月影の鎌倉

もちうさ

第1話 魂の目を持つ少年

──鎌倉、建長五年(1253年)。


灰色の空の下、鶴岡八幡宮の参道を、少年はひとり歩いていた。

まだ朝も浅いというのに、空気は重く、風はぬるい。湿った風が草木を鳴らし、鳥の声さえ途絶えている。


少年の名は蒼志丸(そうしまる)。

年は十六、身なりは粗末な僧衣。腰には竹筒を括りつけ、背には父の形見の小太刀を帯びていた。


だが、彼にはひとつ、他人にはない目がある。

──死者の魂が見える右目。


「……またか」


彼は足を止めた。参道の左手、杉の根元にそれはいた。

斬られた侍の魂──顔の半分が焼け焦げ、胸に槍が貫通したままの影が、ぼんやりと佇んでいる。

誰もその男を見ない。気づきもしない。通行人の足元を、魂はすり抜けていく。


「お前も、討たれた口か」

蒼志丸は低くつぶやいた。


魂は何も言わず、ただ彼の目をじっと見つめる。

口元が、わずかに動いたように見えた。


「……黒衣の法師……だと?」


魂がそう言った瞬間、空気がピリリと裂けた。

次の瞬間、風の中に、異様な気配が混じった。


「退け、少年。見てはならぬ」


声の主は、蒼志丸の師である、仁阿弥(にんあみ)法師だった。

背丈は高く、背中に経巻を結び、手には数珠と錫杖を持つ。


「その魂は、結界外から現れたもの。未練に引かれて出てきたが……すぐに祓わねば、禍をなす」


仁阿弥は印を結び、口に真言を唱え始めた。

すると、魂の姿が徐々に薄れ、霧のように崩れていく。


「黒衣の法師……」蒼志丸は小さくつぶやいた。

「師匠、それは……?」


仁阿弥の顔が曇った。

「その名を知るのは、まだ早い」

「でも、さっきの魂が……」

「忘れろ」


淡々とした言葉に、蒼志丸は口をつぐんだ。

だが、その心はすでに、ざわついていた。


「黒衣の法師」──

それは、父が討たれた夜、最後に遺した言葉でもあったのだ。


 



 


夜になった。

寺の裏の井戸端で、蒼志丸はひとり、小太刀の手入れをしていた。


薄く錆びた刃を布で拭いながら、心はあの魂の言葉に縛られていた。

黒衣の法師──父を斬った者。

それが誰なのか、蒼志丸はまだ知らない。だが、確かに何かが繋がってきている。


そのとき、背後の木々がざわめいた。


「また、見つけた──魂の目を持つ者」


低く、女とも男ともつかぬ声が響いた。

蒼志丸が振り返ると、そこに立っていたのは──


白い衣、銀の髪、足のない女。

いや、人ではない。

目が赤く、背に扉のような影がゆらいでいた。


「……お前は……」


「名乗るほどの者ではない。ただ、白蓮(びゃくれん)と呼ばれている」


女の声は風のように冷たく、けれど確かな意思を宿していた。


「お前の右目は鍵だ。その目が開けば、神も鬼も甦る。──だから、私が喰らいに来た」


蒼志丸はすぐさま、小太刀を抜いた。

だが白蓮は動かない。風の中に溶けるように、笑うだけだった。


「安心しろ。今日は見るだけ。お前が目覚める日を、私は待っている」


そして、夜の闇に溶けるように、白蓮は消えていった。


残された蒼志丸は、なおも刀を握ったまま、震えていた。

冷たい風が、竹林を鳴らす──その中で、少年の物語が静かに幕を開けていた。

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