第19話
季節は夏になろうとしている。
ディクルベルクには大きな水源がないために、湿度の低さは並ではない。不快指数などという言葉とは無縁だった。ただ、高緯度の宿命か、一日の温度変化は激しく、日が高くなれば肌は汗ばむくらいには暑い。
額に汗しつつ、
「よいしょ、よいしょ」とユウは巨大なフォークを振っている。
黒々と完熟した堆肥がある。
針葉樹林から失敬した落葉、生活から生まれる生ごみ、排泄物などを適当量の土と一緒に混ぜ込んで、微生物発酵させたものだが、これが土壌改良に欠かせない。
植物はなにもないところから生まれるわけではなく、身体を作る材料がいる。それが炭素であり、窒素であり、リンなどの元素なのだが、自然界では動物たちの営みによって、自ずと供給されている。しかし、農作地では自然界の営みが皆無なうえに、植物がそれらの元素を使って作った実りを人間たちが持ち出すため、土中栄養素は減りゆく一方。だから、土が枯れてゆく、といわれる。それを防ぐために一定量の材料元素を供給してやる。一般的なのが、いまユウがかき回している完熟たい肥だ。
「落葉の量、糞の種類などで出来上がる堆肥の性質はまったく異なります」
とリリアはいう。
「粘土質の土壌には落葉が多めのものを。あとは植物の種類と状態を見つつ、生ごみや排泄物の配合を変えていきます。一定の堆肥を使っていては改善されません。土の団粒構造が壊されたり、団粒化していても植物が育たかなったり、なぜそのような差が出るのか定かではありませんが」
「食物連鎖の差だ」とユウはいう。「食物連鎖を重ねている生物の方が窒素、つまり植物の成長を助ける力が強い。草を食べた虫を食う鳥の方が、草を食べただけの馬より窒素量が多い。一方で、土壌を豊かな団粒にするのは微生物の力だ。微生物の主食は炭素。窒素は邪魔だ。炭素の豊富な馬牛の糞の方が効果が高い」
ぱちぱち、とリリアは瞬きを繰り返していた。
「確かに、合理的な説明かもしれません」
「とはいえ、土壌が団粒化したから窒素源になりやすい鶏糞ばかり撒いていたらどうなるかわからん。リリアがいうように、状況に応じて正しい施肥をしないといけない。答えは必ず土壌と植物が教えてくれる。彼らを観察して正解を模索していこう」
「はい」
ディクルベルクでは数種類の堆肥を常に製造している。ディクルベルクの利点は無数の家畜がいることだった。馬はもちろん、鳥、牛、豚、いつか森の中で荷車を引いていたアルパカ似の家畜マゴ、もちろん人の排泄物も集めて肥やす。
製造所はディクルベルクの端にある。実験場はアントワーヌ邸の植物園だった。
実験場の片隅で、ユウは巨大なフォークを振っている、ということだ。
「よいしょ、よいしょ」
このころ、リリアは浄水場の呪縛が解けて、畑地に向かっては用水路を登ったり下ったりして、その完成度を確かめていた。アントワーヌ邸の実験施設にはあまり顔を出していない。しかし、この実験施設が放りっぱなしというわけではなかった。元々、ここの管轄はリリアではない。
「ユーウくん」と突如後ろから抱きしめられた。柔らかなふくらみが二つ、背中で形を変えている。僧帽筋を覆わんばかりの大きさに喉が震えた。
「そろそろ休憩にしましょ」
と、首筋に甘い声音を吹きかけられて、身の毛がよだつ。
「ト、トワイライトさん、その、あまり抱きつかれると……」
「ダメ?」と丸っこい顔の眉をひそめられると、ダメとはいえない。
「ともかく、このままじゃ歩けませんから」
「わたしが背中に乗れば歩けるかしら」
首に腕を回してひょいと跳ねた。ユウは前屈みになって柔らかな温もりを負い、咄嗟に彼女の臀部へ手を回そうとしてためらう。触れていいのか?
