第6話 感情暴走と、氷の嵐



「今日のスイーツは、チョコマカロンです」


コトハが皿を差し出すと、ユアン王子は無表情のまま手を伸ばした。でも、その指先がかすかに震えていることに、コトハは気づいていた。


「なんだか、今日は落ち着かないんだ」


王子がぽつりとつぶやく。透けた身体が、いつもより不安定に揺らめいていた。


黒猫のシェルが尻尾をぴんと立てる。


「ユアン様、何か思い出したことでも?」


「わからない。ただ……」


王子の青い瞳に、一瞬、赤い光がよぎった。


「なんだか、胸の奥が熱い」


コトハは息をのんだ。王子の周りに、今まで見たことのない色が渦巻いている。赤と黒が混じり合った、激しい感情の色だ。


「王子、それ……怒りの感情かも」


その瞬間だった。


パキッ


小さな音とともに、テーブルの上のティーカップにひびが入る。


「え?」


パキパキパキッ


音は次第に大きくなり、カフェの窓ガラスが震え始めた。コトハが振り返ると、壁に飾られた絵画の表面に、薄い氷の膜が張っていく。


「これは……まずいですね」


シェルが低い声でうなる。


「感情の暴走です。すぐに抑えないと——」


ガシャン!


窓ガラスが一斉に凍りつき、細かなひび割れが走った。室内の温度が急激に下がり、コトハの吐く息が白くなる。


「さ、寒い……!」


王子の身体から、青白い光が噴き出していた。それは怒りの炎のはずなのに、なぜか周囲のすべてを凍らせていく。


「なんで……なんで僕はこんなに腹が立つんだ!」


王子が頭を抱える。その瞬間、カフェ全体が激しく震動した。


バリバリバリッ


天井から氷の柱が突き出し、床には霜の結晶が広がっていく。まるで真冬の嵐がカフェの中で暴れているようだった。


「王子! 落ち着いて!」


コトハが叫ぶが、王子には届かない。彼の周りで氷の竜巻が渦を巻き、触れるものすべてを凍らせていく。


「誰だ……誰が僕の大切なものを奪ったんだ!」


王子の叫びとともに、氷の嵐はさらに激しさを増した。コトハは必死でテーブルの下に隠れるが、凍える寒さに歯がガチガチと鳴る。


このままじゃ、カフェが壊れちゃう——いや、それより王子が……!


「シェルさん! どうすれば!」


「チョコマカロンです! 早く!」


黒猫の声で、コトハは我に返った。そうだ、今日作ったスイーツ。怒りを鎮める効果があるはずの……。


でも、皿はすでに氷に覆われている。マカロンも凍りついて、とても食べられる状態じゃない。


「新しく作るしか……」


「時間がありません! このままでは王子の存在そのものが——」


シェルの言葉が途切れた。見ると、王子の透明度がさらに増している。怒りの感情に身体が耐えられないのか、消えかけていた。


だめだ。このままじゃ王子が消えちゃう。


でも、どうすれば——


その時、コトハの脳裏に、ある光景が浮かんだ。


初めて会った時の、王子の寂しそうな横顔。


「笑い方を、忘れたんだ」と言った時の、かすかな震え。


そして、ショートケーキを食べて、ほんの一瞬だけ見せた柔らかな表情。


——王子は、怒ってるんじゃない。


コトハは直感した。


——悲しいんだ。何かを失って、その悲しみが怒りに変わってるんだ。


「王子!」


コトハは勇気を振り絞って、氷の嵐の中へ飛び出した。


「やめなさい! 危険です!」


シェルの制止も聞かず、コトハは王子に向かって走る。氷の破片が頬をかすめ、小さな傷ができた。でも、止まらない。


「王子、聞いて! あなたは怒ってるんじゃない!」


轟音の中、コトハは叫ぶ。


「悲しいんでしょ? 大切な何かを失って!」


王子の動きが、一瞬止まった。


「でも、怒りじゃ何も取り戻せない! お願い、思い出して!」


コトハは凍りついたマカロンを手に取った。カチカチに固まっているけれど、まだほのかにチョコレートの香りがする。


「このマカロン、王子のために作ったの。あなたの心を、少しでも軽くできたらって」


氷の嵐が、わずかに弱まった。


「最初は失敗ばかりだった。でも、王子に笑ってほしくて、何度も何度も練習したんだ」


コトハは震える手で、マカロンを王子に差し出す。


「だから、食べて。私の気持ちも一緒に」


王子の瞳から、一粒の涙がこぼれた。


それは瞬時に凍って、ダイヤモンドのような氷の粒になって床に落ちた。


「……ごめん」


王子の小さな声とともに、氷の嵐がゆっくりと収まっていく。カフェを包んでいた冷気が和らぎ、氷の結晶が光の粒子となって消えていった。


王子は震える手で、凍ったマカロンを受け取った。


「僕……お母さんのことを思い出したんだ」


マカロンを口に運ぶ。凍っているはずなのに、口の中でふわりと溶けた。チョコレートの優しい甘さが、怒りで熱くなった心を静かに包み込んでいく。


「お母さんも、よくチョコレートのお菓子を作ってくれた。でも、ある日突然……」


王子の声が途切れる。でも、コトハにはわかった。大切な人を失った悲しみ。それを受け入れられない心が、怒りという形で暴走したんだ。


「大丈夫」


コトハは優しく言った。


「悲しい時は、悲しんでいいんだよ」


王子の身体から、赤と黒の光が消えていく。代わりに、薄い青色の光——悲しみの色が、静かに揺らめいた。


「感情って、怖いね」


王子がつぶやく。


「こんなに激しくて、制御できなくて」


「でも」とコトハは微笑んだ。「感情があるから、人は誰かを大切に思えるんだよ」


シェルがゆっくりと二人に近づいてきた。


「よくやりました、コトハさん。危険でしたが……あなたの勇気が王子を救いました」


黒猫の瞳に、初めて優しい光が宿っているのを、コトハは見逃さなかった。


夜のカフェに、静けさが戻ってきた。割れた窓ガラスも、凍りついた家具も、いつの間にか元通りになっている。まるで嵐なんて最初からなかったみたいに。


でも、王子の頬を伝った涙の跡だけは、確かにそこに残っていた。


「ありがとう、コトハ」


王子が小さく微笑む。それは今までで一番、人間らしい表情だった。


「カフェが凍ったって、どういうこと!?」


きっと、読者の皆も驚いたことでしょう。でも、これが感情の力。抑え込んでいた想いが爆発する時、それは時として、世界さえも変えてしまうのです。


カウントダウンは続いている。


でも今日、王子の心に小さな変化が生まれました。


それは、希望という名の小さな灯火でした。

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