第3章 初めての“夜”

 初めて小屋を訪れてから、すでに数週間が経っていた。

 その間、直人は何度も山に足を運んだ。

 道を覚え、夜の空気に慣れ、地下室の手記を繰り返し読んだ。


 その内容は、思った以上に精神面に偏っていた。

 「躊躇するな」

 「一撃で仕留めろ」

 「四人以上なら諦めろ。三人なら順序を選べ」

 「恐怖よりも、沈黙を優先せよ」


 書かれている言葉の一つひとつが、まるで血と時間の中から滲み出た“真理”のように感じられた。


 自分には、それが理解できた。

 そして、その“心得”を実行に移す覚悟も、すでに整っていた。


   *


 その夜、直人は静かに車を走らせた。

 都市の街灯が遠ざかり、山道の奥へと入っていくほど、外界の音は薄れていった。

 カーステレオも切り、懐中電灯を鞄に詰め、必要最低限の道具だけを小屋から携えた。


 山は完全に眠っていた。

 虫の声も、風のざわめきも、何もない。

 あるのは、耳鳴りにも似た、沈黙だけ。


   *


 午前零時を少し過ぎた頃──

 遠くから、ライトの明かりと、笑い声が近づいてきた。


 男女、ふたり。

 若い。互いに肩を寄せ合いながら、スマホの光で足元を照らして歩いていた。

 女は不安げにあたりを見回し、男は気取ったように強がっている。


 この森で出せる声は、誰にも届かない。

 それはすでに、何人もの“前例”が証明している。


 直人は、静かに背後から距離を詰めた。

 風向きを読み、足音を溶かし、呼吸を止め──


 男が振り返るよりも早く、闇の中に吸い込んだ。


 悲鳴は、一度きりだった。

 短く、乾いた音とともに、夜が再び沈黙を取り戻した。


   *


 女は逃げようとした。

 けれど足を取られ、地面に倒れ込んだ瞬間には、もうその先の選択肢はなくなっていた。


 彼女の腕を、脚を、確実に封じてから──

 直人は、“道具を使わない方法”を試した。


 その行為に、快感があったのかどうか。

 罪悪感があったのかどうか。

 それすらも、自分でもわからなかった。


 ただひとつ確かなのは、逃げられないようにしたうえで、彼女の“反応”をじっくりと観察したこと。

 その震え。呼吸。湿った肌。

 叫んでも叫んでも、何も起こらないことに気づいたときの絶望──


 それが、直人の中で“何か”を完成させていた。


   *


 すべてが終わったあと、直人は裏手の岩場へと向かった。

 そこにあるのは、底の見えない縦穴──父の記した「供物の場所」。


 袋に詰められた物たちは、すでに人のかたちをしていなかった。

 名前も年齢も、住まいも、好きだった音楽も──

 森の闇は、それをすべて無に帰す。


 手記にはこう書かれていた。


 「ここに落とせば、何も残らない。

 音も、匂いも、痕跡も──すべて、地の底へ還る」


 ひとつずつ、静かに落としていく。

 風が吹いても、音は返ってこない。

 まるで、世界そのものがその行為を肯定しているようだった。


   *


 夜明け前の山道を下りながら、直人はどこか奇妙な静けさに包まれていた。

 心拍数は落ち着いており、手の震えもない。

 むしろ、何かが“終わった”という安堵だけが残っていた。


 山道の出口に出る頃、東の空がかすかに色づいていた。

 その薄明かりは、誰にも知られない夜の出来事を、何もなかったように塗り替えていく。

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