七月十七日(木):忘れ物

 これは、木曜日の夜に体験した、ある男の話である。彼の名は、達也。三十歳。都内の設計事務所で働き、一日の終わりに疲れ果てた体を無理やり引きずって、駅へ向かう途中だった。

 蒸し暑い夜だった。まとわりつくような湿気と、都会の熱気が不快に肌にへばりつく。早くシャワーを浴びて、この不快感を洗い流し、ただ横になりたい——そう思いながら歩いていると、駅前のコインロッカーの前で、ふと、不可解な光景に足を止めた。

 一段だけ、扉がわずかに開いていたのだ。中から、白い紙袋が半分だけ、だらしなく覗いている。

 達也は小さく舌打ちした。

「忘れ物か……」

 奇妙な違和感があった。まるで、そこにあるべきではないものが、意図的に、しかしぞんざいに置かれているような。気味が悪かったが、なぜか目が離せず、吸い寄せられるようにそっと袋を取り出した。


━━━━━━━刻━━━━━━━


 軽く、薄い袋の中には、一枚の古い写真と、小さな便箋が入っていた。写真には、暗い部屋で、背中を向けて立つ、長い髪の女が写っている。女の足元は黒く滲み、輪郭さえ曖昧で、ただ薄気味悪い塊のようだった。その姿からは、人ではない、何か別のものが写り込んでいるかのような、不穏な空気が漂っていた。

 便箋には、たった一言、乱れた筆跡で書かれていた。

 ——「返して」

 胸がひやりと冷えるような感覚がして、達也は慌てて袋をロッカーに戻した。その白い紙袋が、途端に呪物のように思えた。

「関わらないほうがいい」

 そう呟き、足早にその場を去った。だが、ロッカーの前に留まる間、背後から誰かに見られているような、拭いきれない視線を感じていた。


━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 その夜、達也は夢を見た。ねっとりとした汗が全身を覆う、悪夢だ。夢の中で、自分はあのロッカーの前に立っている。あたりは妙に静まり返り、耳鳴りのように自分の心臓の音だけが響く。

 そして、背後から濡れたような衣擦れの音が聞こえ、肩を叩かれる。振り返ると、黒髪の女がそこにいた。顔は髪に隠れ、その奥に何があるのかは分からない。ただ、白い手が、皮膚の薄い指先が、ゆっくりと伸びてくる。女の口元が動き、かすかに、粘りつくような声が聞こえた。

 ——「かえして」

 達也は飛び起き、汗で濡れたシャツを掴みながら、荒い息をついた。心臓が今にも破裂しそうなほど脈打っていた。夢の女の顔は思い出せないのに、その声だけが耳の奥にこびりついて離れない。


━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 翌朝、出勤しようとドアを開けると、ドアノブに小さな紙切れが挟まっていた。まさか、と目を擦っても、それは幻ではなかった。黒いインクで、昨日と同じ文字が書かれていた。

 ——「返して」

 達也は紙をぐしゃりと丸め、無理やりポケットに押し込んだ。それはまるで、触れてはならない異物を無理やり隠したような行為だった。

 その日一日、背後に人の気配がまとわりつくような感覚に苛まれた。時折、ふとした瞬間に、微かにカサリと紙の擦れる音が聞こえるような気がした。気のせいだ、と自分に言い聞かせても、夜になると耐えがたい恐怖が胸を締めつけた。 あの女が、すぐそこにいるような、得体の知れない存在が自分を追い詰めているような感覚に、達也は発狂しそうだった。

 夜、達也は駅前のロッカーに戻った。元の場所に袋を戻したはずだ、と確認したかった。同時に、あの袋がなくなっていれば、すべては気のせいで、悪夢は終わると、一縷の希望を抱いていた。

 しかし、ロッカーの扉は開いていた。中は空っぽだった。達也は呆然と覗き込んだ。希望は絶望へと変わった。

 そして、扉の裏側に気づいた。爪で引っ掻いたような、細い線で、何かが刻まれている。まるで、血を固めたような黒い線が、扉の裏に、無機質な鉄に刻み込まれていた。

 達也は喉の奥が詰まり、ゆっくりと視線を下ろした。

 そこには、こう書かれていた。

 ——「もう、かえしてもらった」

 蒸し暑い夜風が吹き抜ける中、達也は、目を逸らすこともできずに、ただその文字を見つめていた。彼の体からは、生きた人間の体温が、じわじわと失われていくような気がした。そして、その視線の先で、闇の中に融けるような、かすかな白い影を見たような気がした。

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