エプロンの秘密
フェリーから下りたら神戸だ。フェリーターミナルからはハーバーハイウェイで、
「これって遠回りしてへんか」
たしかに。素直に六甲大橋から下りた方が早いかも。でも千草がそうしたいから付き合うのが夫の義務だ。
「どんな義務やねん」
我が家では千草がルールなの。摩耶ICで下り、岩屋の陸橋を潜り国道二号に入るといよいよ帰ってきた感が強くなるよ。見慣れたマンションの駐輪場にバイクを停めて、荷物を抱えて御帰還だ。コータロー、洗濯機を回しちゃいたいから洗い物を出してね。
「千草、着替えや」
着替えって言うけど、フェリーで着替えたばかりだぞ。というか、朝っぱらから何を持って来やがる。朝食は済ませて来てるだろ。昼食の準備をするにも早すぎる。
「部屋着でリラックスやんか」
このド変態が。朝っぱらから裸エプロンになれって言うつもりか。その時に千草に幼い頃の記憶が突然のように甦った。昨夜にあんな話をしたせいもあると思うけど、こんなデザインのエプロンだった気がする。
コータローが持ってきたのは、コータローが選んで買って来たのだけど、そっくり同じじゃないけど、こういうタイプのデザインだったはずなんだ。まさか覚えているとか。覚えていたって不思議ないか。
四歳ぐらいでコータローとやった遊びにおママごとはあるんだ。女の子なら誰だってやったことはあるはずだけど、千草もしてたんだ。コータローの家におママごとの道具があるはずないから、千草が家から持って行ってたはず。
というのも、あの頃に遊ぶ相手はコータローだけだったし、おママごとをするのもコータローの家だけだったもの。だからコータローの家に置きっぱなしにしていたはず。あれって、どうなったんだろう。
捨てられてしまった可能性が高いけど、納屋の奥にでもしまい込まれてるかも。機会があったら探してみたいな。でもコータローもよく付き合ってくれたよな。ああいう遊びは、女の子は好きだけど、男の子は嫌うって言うよね。
どんな顔してコータローが付き合ってくれていたかまで覚えてないな。それでも千草は熱中してた。泥団子で料理を作ったり、コータローを夫に見立てて・・・あれは夫と言うより、コータローが父親で、千草が母親と見立てていたはずよね。
まだ夫婦って概念と言うか、女と男って感覚もなかったもの。それでも千草が母親役をしてたから、辛うじてぐらい女と男は違うぐらいは意識してたんだろうな。まあ子どものゴッコ遊びなんだけどね。
あれはコータローのお袋さんかお婆さんだと思うけど、ある日におママごと用のエプロンを買ってくれたんだ。なんかすっごく嬉しくて、千草のお気に入りになっていた。そうだ、そうだ、思い出したぞ。
あれは夏だったはず。ビニールのプールで泳いでたんだ。家で使う子ども用のだけど、コータローが買ってもらってたんだろうな。とはいえ水着なんてなかったから、二人とも素っ裸だ。言っとくけど四歳だからね。
遊んでいるとオヤツに呼ばれて、そのままでプールから出て行ったのだけど、あの時にあれはお婆さんだったと思うけど、千草にだけ、
『女の子なのに・・・』
服を着ろって言われたんだよ。でも面倒じゃない。素っ裸で何が悪いって感じで千草は嫌がったんだ。コータローだって素っ裸のままだもの。ちょっとした押し問答になったのだけど、千草はお気に入りのエプロンならって了解したはずなんだ。
あははは、千草はコータローの前で既に裸エプロンになってたんだ。そうなると結婚してからなったのは三十年振りぐらいになるじゃないの。その時にコータローが千草の裸エプロンに興奮・・・するわけないか。
たぶん、どうして千草だけそんな格好をさせられるか不思議に思ったか、それよりオヤツに熱中してた気がする。まだ四歳だものね。もしかして、結婚してからあれだけ裸エプロンを千草にせがんだのはあの時の事を思い出してとか。
コータローとの関係は中学の同窓会での再会から始まったのだけど、千草も中三の時の続きと言うより四歳の時の続きって感覚がどこかにあるんだよ。それってオママごとの母親役と父親役が妻と夫になり、ゴッコ遊びがリアルになった感覚なんだろうか。
コータローは千草との関係を楽しいって言ったけど、この楽しさってあの頃に二人で無限に遊んでいたい、一緒にいたい感覚が甦ったからだとか。そう考えれば中三の時の続きじゃないよな。
中三の時はとっくに思春期に入ってるから、お互いを見る目は幼馴染より異性の友だち、いや知り合いぐらいの関係だったもの。さらに言えば、お互いに恋愛対象とは見ていなかった。だって、あの頃は見た目九割どころか、ほぼすべてじゃない。
ブサイクとマメタンに恋なんか芽生えるはずないのよね。あの頃に恋愛対象の妥協なんて考えもするものか。自分にどれぐらいの価値があって、どれぐらいならお似合いかなんて考えるのは、ずっとずっと後の話だ。
高校を卒業しても分相応の相手で良いなんて考えはあんまりなかったな。モテない悲哀はこれでもかってぐらい味合わされたけど、だからと言って男であれば誰でも良いまでは考えもしてなかった。
ブサイクの自覚は年齢とともに嫌でも出来上がって行ったけど、ブサイクだからブサ男に妥協はしないってこと。そりゃ、ターゲットの幅はそれなりには広げるけど、狙いはイケメンの白馬の王子様だ。
