第22話 雪乃の手

 血に塗れたまま、翔真は人気の少ない裏路地に座り込んでいた。


 足元には、アンノウンの体液と、粉々に砕けたコンクリートの破片。

 爪先に付着した黒い血が乾ききらず、ねっとりと糸を引いている。


(……あんな顔、されるくらいなら)


(もう……ヒーローなんか……)


 頭を抱えて膝を抱き込み、視界を閉ざす。


 目を閉じても、脳裏にはあの人々の怯えた顔がはっきりと浮かんだ。


 (俺は……化け物なんだ)


 胸の奥が冷たく、ひどく孤独だった。


 血管の奥で、青い脈がかすかに明滅する。


 その光すら、もう人間のものには思えなかった。


 「……榊くん?」


 小さな声がした。


 ――幻聴かと思った。


 しかし、もう一度呼ばれる。


 「榊くん……だよね?」


 はっと顔を上げると、細い路地の入口に雪乃が立っていた。


 制服姿のまま、小さな鞄を胸に抱え、不安そうにこちらを見つめている。


「なんで……ここに……」


 かすれた声が喉を震わせる。


 雪乃はおそるおそる歩み寄ると、数歩手前で立ち止まった。


 その瞳は微かに怯えて揺れていた。


 (そりゃそうだ……俺は……)


 血に塗れ、鋭い爪を生やし、青白く光る脈を浮かび上がらせた――

 もはや怪物のような姿なのだから。


 「来るな……!」


 思わず叫んだ。


 雪乃にだけは、こんな自分を見せたくなかった。


 「……来るなって言ってるだろ!!」


 声が少し裏返った。

 それでも雪乃は、瞳を潤ませながら一歩だけ前に進んだ。


 「……榊くん、怪我してるの?」


 優しい声。

 いつもと変わらない声。


 「怪我なんか……してない。これ以上近づくな。俺は……」


 言い切れなかった。


 “俺は化け物だから”。

 そう言ったら、もう二度と雪乃とは話せなくなる気がした。


 「でも……辛そうじゃん」


 雪乃がそっと膝を折り、翔真と同じ高さまで視線を下ろす。


 頬にはうっすら涙の跡。


 それでも、笑おうとしていた。


 「……私ね、榊くんがどんな人でも……優しいってこと、知ってるよ」


 心臓が、痛いほど鳴った。


 雪乃は少し震えながらも、そっと手を差し出してきた。


 その白い手は、少し汗ばんでいて、小さくて、細かった。


 「触っちゃ……ダメだ」


 硬質化した黒い爪を見下ろし、翔真は必死に言う。


 「これに触ったら……お前まで、汚れちまう」


 雪乃は小さく首を振った。


 そして、そのままそっと翔真の手を包み込んだ。


 冷たい硬質の指先を、柔らかな雪乃の手が優しく包む。


 人間らしい温度が、じわりと染み込んでくる。


 「冷たい……でも……」


 雪乃は小さく微笑み、涙を滲ませながら言った。


 「ちゃんと、榊くんの手だよ」


 心臓が、何かを取り戻したように脈を打った。


 胸の奥で青白く光る脈が、少しだけ温度を持った気がした。


 (俺……まだ……)


 ぎゅっと雪乃の手を握り返す。


 黒く鋭い爪が彼女の白い指を傷つけないように、そっと、そっと力を込める。


 涙が勝手にこぼれた。


 温かいものが頬を伝い、雪乃の制服の袖に零れる。


 (まだ、俺は人間でいられるかもしれない)


 そう思った瞬間、胸がひどく痛くなって、同時に少しだけ救われた。


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