第7話 黒衣、鎌倉に立つ

──建長五年、霜月の末。


空は曇天。

寒気を孕んだ風が、鎌倉の町をぬけ、山と寺院を撫でてゆく。


だが、その風の奥に紛れるようにして、「在ってはならぬもの」が到来した。


 



 


その朝、鶴岡八幡宮の境内に、一人の旅僧が現れた。


背丈は高く、衣は黒一色。

笠の下の顔は見えず、だがその足取りには、どこか「地を知らぬ者」の軽さがあった。


宮の門番が声をかける。


「おい、そこの御坊。ここは鎌倉の社、立入は――」


だが、言葉の途中で、彼の瞳が凍りついた。


その旅僧の足元には──「影」がなかった。


ただの幻影でも、夜盗でもない。

この世に属さぬ存在が、いま、鎌倉に入った。


 


旅僧は静かに、笠を上げる。


現れたのは、感情を捨てた白面。


「名など要らぬ。私はただ、座を継ぎに来た」


声は男とも女ともつかず、だが確かに人間ではなかった。


──黒衣の法師。

名を奪う神。

蒼志命の座を狙う者。


 



 


寺の裏庭。

竹の葉が舞うなか、蒼志丸は小太刀を振っていた。


昨夜、井戸の前で抱いた疑問──「託された名」──は、今なお胸に渦巻いていた。


「名を継ぐ……神になる……そんなもの、俺に出来るのか」


刀を振るたび、迷いが出る。

貞弥を失ってから、刃の重みが変わった気がする。


「……弱いな、俺は」


そのとき、声がした。


「弱くていい。名を継ぐ者は、最初から神ではない」


振り返れば、そこに仁阿弥がいた。


「師匠……」


「心して聞け、蒼志丸。黒衣の法師が来る」


「……!」


「町で神主が一人、影を喰われた。すでに、神座はひとつ落ちた。

狙われているのは、お前の中の名だ」


 


仁阿弥の声は静かだが、言葉には焦燥が滲んでいた。


「このままでは、神の名が奪われる」


 



 


その頃、八幡宮の二十五坊の裏手。

白蓮は高台の松に腰掛け、鎌倉の町を見下ろしていた。


彼女の背には、黒衣の気配が迫っていた。


「来たのね。名を奪いに」


「……お前も育てに来たくせに、口ぶりが綺麗だな」


そう言って姿を現したのは、黒衣の法師本人。


だが、かつて蒼志丸の夢に現れたときと違う。


その影の中に、異なる魂の断片が見える。


──それは、斬られた父のものであり、消えた貞弥のかけらであり、

名を持てなかった数多の魂の声。


「欲しいのは、名前じゃない」

黒衣の法師が言う。


「意味だ。俺たちが生きていた証を、神に刻みたい。名もなきまま消えた魂の、代弁者として」


白蓮は瞳を細めた。


「それは、正義?」


「違う。呪いだよ」


 



 


夕刻。


蒼志丸は、仁阿弥とともに寺を出た。


目指すは、町外れの「影焚きの塚」──かつて怨霊を封じるために作られた結界の要。


だが、その途中。


「──来たか」


空気が凍った。


黒衣の法師が、塚の前に立っていた。


「神の座を継ぐなら、ここでだ」


静かに、小太刀を抜く蒼志丸。


「お前が……父を斬ったのか」


「……ああ。だが、それは正統な継承だった。俺もまた、神になれるはずだった」


「ふざけるなっ……!!」


蒼志丸が叫び、小太刀を振る。


だが、黒衣の法師は、その影で刃を受け止めた。


「未熟だな。お前では、まだ神にはなれない」


蒼志丸の右目が、燃えるように疼く。

その瞳の奥で、灯が揺れる──


「父の意思は、俺が継ぐ!!」


刃と影が交錯する。


一太刀、二太刀──蒼志丸の動きは研ぎ澄まされてゆく。


その奥で、黒衣の法師が呟く。


「やはり……その眼は、俺では開けなかったか……」


 


──その瞬間。


空が裂けた。


鎌倉の地脈に走った歪みが、音を立てて弾ける。


白蓮が叫ぶ。


「ダメよ、蒼志丸! 今、それを斬れば──!」


 


──遅かった。


蒼志丸の刃が、黒衣の法師の胸を貫いていた。


 


だがその瞬間、蒼志丸の右目に、父の最期ではない別の情景が流れ込む。


──少年。

──山の祠。

──白蓮とともに、笑っている姿。


 


「……嘘だ……お前は……」


黒衣の法師は、血を流しながら言った。


「……俺も……蒼志……だった」


──それは、蒼志丸と同じ名を持ちながら、名を奪われ、影に堕ちた者。


もう一人の、蒼志命候補。


 



 


夜が明ける頃。

塚の前に、静けさだけが残っていた。


黒衣の法師は、影となって消えた。

だが、その魂の残滓は、蒼志丸の右目に焼きついている。


 


「お前の名は、もう譲れぬものとなった」


仁阿弥が言った。


「神の名を背負い、生きよ。──蒼志命として」

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