第2話


 陸遜りくそんは早朝、剣の修行をする習慣を取り戻しつつあった。


 以前は体調不良や気が塞ぐことも多かったのだが、決めた時間に起き、城の者の目に触れない城の居住区の通路に作られた見晴台を稽古場にして、早朝、陽が上る前に剣を振ることにしたのだ。

 司馬家の剣術を新しく覚えたので、剣を振ることも新鮮に思えた。

 

 しばらく経つと前のように眩暈や頭痛を感じることが大きく減ったことに気付いた。

 きちんと早朝に剣を振ると、体調がいいのだ。

 剣の練習が安定すれば弓も射ちたくなった。


 それとなく司馬孚しばふに弓の練習を出来るような場所があるか聞いてみると、彼は快くそれなら取り付けましょう、と弓の的と弓一式を揃えてくれた。


「私は剣は駄目ですが、弓は勉強の合間や始まりに集中出来るようになるので、よく射ちます」


 確かに剣の腕前は司馬孚はさほどではなかったが、弓は上手だった。

 陸遜は剣に比べれば弓の腕はまだまだだという自覚があったので、朝には剣の修練、昼下がりに弓の練習をするようになった。

 

 最近は夜中にも剣を振るうこともある。

 無心に剣を振っていると、そのあとよく眠れるのだ。


 司馬懿しばいは相変わらず陸遜のすることにさして干渉して来ない。

 彼自身も長安と許都を忙しく行き来しているのでそれどこではないのかもしれない。

 ただ司馬孚から何をしているかは報告を受けているようで、しばらく陸遜は曹魏の兵が使う弓を撃っていたが、ある時立派な弓に突然変わっていた。



『お前を必ず戦場に連れて行く』



 司馬懿の、紫闇しあんの瞳。

 楽し気な輝きが思い出された。


 今日も早朝に剣の修練をしたのだが昼下がり、もう少し振りたかったので再び剣を持って外に出た。

 あの男は本当に自分を戦場に連れて行くつもりなのだろうか?

 ふと眼下に広がる石造りの都を眺めながら、見晴台の端に腰を下ろした。


 まずはしょくを叩くと言っていたが……曹魏から何か仕掛けるつもりなのだろうか?

 それとも曹魏が【赤壁せきへきの戦い】で大敗したので、その後、蜀が西から戦線を押し上げているのかもしれない。

当然だが今、陸遜は大陸の情勢が何も分からない状態になっている。


 江陵こうりょうでの戦いが頭に過る。


(蜀と魏の戦線が動くなら、恐らく北だ)


 蜀には涼州りょうしゅうの名高い騎馬隊が合流した。馬超ばちょうの軍である。

 恐らく次に動かすのなら、馬超の軍を投入して来るだろう。



 蜀……。



 陸遜は柱に頭を預け凭れかかり、両脚を段差に上げた。

 側の二振りの剣を取り上げる。


 表面に彫られた雌雄一対の孔雀の姿。

 華やかな尾羽を持つ雄と、持たざる雌。


 諸葛亮しょかつりょう龐統ほうとうの顔が浮かんだ。


「【臥龍がりゅう】と、【鳳雛ほうすう】……」


 諸葛亮に会った時のことを思い出した。

 今、思い出しても、綺麗な記憶としてそれは残っている。


 思慮深い光の灯った瞳。

 落ち着きがあり、それでいて人に威圧を与えるようなものはなく、

 若き陸家の当主と他人に紹介されると、まず少し警戒されることが多い自分に対しても、最初から友好的に相対してくれていた。

 もっとこの人と話してみたいと思わせるような、そんな魅力がある人だった。


 龐統との出会いを思い出す。


 骸の重なる長坂ちょうはんの光景、黒い鳥。

 現われた時龐統はみすぼらしい格好で汚れていて、孫呉そんごにも陸遜にも、何の興味も持っていなかった。

 


 ――――でも思い出す。



 あの森で会った時の、闇星やみほしの衣を纏った龐統の姿だ。


 ……あの姿は、美しかったなと思う。


 夜の衣を纏い、髪も結い、陸遜に会いに来た。

 あれが龐統の本当の姿なのだろうと思う。



 手の中にある、天と地、光と闇。

 歪んだわだちを形作る星宿せいしゅく図。



 龐統は自分を諸葛亮の影と思っていたようだが、陸遜にとって初めて会った時の諸葛亮の印象と、あの森で再会した時の龐統の印象はそんな真逆のものではなかった。

 同じように美しいものだったのだ。


 見下ろしていた剣を膝の上に置いて、陸遜は柱に凭れかかったまま目を閉じた。

 ここは風が下から吹き上げて来る。

 涙はもう、込み上げなくなった。


 前は龐統のことも諸葛亮のことも思い出すことが出来ないほどだったが、今は胸に痛みを感じても、いたたまれなくなるようなことは無い。


(それでも私が彼を死なせた事実は変わらない)


 龐統だけではない。

 諸葛亮のことも殺そうとしたのだ。

 あれほど会った瞬間から慕っていたというのにだ。



(消えないんだ)


 

 だから自分は今、ここにいるのだろうと思う。

 もう戻ることは出来ないから。



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