第2話:祖母の願い、田中悠斗との出会い

コンテストのポスターを目にして以来、

奏の心は落ち着きませんでした。

どうすれば、あの夢のような企画に

自分が関われるのか。

漠然としたアイデアはあっても,

それを形にする術が見つからない。

そのもどかしさが、

彼女を常に焦らせていました。

胸の奥に、小さな火種が

くすぶり続けているようだった。

時間だけが、ただ過ぎていく。


そんな日常を送る中、ある週末、

奏は久しぶりに祖母の家を訪ねました。

祖母は昔から漫画が大好きで、

特に『リボン』の創刊号からの大ファンです。

奏が初めて漫画に触れたのも、

祖母が大切に保管していた、

日焼けしてページが黄ばんだ

古い『リボン』がきっかけでした。

祖母はいつも笑顔で、

「漫画はね、夢と魔法が詰まってるんだよ」と

話してくれたものです。

奏が漫画を好きになったのは、

祖母の影響が大きかったのです。

祖母と漫画は、切っても切れない

奏の原点でもありました。


しかし、数年前から祖母の視力は徐々に衰え、

今では大好きな漫画を自分で読むことが

難しくなっていました。

最近、祖母の家を訪ねた時も、

棚に並んだ漫画を寂しそうに眺めている姿を見た奏は、

胸を締め付けられます。

祖母の手には、

もう文字を追えない雑誌が握られていました。

そのページは、白く、遠い世界に思えただろう。


「ああ、またこの話だね。

この漫画、ばあちゃんも大好きだったのになあ。」

祖母が以前、寂しそうに、

そして少し諦めたように呟いていた言葉が、

奏の胸に蘇ります。

「もう字が小さくてね、見えなくなっちゃって……。

普通の朗読サービスは便利だけどね、

漫画はね、コマの間が心の間なのよ。

キャラクターたちが息をのむ瞬間とか、

表情がパッと変わる一瞬の『間』が、

字を読むだけじゃ分からないのよ。

あれは、声だけじゃなくて、

コマ割りやト書きの『間』で感じるものだから。」

祖母の言葉は、市販の朗読サービスでは解決できない、

漫画ならではの深いニーズを奏に示しました。

既存の技術では、決して埋められない溝がある。

祖母は、もう二度と、

漫画のキャラクターたちの息遣いや、

心情が語られる声を目で追うことはできないのだろうか。

大好きな漫画の世界に、

もう二度と触れられないのだろうか。

その思いが、奏の心を強く揺さぶったのです。


「待って……」


奏の頭の中で、点が線に繋がったような

衝撃が走ります。

胸の奥が、熱くしびれるような感覚に襲われました。

ボカロの、あの感情豊かな声。

もし、あの声で、漫画を読み上げられたら?

