第7話 黒衣、鎌倉に立つ
──建長五年、霜月の末。
空は曇天。
寒気を孕んだ風が、鎌倉の町をぬけ、山と寺院を撫でてゆく。
だが、その風の奥に紛れるようにして、「在ってはならぬもの」が到来した。
*
その朝、鶴岡八幡宮の境内に、一人の旅僧が現れた。
背丈は高く、衣は黒一色。
笠の下の顔は見えず、だがその足取りには、どこか「地を知らぬ者」の軽さがあった。
宮の門番が声をかける。
「おい、そこの御坊。ここは鎌倉の社、立入は――」
だが、言葉の途中で、彼の瞳が凍りついた。
その旅僧の足元には──「影」がなかった。
ただの幻影でも、夜盗でもない。
この世に属さぬ存在が、いま、鎌倉に入った。
旅僧は静かに、笠を上げる。
現れたのは、感情を捨てた白面。
「名など要らぬ。私はただ、座を継ぎに来た」
声は男とも女ともつかず、だが確かに人間ではなかった。
──黒衣の法師。
名を奪う神。
蒼志命の座を狙う者。
*
寺の裏庭。
竹の葉が舞うなか、蒼志丸は小太刀を振っていた。
昨夜、井戸の前で抱いた疑問──「託された名」──は、今なお胸に渦巻いていた。
「名を継ぐ……神になる……そんなもの、俺に出来るのか」
刀を振るたび、迷いが出る。
貞弥を失ってから、刃の重みが変わった気がする。
「……弱いな、俺は」
そのとき、声がした。
「弱くていい。名を継ぐ者は、最初から神ではない」
振り返れば、そこに仁阿弥がいた。
「師匠……」
「心して聞け、蒼志丸。黒衣の法師が来る」
「……!」
「町で神主が一人、影を喰われた。すでに、神座はひとつ落ちた。
狙われているのは、お前の中の名だ」
仁阿弥の声は静かだが、言葉には焦燥が滲んでいた。
「このままでは、神の名が奪われる」
*
その頃、八幡宮の二十五坊の裏手。
白蓮は高台の松に腰掛け、鎌倉の町を見下ろしていた。
彼女の背には、黒衣の気配が迫っていた。
「来たのね。名を奪いに」
「……お前も育てに来たくせに、口ぶりが綺麗だな」
そう言って姿を現したのは、黒衣の法師本人。
だが、かつて蒼志丸の夢に現れたときと違う。
その影の中に、異なる魂の断片が見える。
──それは、斬られた父のものであり、消えた貞弥のかけらであり、
名を持てなかった数多の魂の声。
「欲しいのは、名前じゃない」
黒衣の法師が言う。
「意味だ。俺たちが生きていた証を、神に刻みたい。名もなきまま消えた魂の、代弁者として」
白蓮は瞳を細めた。
「それは、正義?」
「違う。呪いだよ」
*
夕刻。
蒼志丸は、仁阿弥とともに寺を出た。
目指すは、町外れの「影焚きの塚」──かつて怨霊を封じるために作られた結界の要。
だが、その途中。
「──来たか」
空気が凍った。
黒衣の法師が、塚の前に立っていた。
「神の座を継ぐなら、ここでだ」
静かに、小太刀を抜く蒼志丸。
「お前が……父を斬ったのか」
「……ああ。だが、それは正統な継承だった。俺もまた、神になれるはずだった」
「ふざけるなっ……!!」
蒼志丸が叫び、小太刀を振る。
だが、黒衣の法師は、その影で刃を受け止めた。
「未熟だな。お前では、まだ神にはなれない」
蒼志丸の右目が、燃えるように疼く。
その瞳の奥で、灯が揺れる──
「父の意思は、俺が継ぐ!!」
刃と影が交錯する。
一太刀、二太刀──蒼志丸の動きは研ぎ澄まされてゆく。
その奥で、黒衣の法師が呟く。
「やはり……その眼は、俺では開けなかったか……」
──その瞬間。
空が裂けた。
鎌倉の地脈に走った歪みが、音を立てて弾ける。
白蓮が叫ぶ。
「ダメよ、蒼志丸! 今、それを斬れば──!」
──遅かった。
蒼志丸の刃が、黒衣の法師の胸を貫いていた。
だがその瞬間、蒼志丸の右目に、父の最期ではない別の情景が流れ込む。
──少年。
──山の祠。
──白蓮とともに、笑っている姿。
「……嘘だ……お前は……」
黒衣の法師は、血を流しながら言った。
「……俺も……蒼志……だった」
──それは、蒼志丸と同じ名を持ちながら、名を奪われ、影に堕ちた者。
もう一人の、蒼志命候補。
*
夜が明ける頃。
塚の前に、静けさだけが残っていた。
黒衣の法師は、影となって消えた。
だが、その魂の残滓は、蒼志丸の右目に焼きついている。
「お前の名は、もう譲れぬものとなった」
仁阿弥が言った。
「神の名を背負い、生きよ。──蒼志命として」
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