第3話 忍び寄る影

翌朝、由美はどこか夢の中にいるような気分だった。


──いや、夢であってほしかった。


昨夜、確かに娘の部屋にあの女がいた。黒く潰れた目、白いワンピース。そして、あの不吉な言葉。


「……あなたも……もうすぐ……」


あれは夢じゃない。はっきりと見た。感じた。


だが、美咲は何も覚えていない様子で、朝から元気に朝食を食べていた。


「ママ、どうしたの? なんか、顔色悪いよ」


「……大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」


笑ってごまかすが、手が震えていた。


夫の健二が新聞をめくりながら何気なく言う。


「今日、車の展示会があるから、帰りは少し遅くなるよ」


「……そう。気をつけてね」


本当は早く帰ってきてほしかった。


一人で夜を過ごすのが、怖かった。


だが、それ以上に、今日はスーパーへ行くのが怖かった。


◆視線

シフトの時間になり、スーパーへ向かう。


不安を抱えながらも、「大丈夫、きっと今日は何もない」と自分に言い聞かせた。


だが、店の自動ドアをくぐった瞬間、ぞわりと背中に悪寒が走る。


──見られている。


店内を見回すが、いつもと変わらない風景。客が行き交い、レジではパート仲間が忙しそうに働いている。


(気のせい……だよね)


気持ちを切り替え、レジに立つ。


客が次々と買い物を終えていくが、妙な違和感があった。


(なんだろう……?)


商品をスキャンする手が止まりそうになる。


──並んでいる客の中に、じっとこちらを見つめる影がある。


視線を感じる方を見る。


レジの列の最後に、あの女がいた。


白いワンピース、黒く潰れた目。


(また……!)


恐怖で心臓が締め付けられる。


だが、何よりおかしいのは──


昨日とまったく同じ格好、まったく同じ表情で、そこに立っていることだった。


(あれは……本当に、人なの……?)


視線をそらそうとするが、目が離せない。


女は、静かに、何かを呟いた。


──「もう、戻れないよ」


その瞬間、客が前に進み、由美の視界を遮った。


(今の、聞き間違い……?)


再び列の最後に目をやる。


しかし──そこにはもう、誰もいなかった。


◆ロッカーの中の何か

シフトを終え、ロッカー室へ向かう。


「今日も、変なことが……」


パート仲間に話そうかとも思ったが、怖がられるだけだろう。


(でも、本当に疲れてるだけ……?)


そう思いながらロッカーを開けた瞬間──


「!!!」


ロッカーの奥に、白い指が見えた。


──いや、「隠れていた誰か」が、こちらをじっと見ていた。


瞬間的にロッカーを閉める。


心臓が跳ね上がる。


(今の……なに!?)


恐る恐るもう一度開ける。


──何もない。


汗が滲む。足が震えて立っていられない。


「……帰らなきゃ……」


逃げるようにスーパーを後にした。


だが、このとき、まだ気づいていなかった。


──その異変が、自宅にまで広がっていることに。


◆娘の異変

帰宅し、玄関を開ける。


「ただいま……」


リビングから、娘の美咲が出てきた。


「おかえり、ママ!」


元気な笑顔。けれど、どこか違和感があった。


(何か、変……?)


視線を下げる。


──娘の足元が、濡れていた。


「美咲……足、どうしたの?」


「あれ? わかんない……いつの間にか濡れてた」


いつの間にか?


この部屋のどこにも、水がこぼれた形跡はない。


なのに、娘の足はしっとりと濡れ、床に水滴が落ちている。


そのとき、娘が突然こう言った。


「ねえ、ママ……あの人、もう帰っちゃったの?」


「……誰?」


「……」


娘は少し考えてから、にこっと笑った。


「忘れちゃった! でも、さっきまでずっとそこにいたんだよ!」


娘が指差したのは、玄関だった。


背筋が凍る。


そこには、誰もいない。


……なのに、


──玄関のマットの上には、水滴の跡がついていた。


それは、まるで誰かが濡れた足で立っていたかのように。


◆忍び寄る気配

その夜、由美は眠れなかった。


夫が帰宅したのは深夜だったが、何も言えなかった。


リビングで一人、膝を抱える。


「……もう、戻れないよ」


スーパーで女が言った言葉が、耳から離れない。


何かが、確実に家の中に入り込んでいる。


天井の隅に、小さな黒いシミができていた。


水の跡? カビ?


……それとも、もっと恐ろしい何か?


──この家は、もう安全ではない。


だが、まだ由美は知らなかった。


その翌日、自分の身体にも異変が起こることを──。

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