第2話 神の声、鬼の影

夜が明けきらぬうちに、寺の鐘が二度鳴った。

それは、近隣に異変があったことを告げる合図。


「また喰われたか……」

仁阿弥は眉をひそめ、寺の下に広がる村を見下ろした。


蒼志丸もすぐに着替え、僧兵の列に加わる。

だが、昨夜の白蓮との遭遇が頭を離れなかった。

目覚めるとは何なのか。彼女は何者なのか。


──いや、それよりも──


あのとき、確かに感じた。

白蓮の背に揺れていた扉のような影。

あれは……異界(いかい)への門。

つまり、彼女はただの妖ではない。人と神と鬼の境界に立つ、何かだ。


 



 


村では、一夜にして六人が姿を消していた。

家の戸口には、獣の爪痕のような裂け目があり、地には奇妙な灰が残っていた。

まるで存在そのものが拭い取られたように、痕跡だけを残して。


「これ……影喰いじゃねえか?」

僧兵のひとりが言った。


「影喰い」──古より伝わる、魂を持たぬ鬼。

人の影を喰い、その人間の気配だけを奪って消す。

ただし、現世に現れるには鍵が要る。


「……やはり、お前の右目に反応したか」

仁阿弥は言った。


「この現象は、お前を開かせるために仕組まれたものだ」

「……俺が、呼んだっていうのか」

「お前の中の神が、な」


 


──神。


 


蒼志丸の背筋が凍る。

神など、自分とは無縁の存在。

だが、彼の目は幼い頃から死者を見、夢の中で異なる声を聞き続けていた。


その声はときに囁き、ときに命じた。

「見ろ」

「裁け」

「その者は、穢れている」


 


……人を斬るなと教えられて育った。

だが、彼の中の目は、そうは言わなかった。


 


「やがて、お前は選ばれるだろう」

仁阿弥は静かに言った。

「神を斬る者として、あるいは、神そのものとして」


蒼志丸はその言葉に返せず、ただ下唇を噛んだ。


 



 


その夜。

再び、白蓮は現れた。


だが今回は、蒼志丸の夢の中。

彼の前に広がるのは、白砂の海。波の音もない、静寂だけの空間。


「ようやく、会話ができるわね」

白蓮は銀の髪を風に揺らし、砂に指を滑らせた。


「お前の中の目が、少しだけ開いた。だから、ここで話せる」

「ここは……どこだ」

「記憶の深海。人と神の間にある場所。お前が見ている夢でもあり、私が招いた幻でもある」


 


「……お前は、敵なのか?」

蒼志丸が問うと、白蓮はふっと笑った。


「敵、味方。人間はそうやってすぐに枠を作る。だけど、私は選ばせる者」


「なにを……選ぶ?」


「この世界に残す神を、誰にするか」


 


そのとき、空が割れた。

白砂の海に、漆黒の槍が突き刺さり、黒煙が立ち上る。

そこから現れたのは、鎧に身を包んだ男。顔は鬼の面。背には三本の太刀。


「影喰いの王」


白蓮がそう名を呼ぶより早く、男は動いた。

夢の中とは思えぬ速度で、蒼志丸の喉元に迫る──


「斬るな。斬れば、お前の中の神が目覚める」


白蓮の声が響いたが、すでに蒼志丸の身体は動いていた。

小太刀を抜き、逆手に構え、刃を返す。


一閃──黒煙を切り裂き、鬼の腕が吹き飛ぶ。

だがその瞬間、蒼志丸の右目が、灼けるように疼いた。


「見えた……!」

彼の視界に、鮮やかな光の帯が現れる。

それは過去の死者たちの記憶──そして、父の最期の情景だった。


 


──血に染まる京の裏道。

──討たれる父。

──その前に立つ、黒衣の法師


 


「貴様……父を……!」


怒りに任せて駆け出す蒼志丸。

だが、白蓮が立ちふさがる。


「今はまだ無理。お前の神は、まだ眠っている」


「退けっ!!」


叫んだ瞬間、夢が崩れ、蒼志丸は現世に引き戻された。


 



 


目覚めた彼の胸には、焼けたような紋が浮かんでいた。

右目の神印──その目が、目覚めつつある証だった。


そして、京ではすでに、黒衣の影が動き始めていた。


──蒼志丸を神とするために。

──白蓮を器とするために。

──鎌倉の地を、神の国に書き換えるために。


少年と少女、神と人、鬼と影の物語は、静かに燃え始めていた。

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