第31話 篠原と小さな屋上

 翌日。


 昼休みの終わり際、翔真は廊下の端でぼんやりと自販機を眺めていた。


 缶コーヒーが落ちてくる機械音がやけに大きく響く。


 胸の奥にこびりつく昨夜の御影の顔――

 血に濡れた手で肩を叩かれた感覚が、何度思い出しても冷たく、気持ち悪かった。


 「おーい、榊」


 軽い声に振り向くと、篠原岳が手を振っていた。


 「屋上行こうぜ。昼休みもう終わっちまうけどよ、サボりサボり」


 断る気力もなく、そのまま後をついて屋上へ出る。


 潮風混じりの風が吹き抜け、空は雲が早く流れていた。


 篠原はフェンスに寄りかかり、自販機で買った缶ジュースを二つ取り出した。


 「ほれ、おごり。たまには甘いの飲め」


 渡されたオレンジソーダの缶は、冷たくて指先が少しだけ痺れた。


 「なんだよ、顔暗ぇなー。彼女に振られたか?」


 「……そういうんじゃない」


 翔真は缶を持ったまま、ぼんやりと街を見下ろした。


 細い道路に車が並び、歩道には制服を着た中学生や買い物袋を抱えたおばさんが歩いている。


 (この景色を……御影は壊したいって、心の底から思ってるんだろうか)


 胸が冷たくなる。


 すると、篠原が缶を口に運びながら、ぽつりと言った。


 「俺さ」


 「……?」


 「お前とこうしてると、なんか普通でいられる気がすんだよ」


 思わず篠原の横顔を見た。


 いつものようにへらっと笑っていたが、その目は少しだけ遠くを見ていた。


 「うち、あんまいい家じゃねーからさ。親も忙しいし、兄弟の世話ばっかで家にいると窮屈で」


 「……」


 「だから学校は楽なんだよ。友達と適当に馬鹿言って、ちょっとサボって、そんだけで救われんだわ」


 翔真は何も言えなかった。


 でも、その話を聞いてるだけで少しだけ胸が楽になった。


 「お前って、もっと暗くて怖い奴かと思ってたけどよ」


 篠原は少し笑い、フェンスを軽く叩いた。


 「案外普通じゃん。そういうの、なんかホッとすんだわ」


 缶を持つ手が少し震えた。


 (俺は……普通じゃない)


 身体の奥には青白い脈が光り、硬質化した組織が詰まっている。

 いつ御影みたいに全部を壊したくなるか、分からない。


 それでも――


 「……篠原」


 「ん?」


 「……ありがとな」


 篠原は少しだけ驚いた顔をして、それからいつもの調子でにやっと笑った。


 「何それ、キメーって。まあ、俺に感謝するならまたゲーセン付き合えよ」


 その軽さが、たまらなく温かかった。


 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。


 篠原は肩をぽんと叩いて教室へ戻っていった。


 翔真はその背中をしばらく見つめ、それから自分もゆっくりと歩き出した。


 (まだ……大丈夫だ)


 (俺は、御影みたいにはならない)


 胸の奥の青い脈が、ほんの少しだけ優しく光った気がした。

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