第12話 コトハの涙は塩味だった
朝になっても、コトハの心は晴れなかった。
カフェの厨房に立つ足取りは重く、エプロンを結ぶ手も震えている。昨日の失敗が頭から離れない。
「おはよう、コトハ」
王子が静かに声をかけてきた。その透明な姿は、昨日よりもさらに薄くなっているように見える。
「おはよう……」
コトハは顔を上げられなかった。王子の優しい視線が、かえって辛い。
「今日は、ベイクドチーズケーキを作ろうと思うんだ」
シェルが明るく提案した。黒い毛並みを揺らしながら、レシピ帳をめくっている。
「でも、私……昨日みたいに失敗したら」
「失敗を恐れていたら、何も始まらないよ」
シェルの言葉は正しい。でも、怖かった。また失敗して、王子をがっかりさせるのが。
それでも、コトハは材料を準備し始めた。クリームチーズ、卵、砂糖、生クリーム。一つひとつを慎重にテーブルに並べる。
「ベイクドチーズケーキは、悲しみを包む効果があるんだ」
シェルが説明する。
「悲しい気持ちを否定するんじゃなくて、優しく包み込んで、少しずつ和らげていく。そんな魔法のスイーツだよ」
悲しみを包む。その言葉が、今のコトハの心に響いた。
でも、ボウルを手に取ったとき、昨日の爆発の記憶が蘇る。手が震えて、ボウルを落としそうになった。
「大丈夫、ゆっくりでいいから」
王子が隣に立って、優しく声をかけてくれた。その存在に少し勇気づけられて、コトハは作業を続けた。
クリームチーズを柔らかくして、砂糖を加えて混ぜる。卵を一つずつ割り入れて、なめらかになるまで混ぜ合わせる。
作業に集中していると、少し心が落ち着いてきた。でも、魔法をかける段階になると、また不安が襲ってくる。
「深呼吸して」
王子がそっと背中に手を置いた。透明な手だけど、温かさは伝わってくる。
コトハは目を閉じて、大きく息を吸った。そして、魔法の杖を手に取る。
「悲しみを包み込む、優しいケーキになあれ」
呪文を唱えながら、杖を振る。淡い黄色の光が、ボウルの中身を包み込んだ。
今度は爆発しなかった。でも――
オーブンに入れて焼き上がりを待つ間、コトハの心は重いままだった。
「ちゃんとできるかな……」
不安そうにつぶやくコトハを見て、王子が口を開いた。
「コトハ、ちょっと散歩に行こう」
「え? でも、ケーキが」
「オーブンのことは僕が見ているから」
シェルがウインクした。
王子に手を引かれて、コトハはカフェの外に出た。魔法の森は、朝の光に包まれて美しく輝いている。
「きれいだね」
王子がつぶやいた。透明な体に光が反射して、まるで光の精霊のように見える。
二人は森の小道を歩いた。足元には小さな花が咲いていて、蝶が舞っている。
「コトハ、無理に笑わなくていいよ」
突然、王子が言った。
「え?」
「いつも『大丈夫』って言って、笑顔を作ってる。でも、本当は辛いんでしょう?」
図星だった。コトハは立ち止まって、下を向いた。
「だって……みんなに心配かけたくなくて」
「心配するのは、大切に思ってるからだよ」
王子の言葉が、心に染みた。
「泣きたいときは、泣いてもいいんだ」
その瞬間、コトハの中で何かが崩れた。
「私……私、怖いの」
堰を切ったように、言葉があふれ出した。
「王子を助けられなかったらって思うと、怖くて。時間はどんどん過ぎていくのに、私は失敗ばかりで」
涙が頬を伝って落ちた。止めようとしても、止まらない。
「みんなの期待に応えられない自分が嫌で、情けなくて」
王子は黙って、コトハを見つめていた。責めるような目じゃない。ただ、優しく受け止めてくれる眼差しだった。
「本当は、私も帰りたいの。でも、帰ったらまた一人になる。友達もいないし、学校にも行きたくない」
本音が次々とあふれ出る。今まで誰にも言えなかったことが、王子の前では素直に言えた。
「コトハの涙、しょっぱいね」
王子が小さく笑った。透明な指で、コトハの涙をそっと拭う。
「塩味の涙は、心の奥の気持ちが詰まってる証拠なんだって、母さんが言ってた」
「王子のお母さんが?」
「うん。泣くことは弱いことじゃない。素直になれることなんだって」
王子の言葉に、また涙があふれた。でも、今度は少し違う涙だった。
「ありがとう、王子」
「こちらこそ。コトハの本当の気持ちが聞けて、嬉しいよ」
二人で森のベンチに座った。コトハは涙を流しながら、心の中のもやもやを全部吐き出した。王子は最後まで、静かに聞いてくれた。
カフェに戻ると、ちょうどケーキが焼き上がっていた。
「いい匂いがするね」
シェルが嬉しそうに言った。
オーブンから取り出したケーキは、きれいな黄金色に焼けていた。失敗していない。ちゃんとできている。
「やった……」
コトハは思わず声を上げた。涙の跡が残る顔で、でも今度は嬉しさの表情だった。
冷ましてから切り分けて、みんなで食べた。一口食べると、優しい甘さが口の中に広がる。悲しみを否定するんじゃなくて、そっと包み込んでくれるような味だった。
「美味しい」
王子が微笑んだ。その笑顔を見て、コトハも自然と笑顔になった。
「"泣いてもいい"って、最高の魔法だよ」――そんな読者の声が聞こえてきそうな瞬間だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます