第1話 揺心
終業式の日、空がやけに青かったのを覚えてる。
自転車で坂を下りながら、ブレーキを強く握ったら、キィって音が耳の奥に残った。制服の袖は汗で重たくて、けど「これでもう学校に来なくていいんだ」と思うと、少しだけほっとした気がした。
――――――
大和が担任の吉岡先生と話してたのは、昼休みの終わりだった。教室のいちばん後ろ。日直が黒板に書いた「七月二十日」の文字が、まだ真新しかった。大和はうつむきがちで、先生の話に何度も小さくうなずいてた。何を話してるのかまでは、わからなかったけど。
「田口って、転校すんのかな」
そう言ったのは山本だった。声がちょっと大きくて、周りの数人が顔を向けた。大和には聞こえてなかったと思うけど、僕はなぜか息がつまった。
「やめとけよ、そういうの」
遠藤の声が静かに割って入った。
大和はやがて席に戻ってきた。僕の隣の席。鞄を開けて、教科書を出して、消しゴムを落とした。何もなかったみたいな顔で。
僕は黙ってそれを拾って、手渡した。
「お、さんきゅ」
その一言に、夏の陽射しみたいな匂いがした。別にいつもと同じ。だけど、僕の胸の奥には、なにかがじわりと沈んでいった。
まさか、って思う。でも、もし──。
窓の外を見た。ぼんやりと滲んだ青空の下に、夏休みが始まろうとしていた。
その夜、僕はいつもより遅くまでスマホをいじっていた。
LINEのタイムラインには、クラスメイトたちの夏の予定が溢れていた。花火大会に行くだの、海に行くだの、初めてのバイトがどうだっただの──正直、どれも似たようなことばかりなのに、眺めていると、なんとなく胸のあたりがそわそわして落ち着かなくなる。
僕はそういう場所には呼ばれないし、自分から混ざろうとも思わない。でも、みんながそれぞれに誰かと時間を分け合っていることだけは、伝わってきた。
ふと、大和の名前を検索窓に打ち込んでみる。
……何をするつもりだったのか、自分でもよくわからなかった。ただ、文字にした名前を画面越しに見ていたかっただけかもしれない。
そのとき、リビングのほうから文(あや)の声が聞こえた。
「ねえ、おにいってさ、大和くんとよく話すの?」
僕の部屋の扉が少しだけ開いて、風呂上がりの文が顔をのぞかせる。濡れた前髪が額に貼りついていて、肩にかけたタオルが落ちかけていた。
「うん、まあ。隣の席だし」
「この前見かけたけど、ちょっとかっこよくなってたよ。前はただのデカい人って感じだったのに、なんか……雰囲気変わったかも」
「……そうかな」
僕はなるべく淡々と返して、スマホを伏せた。文が悪いわけじゃない。ただ、彼女の口から語られる大和像が、自分の中の大和と違っていることに、どうしようもなく戸惑った。
大和のことを、かっこいいって思ってるのは、僕だけじゃないんだ。
それが、少しだけ苦しかった。
ベッドに寝転がって天井を見つめる。見慣れた天井の白は、今夜はなんだか、やけに遠く感じた。
思い出すのは、昼間の「さんきゅ」という声。そのとき大和が僕の方を見た顔。笑っていた。でも、それが優しさなのか、ただのいつも通りなのか、僕には判断がつかない。
あんなふうに、簡単に笑えるんだ、大和は。
もし僕が、その笑顔の意味を勘違いしていたとしたら。
あるいは、もし、もうすぐその笑顔を見られなくなるとしたら。
──そんなこと、あるわけないよな。
でも、放課後の教室で、担任の先生と話していた大和の顔は、いつもと違って見えた。あれはなんだったんだろう。僕の考えすぎ?
胸の奥に、もやもやとした不安だけが残る。
何かを確かめたい気がして、でも、何をどう確かめればいいのか分からなくて。僕は目を閉じた。
次の日、登校してすぐ、大和の姿を探している自分に気づいて、少しだけ情けなくなる。
教室の窓際、いつも彼が座っているあの席。今日もそこに、大和はいた。肩を揺らして笑いながら、前の席の男子と話している。僕が近づいても気づいていないふりをしているのか、本当に気づいていないのか、それもわからなかった。
チャイムが鳴って、先生が入ってきて、いつもの授業が始まった。
でも、頭のどこかでずっと考えていた。昨日の、あの教室の光景。
──担任と、何を話してたんだろう。
放課後、大和に直接聞いてみようかと思っていた。けれど、タイミングはつかめなかった。
気がつけば大和は、もう誰かと下駄箱に向かっていて、僕が追いつく頃には、「じゃあな!」という声と一緒に、もう背中しか見えなかった。
その夜、夕飯のあとに何気なくテレビを眺めていたら、母が言った。
「文の学校、夏休み入ったんだって? 尚のほうはいつから?」
「来週。終業式の次の日から」
「そっか。あっという間だねぇ。そういえば田口くん、引っ越すらしいじゃない」
スプーンを持つ手が止まった。
「……え?」
「お母さんたちの間で噂になってるのよ。あそこのおうち、最近夜も車がよく出入りしてるって」
それが、どれくらい正確な話なのかもわからなかった。
でも、なんだか、背中がひやっとした。
ほんとうに? 本当に引っ越すの? もしそうだとしたら──
何も言わないまま、大和は、いなくなるの?
それだけは、いやだった。
その夜、僕はなかなか寝つけなかった。枕元のスマホを何度も開いて、大和の名前がついたトークルームを見ては閉じて、それを何度も繰り返した。
なにかを言いたい。言わなきゃいけない。でも、言える言葉がわからない。
画面の中のキーボードが、にじんで見えた。
部屋の電気を消して、ベッドに横になっても、眠気はやってこなかった。
窓の外では虫の声が細く響いていた。風が止んでいるせいで、カーテンはぴくりとも揺れず、空気だけがまとわりついて重たかった。
スマホの画面が、何度目かの指の動きでふわっと光る。
「ねえ、引っ越すってほんと?」
そんな言葉を打ち込んでは消して、また打ち込んでは消して。
既読がつかなかったときのことを想像してしまう。あるいは、軽いノリで「うん、そうだよ」と返ってきたときの自分の顔。どっちも想像するだけで、胸が苦しくなった。
なんで僕ばっかり、こんな気持ちになるんだろう。
たしかに、最近の大和はちょっと距離がある気がしていた。理由は分からないけど、あの頃の笑い声やからかうような視線が、少しずつ減ってきていた。
でも、それが引っ越しのせいなのか、僕が何かしたからなのか、その両方なのか──
何も分からないまま、時間だけが進んでいく。
隣の部屋からは、文の寝息がかすかに聞こえていた。母の部屋は静かだ。家の中は何も変わらないのに、僕の中だけが、焦って、乱れて、騒がしい。
もう一度だけ、画面に触れた。
言葉じゃだめなら、せめて、何か形にできないだろうか。
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