乙女峠

 胸を揉まれたら即座にお目覚めだ。あそこでグズグズしてたら、朝のお勤めOKサインになってしまってるからね。それにしても男の朝の生理現象って何歳まであるんだろ。だからと言って見せつけるな。


「朝風呂行くで」


 展望露天風呂で昨夜のドロドロを落として朝の爽やかな津和野の風景を見て朝食に。こういうリッチな朝食はまさに旅行ならではだから嬉しいな。藤島監督も一緒になって今日のツーリングに出発。


 向かったのは乙女峠。麓から歩いて行くのだけど、ここなのか。ここもキリスト教徒受難の地になってる。時は幕末になるのだけど元治っていつなんだ。


「元治は慶応の前や」


 それも二年までしかなかったのだけど、幕末も良いところで元治年間には池田屋事件とか、蛤御門の変とか、四か国連合艦隊による下関砲撃事件が起こってる時代だってさ。一方で開国条約も結ばれて長崎に欧米人のために浦上天主堂も建てられてる。


 その教会に隠れキリシタンが訪ねて来るのよね。江戸時代はキリスト教が禁教になってたから信徒発見としてカソリック史にも記録される大発見だったとか、なんとか。これが元治二年の話だそうだけど、まだ江戸時代なのよね。


 慶応三年に信者の大規模な摘発が行われ、三千四百人の信者が捕まり、慶応四年に津和野にも百五十三人が送られ棄教を迫る拷問が繰り返されたそう。その苛酷な拷問のために子どもを含む三十七人が死んだとなってる。でもさぁ、慶応四年って、


「ああそうや、慶応三年末に大政奉還があって、慶応四年初めに鳥羽伏見や」


 政権は幕府から朝廷に移っていた時代になるのだけど、明治新政府も幕府のキリスト教を禁じる政策を受け継いでいたんだって。だけど欧米列強からの激しい抗議を受けて明治六年に禁教が解かれることになりやっと解放されたとか。


 藤島監督はこの乙女峠の悲劇を題材にした映画を撮る構想を練ってるのか。たしかに題材としては悪くないと思うけど、どうなんだろ。取り上げても悪い話じゃないと思うのは思うけど、どうにも話が暗すぎる気がする。


 とりあえず千草は出演したくないな。あんな三尺牢に裸で閉じ込められたり、氷の張った池に放り込まれるんだよ。藤島監督なら本当に氷の張った池に放り込みそうじゃないか。そうしておいて、


『カット。ダメダメ全然ダメ。撮り直し』


 これを何日も何日も続けられのは堪忍してくれよな。それはどうせ出演しないからともかく、


「監督はオチをどう付ける気や。人のやることにオレは文句を付けん。それでも助言を求めるんやったらやめとけや」


 ストーリーとしては残酷な拷問に耐え抜いた末に信仰が勝利するぐらいになるのだろうけど、なんかひたすら救いのない話になる気がする。言ったら悪いけど、この結果として日本がキリスト教国になっていたら見てる人だって素直に共感するだろうけど、


「日本人的な宗教観からしたら、そこまで宗教に命をかけれるやつは嫌われるで」


 うわぁ、そこまで言うのは拙いだろ。だけど千草もそんな気がする。だってさ、棄教するって口先で答えたら逃げられるじゃない。信心なんて内心の問題で、そうだな、宗派が違っても当たり前のように葬式に参列するようなもの。それさえ口にできない宗教って重過ぎるよ。


 だいたいだぞ、なんかマリアが現れて拷問に苦しむ人を励ましたって言うけど、マリアも神様の一人ぐらいのはずだから励ますぐらいなら助けてやれよだ。なにしに現れたんだって思ったぐらい。


「コータローさんもそこが気になりますか」

「悪いことは言わん。キリスト教はクリスマスとハローウィンとバレンタインデーで十分や。宗教に手を出したら仕事が狭なるだけや」


 キリスト禁教ではなくなり乙女峠に監禁されていた人々は救われたのだけど、結果としてキリスト教は広がらなかったとしか言いようがないかな。あくまでも公称信者数だけどカソリック信者って円応教の信者より少ないのよ。