あの悲惨なロストヴァージン体験をさせられたのも、ついに見つけたって舞い上がってしまった結果だものね。とにかく千草にしても、マメタンなんかに恋心なんて浮かべる余地さえなかったもの。コータローだってそうのはず。
あれから十八年、二人とも人生経験を積んだと思うんだ。とくにコータローかな。あの歳でも男なら独身でなんの問題もないとは言え、イケメンに変身したコータローなら、その気になりさえすれば、いつでも結婚できたはずだ。
コータローは独身主義者じゃなく、人並みの結婚願望もある男だ。大人の結婚に求められる経済力もあり、社会的地位だって手に入れてる。だから恋人も出来ている。あれで、出来なきゃゲイだ。
もちろんコータローはゲイじゃない。その証拠に千草にこれでもかの煮え滾る劣情を炸裂しまくってくれている。でも誰も結婚相手に選んでいない。ここだけどコータローにも結婚相手に求める条件はあったはずなんだ。
年齢の釣り合いだとか、美しさだとか、性格とか、家事能力とか、気立ての良さとか。そんなものは誰だって普通にある。でもね、何人も付き合っていくうちに、どう言えば良いのかな。もっと重要な条件に傾いたと言うより、それこそが結婚相手の絶対条件と思い出した気がする。それが、
『一緒にいて楽しいこと』
これだって当たり前すぎる条件なんだけど、コータローの場合は単に漠然としたものじゃなく、なにかモデルとするような理想像があったと思うんだ。それでいながら、その理想像を掴みかねている部分があったはず。
何人か付き合った彼女がいるのは知ってるけど、コータローにしたらどこか違う、求めてるものは、これじゃない感がどこかに出てしまった気がするのよね。もっともコータローにしても、だったらどうなったら理想になるのかの答えもわからなかったかもだ。
コータローと再会したのは十八年振りに開かれた同窓会なんだけど、千草に声をかけたのは、あくまでも、中三の同級生であり、ついでに幼馴染であるだけだったはず。千草もそんな感じだったもの。
話してるうちにコータローは何かに気づいたとしか思えない。コータローが求めていた楽しさって、千草と過ごしていた時間の楽しさだって、だからコータローは楽しさの条件に合う彼女を見つけられなかったんだよ。
だってだぞ、三十年ぐらい前の、それも四歳の時の美化され切った記憶の中の思い出じゃないか。そんなものを満たしてくれる彼女が見つかる方がおかしいだろ。けどね、そこでコータローはハッと気づいたと思うんだ。
千草と遊んでいた時代の楽しさが理想なら、当の本人の千草ならどうなるんだって。そこで俄然興味が湧いたと言うか、恋愛対象として初めて意識したで良い気がする。そうなると次にすることは決まってる。今でもそうなのかだ。
だからあれだけ同窓会で話し込み、同窓会後も連絡を取り、デートを重ねたんだよ。あの時の千草と今の千草は同一人物だけど、もちろん同じのはずもない。それはコータローも同じだけど、コータローが出した結論だけは事実が証明してる。
コータローは千草をベタ惚れするぐらい気に入り、結ばれ、結婚してる。つまりって程じゃないけど、コータローは千草となら渇望していた、
『一緒にいて楽しい』
これが実現できるはずとしたはずなんだ。これって千草がずっと、ずっと探し求めていた疑問への答えのはず。こりゃ、わからんわ。そもそもコータロー自身が忘れていた記憶の楽しさだもの。
それにあの時代の楽しさは二人の記憶の中にしか存在しないし、幼児の時の楽しさなんて大人になって求めたところであるはずがないじゃないの。それを言えば千草とコータローでも同じ楽しさじゃないもの。
だったらどうして千草ならコータローの望んでいた楽しさ感覚が満たされたかになるけど、たぶん、あの言葉で良いはずなんだ。コータローが口癖のように言う、
『故郷一の美少女』
あの言葉の故郷とはコータローの心の故郷で、具体的には千草と遊び回っていた四歳時代のことになる。これは結果で考えるしかないのだけど、千草といるとあの時の続き感覚がコータローに出たぐらいしか言いようがないんだよね。
さて、このエプロンだ。四歳の頃の記憶は二人の共通のものだけど、さすがに三十年前だ。それだけじゃなく、同じ経験をしても記憶に残るのは人によって違い過ぎる。コータローにとって裸エプロンはよほどインパクトのある記憶になってるはずなんだ。
千草なんか今の今まで忘れてたけど、コータローにとってはそうだとしか言いようがない。それもだぞ、いつの頃から楽しさの記憶と裸エプロンが合体して不可欠のセットみたいになっているで良いはず。
ここだって変態コスプレと幼い日の楽しい記憶がどうして合体してしまったかの疑問はあるけど、こんなものコータローに聞いてもわかんないだろ。とにかくコータローの頭の中ではそうなってしまってるぐらいにしか言えないもの。
ここまでわかれば、千草に裸エプロンを断る理由はなくなるな。これはコータローとの幸せな時間を失いたくないのなら必要にして不可欠なものでしかない。それは理屈で分かったけど、この感覚はなんなんだよ。
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