七月十八日(金):最後の客
これは、ある女性が金曜の夜に体験した不気味な出来事である。
彼女の名は美咲。二十七歳。
都内のコールセンターで働き、金曜日の夜は友人と飲みに行くことが多い。
その日も、仕事帰りに駅前の小さな居酒屋で同僚たちと軽く一杯やった帰り道だった。
金曜日の夜は街が賑やかだ。酔った人々の喧噪が路地にまで溢れ出し、蒸し暑い夜風と入り混じり、ざわめきが耳にまとわりつく。
終電間際、美咲は最寄り駅に着き、タクシーで帰るつもりで改札を出た。しかし、駅のすぐ近くにあるカフェの明かりがまだ灯っているのが目に入り、ふと足を止めた。深夜まで営業している店ではない。この時間にまだ開いているのは珍しかった。煌々と灯るその光が、まるで美咲を招き入れているかのようにも見えた。酔い覚ましにアイスコーヒーでも、と思い、美咲はガラス扉へと足を向けた。
━━━━━━━刻━━━━━━━
カフェの扉を開けると、チリン、と澄んだベルの音が鳴った。しかし、店内には客が一人もいなかった。どこからも返事がなく、店員の姿も見えない。ただレジカウンターの横に「ご自由にお座りください」と書かれた札が置かれているだけだ。店内は薄暗く、外の街灯の光が差し込む代わりに、ひどくひんやりとした空気が肌を撫でた。まるで真夏だというのに、冷蔵庫の中にいるかのような冷たさだった。
美咲は窓際の席に座り、メニューを手に取った。すると、店内の奥に下がったカーテンが不自然に揺れ、エプロン姿の店員がぬるりと出てきた。その顔は暗くてよく見えない。店員は美咲に一瞥もくれず、足早に店の外へ出ていき、ガチャリ、と扉が閉まる。
美咲は、広い店内に、たった一人、取り残された。
━━━━━━━刻━━━━━━━
どれくらいの時間、そうして立ち尽くしていたのか。美咲は、冷気に包まれながら、その場に縫い付けられたかのように動けずにいた。やがて、耐えきれなくなり、意を決してカウンターの中を覗き込んだ。
誰もいない。薄暗い厨房は、先ほどの店内よりもさらに冷えきっていて、物音ひとつしなかった。まるで、誰もがここから消え去ってしまったかのような静寂。
美咲がゆっくりと振り返ると、いつの間にか、ガラガラだったはずの店内の席が、すべて埋まっていた。
無数の客が、一斉にこちらを見ている。しかし、その顔は人間のようでいて、人間には見えなかった。長い髪が濡れたまま垂れ下がり、表情が判別できないもの。顔がぼやけて、まるでモザイクがかかっているように見えるもの。中には、ただの影のような、人間の形をした歪んだ闇までがいた。彼らの瞳は、暗闇の中で微かに光り、美咲の心臓を鷲掴みにするような冷たさを放っていた。
美咲が後ずさると、客たちは一斉に立ち上がり、まるで糸で操られたかのように、無言でカウンターに向かい、列を作り始めた。順番に、じっと美咲を見つめながら。彼らの視線が、皮膚の表面を這うような不快感をもたらした。
━━━━━━━刻━━━━━━━
美咲は、喉の奥が張り裂けそうな悲鳴を押し殺し、必死で扉に駆け寄り、ハンドルを引いた。
開かない。
外からは、まだ街のざわめきがかすかに聞こえる。だが、その音は遠く、まるで別世界の音のようだ。ガラス越しに見える外の街灯は、ぐにゃりと歪んで見え、まるで空間そのものが歪んでしまっているかのようだった。美咲は全身の力を込めて、思い切りハンドルを引いた。すると、重い抵抗のあとで、ガチャリ、と鈍い音を立てて扉が開いた。
途端に、生温かい夜の空気が一気に流れ込んできた。
━━━━━━━刻━━━━━━━
気がつくと、美咲は路地裏の舗道に座り込んでいた。息が荒く、シャツには冷たい汗が滲んでいる。
背後のカフェの明かりは、もう消えていた。そこにはただ、闇に溶け込むような、古びた建物があるだけだった。
それ以来、美咲はあの店が開いているのを二度と見ていない。だが、時折、夜道を歩いていると、ふと背後から微かなベルの音が聞こえるような気がして、思わず振り返ってしまう。そして、路地の奥に、薄暗いカフェの明かりが灯っているような幻影を、今でも見ることがあるという。
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