ただの棒読みの読み上げじゃない。

キャラクターの声色。

その時の感情。

緊迫したシーンには効果音を。

物語の情景が目に浮かぶような、完璧な演出。

それはまさに「究極のコミック読み上げサービス」だ。

祖母に、もう一度、

大好きな漫画の世界を「耳で」楽しんでもらいたい。

彼女の寂しそうな顔を、

もう一度、輝く笑顔に変えたい。


そして、その思いは、祖母だけにとどまりませんでした。

視覚にハンデを持つ人々。

目が悪くなってしまった高齢者。

あるいは、忙しくて漫画を読む時間がないけれど、

物語の世界に触れたいと願う人々。

世界中の、漫画を愛するすべての人に、

新たな感動を届けたい。

奏の夢は、一人の祖母への想いから、

より大きな、普遍的な願いへと広がっていったのです。

漠然としていた夢は、明確な形を持って、

奏の心に宿りました。

祖母への深い愛情と、漫画への情熱が交錯し、

ボカロへの好奇心が加わったその夢は、

奏の全身を熱くさせました。

彼女は、このアイデアを実現する

「受け皿」となるものを探し始めました。

コンテストのポスターに書かれた文字が、

再び脳裏に浮かびます。


その日の放課後、奏は校舎裏の、

普段はあまり通らない道を進んでいました。

頭の中は、閃いたばかりのアイデアと

コンテストのことでいっぱいだ。

諦めるなんて選択肢はなかった。

ただ、どうすればいいか、その道筋が見えない。

まるで迷路に迷い込んだような心境の中、

ふと、どこからか、聞き慣れたボカロの音が

耳に飛び込んできました。

澄み切った電子音のメロディーと、

感情豊かな歌声が、校舎の壁を越えて響いてくる。

その音は、まるで自分を呼んでいるかのようでした。

音のする方に誘われるように、足を向ける。

そこには、「DTM同好会」と書かれた

小さな部室がありました。

普段はほとんど人の出入りがない、

まるで隠れ家のような、ひっそりとした場所です。


中を覗き込むと、ヘッドホンをつけた少年が、

PCに向かって集中しているのが見えました。

ディスプレイには、見たことのない複雑な

ボカロの打ち込み画面が表示されています。

無数の線と数字が並び、専門的な用語が並ぶ。

まるで暗号のようにも見えましたが、

その一つ一つに意味があることは理解できました。

彼の指先が、キーボードの上を滑らかに動き、

次々と音が紡がれていく。

まるで魔法を見ているようでした。

その少年こそが、田中 悠斗だったのです。

彼は、ボカロの打ち込みに長け、

学園内でもその技術を知る者は少なかった。


悠斗は、ボカロのピッチ調整、ゲイン調整、

ビブラート、アクセントといった専門的な技術を

自在に操り、無機質な音声データに

まるで命を吹き込むかのような作業をしていました。

彼の作り出すボカロの歌声は、

透明感と感情が宿り、奏の心に深く響きます。

その完璧な調声に、奏はただただ圧倒され、

呼吸をするのも忘れるほど見入ってしまいました。


悠斗が作った曲が終わり、彼がヘッドホンを外す。

その瞬間、奏は吸い寄せられるように、

思わず声をかけました。

「あの……今の、ボカロの音……

すごく、綺麗でした……!」

自分の声が上ずったのを感じ、

心臓がドキドキと音を立てます。


悠斗は、突然の声に少し驚いたようだったが、

すぐに冷静な視線を奏に向けました。

彼の瞳は、真剣で、そして少しだけ、

好奇心の色を宿しているように見えました。

「……ありがとう。」

その短い返答にも、奏は胸が高鳴りました。

まるで、憧れの漫画のキャラクターと

話しているような感覚でした。


悠斗との出会いが、奏の漠然としたアイデアを

具体的な形へと導く、まさに閃きの瞬間でした。

この人なら。

悠斗の技術力を見て、奏の中に確信が生まれたのです。

私の頭の中にある『耳で聴く漫画』を、

この人なら形にできるかもしれない!

頭の中で、アイデアが次々と繋がっていく。

まるでパズルのピースがはまるような感覚です。

漫画のキャラクターのセリフを、ボカロが読んだら?

悠斗の技術を使えば、きっと、

感情豊かに、あの声で、漫画を読み上げられる!

祖母の喜ぶ顔が、鮮明に脳裏に浮かび、

その笑顔が、奏の背中を強く押しました。


奏は、祖母の願いと、この新しいアイデアへの

強い確信を胸に、意を決して悠斗に話しかけました。

震える手をポケットに隠し、

心臓が口から飛び出しそうでした。

「あの、田中くん!

あの……突然で本当に申し訳ないんですけど、

集栄社のコンテスト、一緒に、出てくれませんか!?」


悠斗は、奏の突飛な提案に少し戸惑ったようでした。

彼はクールな表情で、現実的な懸念を口にします。

「集栄社のコンテストって、かなり本格的だぞ。

生半端な気持ちで出られるもんじゃない。

ボカロで感情を表現するのも、

想像以上に技術が必要になる。

それこそ、プロレベルの調整が必要だ。

それに、チームを組むってことは、

最後まで責任を持ってやり遂げるってことだ。

簡単なことじゃない。」


悠斗は、真剣な瞳で奏を見つめます。

彼の言葉は、的確で、奏の未熟さを突きつけます。

しかし、奏は怯みませんでした。

祖母の寂しそうな顔。『リボン』への揺るぎない熱い思い。

そして、ボカロが漫画に新たな命を吹き込む、

彼女が思い描いた壮大なビジョン。

奏は、それら全てを、熱意を込めて語りました。

声が枯れるのも気にせず、身振り手振りで訴えかけます。

「…でも、私にしかできないこと、きっとあります。

だから…どうか一緒に挑戦させてください!」


奏の真剣な眼差しは、

悠斗の心の奥底に眠っていた何かを揺り動かしました。

彼のクールな表情が、少しだけ、緩む。

眉間の皺が、わずかに消える。

彼の表情には、驚きと、少しの戸惑い、

そして、理解の光が宿っていました。

こんなに真っ直ぐな情熱を、彼は見たことがなかった。

二人の会話を通して、互いの価値観や夢が

少しずつ共有されていきます。

悠斗は、奏の純粋な情熱と、

その真っ直ぐな瞳に引き込まれていく自分を感じました。

同時に、内心ではボカロが単なる音楽を超えて

「感情を伝える媒体」としての未開拓な可能性に

密かに興味を抱いていた自分と重なります。

かつて、ボカロを使って伝えたい気持ちがあったが、

誰にも届かなかったという個人的な原体験が

彼にはありました。

このプロジェクトは、その原体験に

再び光を当ててくれるかもしれない。

こんなに熱い人間が、本当にいたなんて。


「……分かった。やってみるか。

中途半端は嫌いなんだ。やるなら本気でいこう。」


悠斗の短い言葉に、奏の顔がパッと輝きました。

その瞬間、二人の間に確かな絆が生まれたのです。

まるで、漫画のワンシーンのようでした。

夢への大きな一歩が、今、踏み出されたのです。

学園の夕暮れが、二人の背中を優しく照らしていました。

この先どんなに大変でも、

きっとこの瞬間を思い出せば頑張れる。

そんな確信が、胸の奥で小さく灯っていました。

その胸に、新たな物語の序章を刻みながら、

奏は希望に満ちていました。


二人がコンテストの準備を始める中で、

何気ない会話が交わされた。

「…そういや姉ちゃんが昔、よくリボン買ってたな。

なんか応募券? みたいなの集めててさ。」

悠斗は少し照れくさそうに目を逸らした。

「リボンの読者サービスだっけ。

二つのQRコード合わせると、

好きな子に気持ち送れるやつ。

当選しないと声にならないとか、

片思い応援するやつらしい。」

「そういうの、結構みんなやるんだな。」

思いがけない言葉に、

奏の胸の奥が小さく波打つ。

悠斗の家にもリボンがあったなんて。

それだけで、なんだか少しだけ嬉しくなった。

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