字違いだ」


リョウは初めて、日常的な笑顔を向けられた。


「あんまり喋らないタイプ?」


「……話すことが、ないだけだ」


「ふーん。でもそうやって話してるじゃん」


彼女の言葉は、なぜかリョウの中の“ざらつき”を緩やかに溶かしていった。


だが、その日常は、ほんのわずかにしか続かなかった。


下校中。


駅前広場の地下道から、異音が響いた。


ビィィィ……ギュルルル……ギィ、ガァンッ!


通行人が足を止める。

音の発生源から、黒い粘液のような塊が這い出してきた。


異形。


それは、人型を模しているが、骨格も皮膚もない。

ただの“集合体”が、二足歩行を模倣していた。


リョウの中で、何かが震える。


(……あれは、敵だ)


周囲が逃げ出すなか、リョウは立ち止まる。


ポケットの奥にある小型端末を手に取り、戦闘モードを起動する。


《起動確認:コード13――変異準備完了》


右腕が、軋んだ音と共に変形してゆく。


皮膚が裂け、金属のような骨格が露出する。


まだ完全ではない。

痛みもある。制御も甘い。


それでも――


(やるしかない)


リョウは、変わろうとしていた。


“人間になる”ために。


“ヒーローになる”ために。


それが、あの背中に触れる唯一の手段だと信じて。

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