「やっぱり若い男の子は力持ちねえ」
「ねえ、じゃありません」
振り落そうとしてやめた。動くと彼女の柔らかな肉が背中で揺れる。ほとんどお湯でできてるんじゃないかと思われるほど柔軟にできている。大量のお湯が薄い皮一枚に守られて、人の形を取り、背中の上に乗っている。
「ト、トワイライトさん、限界です……」なにが限界とはいわないが。
「あら、そう」大人しく首から腕がほどかれ、ユウの心身を圧迫していた重しが消えてゆく。安堵したような、惜しいような。
小豆色の髪を左右に揺らしたトワイライトの屈託のない笑みがユウの顔のちょっと下にある。
「ごめんなさいね、息子ができたみたいで。嬉しくなっちゃって」
「いえ、一向に構いませんが……」
「わたしみたいな年増のおばさんにじゃれつかれても困っちゃうか」
「いえ、そんなことは……」
年増のおばさんなどというが、初めて会ったときはリリアにそっくりで、彼女の姉だと信じた。それが母だという。どう見ても二十代で、見ようによってはリリアと二、三歳しか変わらないのではないかと思わせる。強いていうなら、全身に少し多めに乗った脂質が醸されて妖艶さを帯びているところが年齢を感じさせる。
「うちは一人っ子でしょう? あの子は小さなころ、よそで育ったからあんまり人に甘えるっていう感じでもないし。とはいっても、仲はいいのよ。そんな言い訳みたいなこと、いわなくてもいっか」
邸内に戻って、長い廊下を歩く。
「お風呂に入って、着替えをして、喫茶室に集合ね。あの子もそろそろ帰ってくるでしょう」
「ええ、わかりました」
つなぎ姿のトワイライトも土に汚れている。そのやや埃がかった顔をわずかに傾げ、
「一緒に入る? お風呂」
「入りませんよ」
さっさとトワイライトと離れてしまった。
ここで入りますといっていたら、別の人生が開かれていたかもしれない。
からかわれているのか、それとも、彼女が思春期の男の子の扱いを知らないのか、それとも、知っていてやっているのか。ユウが知る限り、トワイライトとその夫、フローデン侯爵の仲は悪くない。むしろ、睦まじいといってもいい。貴族にとって、市民の子など犬猫と同じなのだろうか。
「ヘラヘラと笑いやがって」
廊下の支柱の影からジェシカが覗いて陰険な笑みを浮かべている。
「トワイライトさまに手を出したら斬首だぞ」
「おまえ、見てたのか」
「なんだよ、見られて都合の悪いことがあったのか」
「悪いのは覗き見してるおまえの性根だよ」
「なにぃ、わたしの性根のどこが悪いって?」
柱の陰から飛び出して、のっしのっしと向かってくる。
「よーし、今日こそおまえをけちょんけちょんにしてやろう」
「成長してないお嬢ちゃんにおれが負けるか」
すぐに取っ組み合いになって力比べに圧勝し、ジェシカを組み伏せ抱え上げ、絨毯の上に投げ飛ばす。
「ぐげええ」
「一昨日出直してこい」
「どうやって一昨日に行けというんだ」
背を向けたユウの腰にしがみついてくる。愚かにも持ち上げようとしてくる。
「騎士道の風上にも置けない奴」
ユウはぐっと体重を落として、ジェシカの背中をつかみ上げて腰に乗せ、そのまま投げた。
「ぐふ」と呻く彼女にのしかかり、首に腕を回して絞めにかかる。
「諦めないとこのまま絞め落とすぞっ!」
「誰が諦めるもんかっ!」
廊下の真ん中で格闘する二人を避けて人が通る。
しばらくして虫の息になったジェシカを置いて、ユウは部屋に戻った。
ジェシカが貞淑にして来るならともかく、ああやって実戦になれば相手ではない。しかし、トワイライトと一戦交えるとしたら、こうはならないだろう。おそらくなにもできずにユウの方が降服するに違いない。彼女のなにがそうさせるのか、定かではないが、もはや一生頭が上がらないだろうな、という確信がユウの中にあった。
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