4 夏祭りは浴衣を着るべき
4-1 こういうのでいいんだよ、こういうので
夏休みの塾は意外と静かだ。それは俺が塾が開く時間から自習室に籠もっているからだろう。「善田は熱心だな」という塾長に「家だと集中できないんです」と当たり障りのないことを言うと、塾長は笑ってくれた。そうして何故か俺にジュースやチョコレートをくれたりする。
塾長は何だかんだと話しかけてきて「俺は頑張ってる奴が好きだぞ」と言ってくれるけど、俺はこの人にそこまで踏み込んでほしくない。結局、夏休み開始五日で毎日自習室通いは止めにした。後は図書館、カフェ、ファミレス。そういうところを転々としていくしかない。自分の家にいればいいのにって俺でも思うけど、あの家にはあまりいたくない。いい思い出も、俺のくつろげる場所もない。だったら、外に居た方がずっとマシだ。
俺は夏休みの宿題と塾の宿題、それから読書用のなるべく分厚い本を抱えてその辺を彷徨っていた。志乃は俺が勉強している姿を見ていると満足するらしい。何に満足しているのかよくわからない。
その日は俺が夕方の塾の時間までの暇つぶしに、志乃を呼んで恋人同士らしくコーヒーショップの新作デザートを拝んでいたところだった。さわやかな甘夏ソースのかかったアイスクリームは少しだけ安っぽくていかにも「青春でござい」という味だった。そうそう、こういうのでいいんだよこういうので。
「陽一君って、将来何になりたいの?」
まずい。いかにも希望が溢れていますよと言わんばかりのキラキラした質問が志乃から飛んできた。
「さあ。大学行ってからのんびり考えようと思って」
急に俺はその場から逃げ出したくなった。別に誰も俺を責めているわけではないのに、ここにいてはいけないと言われている気がする。
「志望校はどうやって決めたの?」
「行けそうなところを書いてるだけ」
ああ、こんな話は大っ嫌いだ。俺が家庭の話の次に嫌いなのは、将来の話だ。俺は将来のことを考えないように話題を変えた。
「それよりもさ、今度の花火大会楽しみだな」
「浴衣、着てきてほしいんでしょ?」
「うん、志乃の浴衣姿見たいな」
そうそう、こいつとはこういう話だけしていればいいんだ。新作のアイスクリーム、話題の映画、流行のチーズスナック、芸能人のゴシップ、そしてセックス。もうそうれだけでいいじゃん。
「じゃあ、当日楽しみにしてて」
「今から待ちきれないな」
志乃の心は、漠然とした将来のことから一気に週末の花火大会に変わったはずだ。夏の夜特有の湿った熱を帯びた空気にむせかえるソースと醤油の匂い、子供たちの歓声、どっから湧いてくるのかわからないたくさんの人、そして一斉に見上げる夜空。
そう考えると、花火ってすごい発明だと思う。花火が嫌いな人なんてそんなにいないと思う。あんなに美しくて誰の目にも止まる花火っていいなあ、と俺は一瞬思った。俺も花火になりたい。花火になって、そして一瞬で惜しまれて消えたい。
「私、金魚すくいしたい。陽一君は?」
「やってみたいけど、うちで飼えるかな?」
「意外と簡単だよ、ねえ、一緒にやろう?」
こうして俺は志乃と花火大会で金魚すくいをする約束をさせられた。うちで金魚って飼えるかなあ……別に不可能じゃないけど、俺は自分の家に志乃を連想させるものを常駐させるのは嫌だな、という気分になった。
***
志乃と別れた後、塾から家に帰ってくると「おかえり!」という明るい声が聞こえてきた。そうして目の前に現れた姉を見て、俺は思わず叫んでしまった。
「なんだよその格好!」
「へへ、いいでしょ? 買ってもらったんだ」
玄関先には、紺色の地に金魚柄の浴衣を身につけた姉がいた。ご丁寧に頭にデカい花のかんざしまでついている。
「いいでしょ、じゃなくてなんだよその格好は」
「ようちゃんのために着て待ってたのに」
いやちょっと待てよ。姉が「買ってもらった」という人は絶対寺崎さんだ。つまり寺崎さんが姉にこれを着てほしいって買ってあげた浴衣なんだよな? それを、俺のために着て待っていたってことなのか?
「俺腹減ってるんだけど。なんか先に食っていい?」
「いいよ? 何時間でも待っててあげる」
何時間も待たせるもんか。こんなに可愛い姉、放っておいてなるものか。本当は飯より先に姉を食ってしまいたかったけど、このまま姉を抱きしめれば浴衣に俺の匂いがついてしまうかもしれない。そうならないように、とりあえずシャワーを浴びてこないと。
シャワーを浴びてリビングに帰ってくると、姉が冷凍のたこ焼きを大量に解凍して並べていた。
「それも一緒に食べようと思って。雰囲気出るでしょ?」
目の前には浴衣姿の姉。テーブルにはソースと青のりのかかったたこ焼き。ガンガンに効いてるエアコン。そして風呂上がりの俺。
「うん、なんかめっちゃ夏っぽい」
俺は日本の夏に感謝した。夏って、本当にいいよな。俺は姉の解凍したたこ焼きを全部食べた。多分ふた袋くらいあったと思う。姉の用意したものなら、俺はなんだって食べるからな。その辺で買った1パック700円とかするくせに6個くらいしか入っていないたこ焼きとは比べものにならないくらい、美味しかった。たかが冷凍のたこ焼きなのに、なんでだろう。もちろん、目の前に姉がいるからなんだけど。
それから俺の部屋に来たけれども、俺の頭には寺崎さんの顔がちらついていた。
「寺崎さんには言ってきてるのか?」
「うん、ようちゃんに見せてくるって言ってある」
言ってきてるなら、まあ、いいか……浴衣を脱がせたら姉は下着をつけていなかった。バカなんじゃないのこいつ。バカなんだけどさ。エロいことしか考えてないアホなのに、すっげえいい匂いがするんだよな。なんで俺はこいつの弟なんだろう。なんで俺は善田陽一なんだろう。
最後の方は、浴衣とかどうでもよかった。姉はいつものように優しくて、柔らかくて、そして涼しげだった。
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