「オレの意見なんか気にせんといてな。やりたい事をやるのもアートの仕事やからな。監督が撮りたいなら勝手や。オレやったらこんな宗教物は手を出さん」


 誇りある小市民のコータローに意見を求めたらそうなるだろうな。


「死んだら仏が日本人の考え方やけど、こいつらどうなってんやろ。それでも手を合わせといて悪いことなないやろ。はな、行こか」


 乙女峠に来たのは監督の仕事のためもあるけど、旅行としては時刻が早すぎるのよね。そう、まだ店が開いてないのよ。だから次は太鼓谷稲成に。ここは三千本の鳥居を潜り抜けて登って行く。


 この赤い鳥居が延々と続くのはいかにもお稲荷さって感じだ。やっとこさ登り詰めると、これは立派と言うか華麗な社殿だよ。境内から津和野の町が見下ろせるのだけど、なんか違うな。


「あれは石州瓦やからやろ」


 関西は黒い瓦だから上から見た印象が違ったのか。だってさ、なんか朱色の街並みなんだもの。さてこの神社の御利益は五穀豊穰、産業発展、商売繁昌、開運厄除、福徳円満、願望成就か。願望成就と福徳円満はそこそこ叶ってるから開運厄除を祈っとこう。


 レミに石見銀山で出会ったのは災難だったもの。二度と関わり合いになりたくないよ。関りさえしなければ、こっちだって害がない。それこそあっちに行け、シッシだ。まだ時間があるから森鴎外の旧宅に。


「五十石取の藩の御殿医の家やったそうやけど」


 残っているのは大したものだけど、津和野藩ぐらいで五十石取なら中の上ぐらいの家格だって。でもさぁ、角館のお屋敷は、


「そやったな。リッチやったもんな」


 そしてついに津和野観光の目玉の殿町だ。石畳になっていて、道の両側には掘割があり、鯉が本当に泳いでるよ。これが見たかったんだ。他にも似たようなところもあるけど、これこそが本家の津和野だ。さ~て、源氏巻でしょ、焼アイスも珍しいな。そしたら、


「退いて、退いて。撮影があるからあんたら邪魔なんだよ」


 なんか撮影してるみたいだけど、あそこにいるのはレミと石川ジョージじゃない。あいつらここでもロケやってやがったのか。それにしてもだよ、いくら撮影のためだと言っても邪魔者扱いは酷いだろうが。


 撮影許可を受けてるだろうし、撮影に協力したって構わないけど、物は言いようって言うじゃない。こっちだってはるばる神戸から来た観光客だぞ、コータローも嫌な顔をしてるけど藤島監督は怒ってるぞ。いきなりスタッフの首根っこをひっつかんで。


「責任者は誰だ」


 ドスの利き過ぎた声だ。


「ひぇぇぇ、池尻監督ですが・・・」

「挨拶させてもらおう」


 首根っこをひっつかんだままノッシノッシと行っちゃったよ。ディレクターズチェアに座ってる人の前でそのスタッフをほっぽり出して、


「オレはお前にロケ撮影のイロハを教えたつもりだったが、もう忘れたようだな。こいつは返しておく」


 それだけ言ってスタスタと。呆気にとられていたたぶん監督以下が大慌てになって追いかけたけど、


「今日は大事な友人の接待をしてる。これ以上は邪魔しないでくれ。わかったな」


 ビビり上がるぐらいの迫力で吐き捨てると。


「先生と奥様。醜いものをお見せして申し訳ありませんでした。挨拶は終わりましたから行きましょう」


 接待だったら源氏巻ぐらい奢ってくれよな。焼アイスだってコータローの奢りだったじゃないか。レミは本当に祟るよ。せっかくの津和野が台無しだ。恨んでやる、呪ってやる。

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