そうはなるものか
朝食が終わり、船室で荷物をまとめて着岸待ち。さっきの贅沢の話の続きみたいなものだけど、人はやれる事はやれる時にしとけとも良く言うよね。
「それはある」
コータローは寂しそうに話してくれたのだけど、亡くなった親父さんの事だった。親父さんは晩年にガンで苦しんだって聞いてるけど。
「ああそうや。だいぶ我慢しとってんやろな。受診したら即入院やった」
医者でもそうなのか。幸い手術で取ることが出来て化学療法も行い、仕事にも復帰したはず。
「化学療法はキツかったってこぼしとったな。それでも元気にはなってくれたんよ」
親父さんが回復した頃に家族は快気祝いで旅行に行くことを勧めたのか。流れとしておかしくない。治療のために休診はしたけど、それぐらいの財産はあるもの。
「オレもよう聞かされとってんけど、親父はタイに行きたかってん」
タイ? 怪しい姉ちゃんを買うためとか、
「それも絶対にないとは言わん。親父かって男やからな。今となったら、それが目的でも行って欲しかったわ」
女としては複雑だけど、コータローの気持ちもわかるんだよな。もちろん親父さんは女を買うのが目的じゃなくて、タイの歴史に昔から興味があったんそうなんだ。
「親父もあんまり趣味の無い男やったが、歴史は好きでな。なんか山田長政の話からタイに興味を持ったらしいねん」
コータローが歴史キチガイなのは遺伝なんだ。親父さんがタイ旅行になかなか行ってなかったのは仕事もありそう。診療所って自営業みたいなものだから、なかなか長い休みが取りにくそうだもの。そういうタイプの昭和男なのもあったかも。
だけど、どんなに勧められても親父さんは頑なにNOだったのか。これはタイ旅行だけじゃなく、国内旅行さえもNOって、どうしてそこまで。
「あん時はわからんかったし、今でもわかったとは言いきれんとこはある」
おそらくとしてたけど、親父さんはガンであることがわかった時から、目に見える風景がすべて灰色になっていたのじゃないかとしてた。そりゃ、ガンになって嬉しい人なんかいるはずもないけど、回復してるじゃない。
「オレらはそう思うた。そやけどな、再発の恐怖は親父の心を蝕んどってんやろな」
医療では五年間再発がなければ治癒とするそうだけど、逆に言えば五年間は常に再発の恐怖の下で暮らすことになるのか。こういう喩えが合ってるかどうかわかんないけど、爆発するかしないかわからない時限爆弾を体に抱え込んでいるようなものだよね。
「そんな感じのはずや。オレらはそんなガン患者の相手をするのが商売みたいなもんやんか。そういう状態の受け取り方かって個人差はピンキリやねんけど、最後の最後のところはわからんねん」
医者でもって言いたいけど、
「たとえばや、誰かが九割五分ぐらい治る確率やったら、どう感じる?」
う~ん、ほぼ治るは言い過ぎだけど、たぶん治るってぐらいに思うかな。
「それは医者もそんなとこはある。運が悪いのが再発してまうぐらいや。そやけどな、自分の事になったら五%は死ぬと感じるぐらいやないかと想像しとる」
でもたった五%だよ。
「ああたった五%や。二十人に一人や」
うっ、二十人に一人っていわれると怖いし嫌だよ。ましてやこれが自分の事なら、
「親父はそんな感じやったんちゃうかな」
親父さんは残念ながら再発して亡くなってしまったのよね。こんなもの後だしジャンケンだけど、ガンになる前にタイに行っておけば良かったよね。
「まあ、そうなるんやが、親父がタイに行かんかったんは他にも理由があると思うてるねん」
一人旅が平気とか、むしろ好きな人もいるけど、やっぱり仲間は欲しいよ。ましてや海外旅行ならなにかトラブルが起こった時に心強いし、なにより気の合う仲間がいる方が楽しいじゃない。そんなに親父さんには友だちは少なかったの。
「そうでもないと思うけど、さすがにようは知らん。そやけどや・・・」
なるほどね。週末に飲みに行くぐらいの友だちはいても、旅行となるとハードルが上がるのか。親父さんと同年配の友だちになると、家族とか仕事の都合がどうしたって優先される。学生のノリとは違うものね。
「そうなると思うねん。それに海外旅行はカネがかかるし、親父が行きたいのはタイやんか。旅行言うても、行きたいとこも違うし、やりたい旅行も違うてくるやんか」
そうなって来るのはわかるよな。でもさぁ、そういう時にも一緒に行ってくれる人がいるじゃないの。
「オレから見ても、あの二人が一緒に旅行するなんか想像も出来んかった」
あちゃ、コータローの親御さんもそうなってたのか。歳を重ねても一緒に旅行を楽しむ夫婦は少なからずいるのは知ってるよ。けどさぁ、夫婦だからと言って必ずしもそうならないのも知ってる。千草の親もそうだもの。
歳取っても旅行を楽しめる夫婦はどれぐらいなんだろ。夫婦が刻んだ歳月は、それこそ夫婦によって違うのよね。夫婦旅行を楽しむところもあるけど、今さら離婚するのがメンドウぐらいのとこまであるもの。
「親父も誰かが、行こうやって誘ってくれたら行ってた気がするねん」
でもいなかったのか。コータローだって仕事もあったろうし、あの歳で親父さんと二人の旅行は気が進まないよね。
「親不孝な息子や」
そこまでは・・・とは言うものの、だからと言って、やりたい事をすべてすぐにやるものでもないとは思うのよ。この辺はそれが出来る経済力と休みの問題があるとは思う。どこまで行っても有閑階級じゃないものね。なにをするべきかの優先事項を考えるのが小市民の生き方なんじゃないかな。
「バイクかっていつまで乗れるかはわからんもんな」
まだ三十年は余裕で乗れるはずだ。もっとも乗れると言っても、体力で左右される部分は歳とともに大きくなるものね。たとえばさ、今回見たいなお泊り付きのロングツーリングを三十年後に出来るかとなると。
「その時にならんとわからん」
体力と気力の衰えの個人差は大きいものね。だから来年も行こうね。絶対だからね。そんな話をしているうちに下船の準備の放送があった。
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