第2話 神の声、鬼の影
夜が明けきらぬうちに、寺の鐘が二度鳴った。
それは、近隣に異変があったことを告げる合図。
「また喰われたか……」
仁阿弥は眉をひそめ、寺の下に広がる村を見下ろした。
蒼志丸もすぐに着替え、僧兵の列に加わる。
だが、昨夜の白蓮との遭遇が頭を離れなかった。
目覚めるとは何なのか。彼女は何者なのか。
──いや、それよりも──
あのとき、確かに感じた。
白蓮の背に揺れていた扉のような影。
あれは……異界(いかい)への門。
つまり、彼女はただの妖ではない。人と神と鬼の境界に立つ、何かだ。
*
村では、一夜にして六人が姿を消していた。
家の戸口には、獣の爪痕のような裂け目があり、地には奇妙な灰が残っていた。
まるで存在そのものが拭い取られたように、痕跡だけを残して。
「これ……影喰いじゃねえか?」
僧兵のひとりが言った。
「影喰い」──古より伝わる、魂を持たぬ鬼。
人の影を喰い、その人間の気配だけを奪って消す。
ただし、現世に現れるには鍵が要る。
「……やはり、お前の右目に反応したか」
仁阿弥は言った。
「この現象は、お前を開かせるために仕組まれたものだ」
「……俺が、呼んだっていうのか」
「お前の中の神が、な」
──神。
蒼志丸の背筋が凍る。
神など、自分とは無縁の存在。
だが、彼の目は幼い頃から死者を見、夢の中で異なる声を聞き続けていた。
その声はときに囁き、ときに命じた。
「見ろ」
「裁け」
「その者は、穢れている」
……人を斬るなと教えられて育った。
だが、彼の中の目は、そうは言わなかった。
「やがて、お前は選ばれるだろう」
仁阿弥は静かに言った。
「神を斬る者として、あるいは、神そのものとして」
蒼志丸はその言葉に返せず、ただ下唇を噛んだ。
*
その夜。
再び、白蓮は現れた。
だが今回は、蒼志丸の夢の中。
彼の前に広がるのは、白砂の海。波の音もない、静寂だけの空間。
「ようやく、会話ができるわね」
白蓮は銀の髪を風に揺らし、砂に指を滑らせた。
「お前の中の目が、少しだけ開いた。だから、ここで話せる」
「ここは……どこだ」
「記憶の深海。人と神の間にある場所。お前が見ている夢でもあり、私が招いた幻でもある」
「……お前は、敵なのか?」
蒼志丸が問うと、白蓮はふっと笑った。
「敵、味方。人間はそうやってすぐに枠を作る。だけど、私は選ばせる者」
「なにを……選ぶ?」
「この世界に残す神を、誰にするか」
そのとき、空が割れた。
白砂の海に、漆黒の槍が突き刺さり、黒煙が立ち上る。
そこから現れたのは、鎧に身を包んだ男。顔は鬼の面。背には三本の太刀。
「影喰いの王」
白蓮がそう名を呼ぶより早く、男は動いた。
夢の中とは思えぬ速度で、蒼志丸の喉元に迫る──
「斬るな。斬れば、お前の中の神が目覚める」
白蓮の声が響いたが、すでに蒼志丸の身体は動いていた。
小太刀を抜き、逆手に構え、刃を返す。
一閃──黒煙を切り裂き、鬼の腕が吹き飛ぶ。
だがその瞬間、蒼志丸の右目が、灼けるように疼いた。
「見えた……!」
彼の視界に、鮮やかな光の帯が現れる。
それは過去の死者たちの記憶──そして、父の最期の情景だった。
──血に染まる京の裏道。
──討たれる父。
──その前に立つ、黒衣の法師
「貴様……父を……!」
怒りに任せて駆け出す蒼志丸。
だが、白蓮が立ちふさがる。
「今はまだ無理。お前の神は、まだ眠っている」
「退けっ!!」
叫んだ瞬間、夢が崩れ、蒼志丸は現世に引き戻された。
*
目覚めた彼の胸には、焼けたような紋が浮かんでいた。
右目の神印──その目が、目覚めつつある証だった。
そして、京ではすでに、黒衣の影が動き始めていた。
──蒼志丸を神とするために。
──白蓮を器とするために。
──鎌倉の地を、神の国に書き換えるために。
少年と少女、神と人、鬼と影の物語は、静かに燃え始めていた。
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