第8話 影を継がぬ者
──建長五年、師走の始め。
空気は乾き、冬の匂いが町を包み込む。
鶴岡八幡宮の石畳は霜で白く、竹林は音もなく震えていた。
けれどその静けさの奥に、誰にも知られず、ある名が眠っている。
*
蒼志丸は、あの夜の戦いのあとも、塚の前に立ち尽くしていた。
「……もうひとりの、蒼志命……」
黒衣の法師が残した最後の言葉が、耳から離れない。
──俺も……蒼志……だった。
「なら……なぜ父を……?」
拳を握る。小太刀の柄が、かすかに震える。
彼は継がれなかった者であり、名を失った者だった。
だが、それでも──人を斬った。
父を、貞弥を、名もなき者たちの想いを踏みにじって。
「同じ名を持って生まれながら、なぜ……」
その疑問は、応えのない夜に溶けていく。
*
仁阿弥は、寺の書院で一通の巻物を開いていた。
それは、誰にも見せぬまま、密かに封じていた古文書。
「──双つの魂が、ひとつの名を争う時、必ず片方は影に堕ちる」
神の座に就くには、名と意志が揃わねばならない。
しかし、蒼志命という名には、すでに二人の候補が現れていた。
ひとりは、蒼志丸。
そしてもうひとりは──名を奪われた少年。黒衣となった者。
「彼は……継げなかった。だから、奪おうとした」
仁阿弥は目を伏せる。
「それもまた、悲しき灯の終わり方よ」
*
一方そのころ、白蓮は鎌倉の外れ、かつて封じの術が行われた地静輪の苑を訪れていた。
「黒衣が堕ちた今、座は空いた。けれど、蒼志丸にはまだ足りない」
背後から、あの黒装束の影が現れる。
「何が、足りないと?」
「赦しよ」
白蓮の赤い瞳が、凛と光る。
「自らの罪を受け入れ、影に飲まれぬ意志を持たねば、いずれ彼もまた、もう一人の黒衣になる」
影が問う。
「では、それを教える者は?」
白蓮は小さく微笑んだ。
「私よ。私は、名を奪った者の側だから」
*
夜。
蒼志丸の右目が、うっすらと光る。
──夢だ。
父の影が、火の灯る囲炉裏の前に座っている。
かつて、まだ彼が少年だった頃の記憶のようでもあり、違うようでもある。
「お前は、名を背負う器になれるか?」
その声は、優しかった。だが厳しさもあった。
「……わからない。俺にはまだ……」
父は首を振った。
「名を継ぐとは、生きる意志を継ぐことだ」
「生きる……?」
「神とは、生と死を越えて立つものではない。
人々の願いを、忘れられた想いを、すくい上げる在り方のことだ」
蒼志丸は問う。
「……じゃあ、黒衣の法師も……?」
「彼も、願った。ただ、その願いは誰にも届かなかった。だから、お前だけは──届かせろ」
夢が、薄れていく。
最後に、父が言った。
「お前の名は、もう与えられた。次は──お前が、それを選ぶ番だ」
*
目覚めた蒼志丸は、手を見つめる。
その手が斬ったもの。
その目が見たもの。
全てが、重く沈んでいる。
だがその手の奥から、蒼い光がかすかに浮かび上がる。
「影を継がず、名を選ぶ」
彼はそう呟いた。
自分の意志で、命という名に向かうのだと。
*
翌日。
白蓮が寺を訪れた。
「蒼志命として生きる覚悟が、できた?」
蒼志丸は頷いた。
「だが、それは俺が神になるためじゃない。神にならずに済むように、この名を継ぐ」
白蓮は笑った。
「それでいい。神の座は、必ずしも座らなくていい。ただ、選び続ける者であれば」
蒼志丸の右目が、穏やかに光った。
──そして、霜月が終わる。
名を持たぬ影は消え、
名を選んだ少年の歩みが、また一歩、深まっていく。
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