第8話 影を継がぬ者

──建長五年、師走の始め。

空気は乾き、冬の匂いが町を包み込む。


鶴岡八幡宮の石畳は霜で白く、竹林は音もなく震えていた。

けれどその静けさの奥に、誰にも知られず、ある名が眠っている。


 



 


蒼志丸は、あの夜の戦いのあとも、塚の前に立ち尽くしていた。


「……もうひとりの、蒼志命……」


黒衣の法師が残した最後の言葉が、耳から離れない。


──俺も……蒼志……だった。


 


「なら……なぜ父を……?」


拳を握る。小太刀の柄が、かすかに震える。


彼は継がれなかった者であり、名を失った者だった。


だが、それでも──人を斬った。

父を、貞弥を、名もなき者たちの想いを踏みにじって。


「同じ名を持って生まれながら、なぜ……」


その疑問は、応えのない夜に溶けていく。


 



 


仁阿弥は、寺の書院で一通の巻物を開いていた。

それは、誰にも見せぬまま、密かに封じていた古文書。


「──双つの魂が、ひとつの名を争う時、必ず片方は影に堕ちる」


神の座に就くには、名と意志が揃わねばならない。

しかし、蒼志命という名には、すでに二人の候補が現れていた。


ひとりは、蒼志丸。

そしてもうひとりは──名を奪われた少年。黒衣となった者。


「彼は……継げなかった。だから、奪おうとした」


仁阿弥は目を伏せる。


「それもまた、悲しき灯の終わり方よ」


 



 


一方そのころ、白蓮は鎌倉の外れ、かつて封じの術が行われた地静輪の苑を訪れていた。


「黒衣が堕ちた今、座は空いた。けれど、蒼志丸にはまだ足りない」


背後から、あの黒装束の影が現れる。


「何が、足りないと?」


「赦しよ」


白蓮の赤い瞳が、凛と光る。


「自らの罪を受け入れ、影に飲まれぬ意志を持たねば、いずれ彼もまた、もう一人の黒衣になる」


影が問う。


「では、それを教える者は?」


白蓮は小さく微笑んだ。


「私よ。私は、名を奪った者の側だから」


 



 


夜。

蒼志丸の右目が、うっすらと光る。


──夢だ。


父の影が、火の灯る囲炉裏の前に座っている。

かつて、まだ彼が少年だった頃の記憶のようでもあり、違うようでもある。


「お前は、名を背負う器になれるか?」


その声は、優しかった。だが厳しさもあった。


「……わからない。俺にはまだ……」


父は首を振った。


「名を継ぐとは、生きる意志を継ぐことだ」


「生きる……?」


「神とは、生と死を越えて立つものではない。

人々の願いを、忘れられた想いを、すくい上げる在り方のことだ」


蒼志丸は問う。


「……じゃあ、黒衣の法師も……?」


「彼も、願った。ただ、その願いは誰にも届かなかった。だから、お前だけは──届かせろ」


夢が、薄れていく。

最後に、父が言った。


「お前の名は、もう与えられた。次は──お前が、それを選ぶ番だ」


 



 


目覚めた蒼志丸は、手を見つめる。


その手が斬ったもの。

その目が見たもの。


全てが、重く沈んでいる。


だがその手の奥から、蒼い光がかすかに浮かび上がる。


「影を継がず、名を選ぶ」


彼はそう呟いた。


自分の意志で、命という名に向かうのだと。


 



 


翌日。

白蓮が寺を訪れた。


「蒼志命として生きる覚悟が、できた?」


蒼志丸は頷いた。


「だが、それは俺が神になるためじゃない。神にならずに済むように、この名を継ぐ」


白蓮は笑った。


「それでいい。神の座は、必ずしも座らなくていい。ただ、選び続ける者であれば」


蒼志丸の右目が、穏やかに光った。


 


──そして、霜月が終わる。


名を持たぬ影は消え、

名を選んだ少年の歩みが、また一歩、深まっていく。

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