花天月地【第17話 花衣】

七海ポルカ

第1話




「美しい花ね。ありがとう曹娟そうけん



 いつの間にか笛の音が途切れていた。

 隣の部屋で甄宓しんふつが笛を吹いていたので、邪魔をしないように花を生け替えていたのだ。


 外は茹だるような暑さだが、この許都の高くそびえる石の城の最上部に少し低く作られた王の居住区にはいつも涼しい風が流れ込む。


 涼しい天上の園で甄宓の笛の音を聞きながら、穏やかな昼下がりにゆったりと花を生け替えられる、この時間を曹娟は幸せに感じていた。



「奥方様」



 甄宓しんふつほどの笛の名手はいない。

 その音色を聞くと一瞬で惹き付けられるのに、途切れてもしばらくの間、余韻のように音が心に残っている。


 曹娟そうけんは手にしていた花を机に置き、深く頭を伏せた。


 彼女は曹家に生まれ十代で嫁いでいたが、火傷の傷のある顔と暗い性格を嫁ぎ先で嫌われて、甄宓が曹丕そうひの許に来ると、側付きの女官として呼び戻されたのだ。

 夫は曹娟がいた頃から他の女を妾にしていたので、甄宓が曹娟を信頼するようになると、曹丕が命じて離縁をさせた。

 

 曹娟は曹丕の従妹いとこになる。


 次の皇后となるだろうと言われている甄宓の最も信頼する女官長でありながら、曹娟は一切奢ることはなく、自らの欠点もよく理解していた。


 元夫に愛を抱いたことは一度もなかったし、愛されたという実感も一度としてなかったが、自分がもっと美しく器量も良かったら、あの男も曹家から来た嫁を大事にしただろうということは分かるからだ。


 自分の暗い性格は幼い頃に子供の悪戯でつけられた顔の火傷に起因するもので、結婚を機にもっと妻として明るくならなければならなかっただろうに、そう出来なかった。

 それに昔からどこか他人に対して壁を作る癖があり、礼儀を尽くしていれば失礼にはならないだろうという考えがそうさせるのか、こうして多大な信頼を与えてくれる甄宓にも、いつまで経っても自分は堅苦しい、と彼女は自覚があった。


 だが曹娟そうけんは甄宓を心の底から崇拝していたので、軽く砕けることなど出来なかったし、したくもなかった。

 甄宓しんふつが他の、今まで出会った人間達のように、家族でさえ「お前は可愛げのない娘」「ちっとも人に懐かない」と苦々しく言った性格を嫌だと言ったら、その時は頑張って自分を変えようと思っていたけれど、甄宓は着任当初に決められたしきたりや態度を未だに厳格に守り続ける曹娟を、少しも咎めるようなこともなく、むしろ、言葉に出されたことはないけれど、そういう曹娟を優しい眼差しで見てくれているのを感じるのだ。

 

 甄宓は何も変えようとしない曹娟を好ましく思ってくれてるようだった。


 甄宓は聡明で美しく、この世の女が持ちたいと望む全てを持っているような女性なのに、性格は大らかな所があり、人に嫌われることの多い曹娟を理解し大切にしてくれた。


 曹丕はいずれ良い豪族の許に縁づかせると言ってくれたが、曹娟はその時は伏して辞退しようと思っている。

 夫だろうと子供だろうと、甄宓より大切に想える相手に出会えるはずがなかった。

 彼女は一生独り身で構わないから生涯甄宓に仕え、彼女の生んだ子供に仕え、忠誠心を捧げることにしかもはや興味はなかったのだ。


 今日も自分が入って来るとわざわざ腰を折り、膝をついて挨拶をした曹娟を、子供を眺めるような優しい眼差しで笑いながら甄宓は側の横椅子に優雅に腰掛けた。


「美しい百合。

 あなたは本当に、あの群れの中から特別な子を見つけて来るのが上手いわね。

 私の眼にはどれも同じに見えるのに、曹娟が連れて来る花は何か違うように思えるわ。

 不思議ね」


 曹娟そうけんは僅かに頬が紅潮した。


 ここは甄宓に捧げるべき花が一年を通して庭に群れとなって咲くが、彼女は甄宓の部屋に飾る花を選ぶのに、一切の妥協をしない。

 必ず全ての花に目を通し、一番美しいものをいつも選ぶようにしている。

 それくらいのことしか自分には出来ないと思うからだ。


 甄宓しんふつが早朝、そうして花の群れの間を真剣な顔で選んでいる曹娟にとっくに気づいていて、その姿を可愛く思っていることに曹娟自身は全く気付いていなかった。


「ありがとうございます……」


 すっかり恐縮した曹娟に微笑みながら、甄宓は椅子の背もたれに腕を掛け、外の方を見る。


「ここは本当に涼しくて、素晴らしいわね」


 今まで甄宓は洛陽宮に住んでいた。


赤壁せきへきの戦い】と呼ばれるあの呉との戦の後、この許都きょとに住んでいた曹操そうそう長安ちょうあんに移ったので曹丕が代わりに許都に着任し、ここで政を行うようになった。

 それに伴い彼女も移って来たのである。


 曹娟は洛陽宮らくようきゅうも美しくて素晴らしいと思っていたが、甄宓は許都も気に入ったようだ。

 新しいこの都が、曹丕が統治するに相応しいと思ったのかもしれない。

 甄宓が許都の城を気に入ったので、曹娟はここの庭を丁寧に手入れした。

 洛陽宮での優雅な暮らしと、全く遜色ないものを甄宓に過ごしてほしかったからだ。


 それが叶って、彼女もとても嬉しかった。


「はい」


子桓しかんさまは暑いのはお嫌いのようで……ここのところ長安でお過ごしになっているけれど、体調は崩されてなどいないかしら……」


 物憂げに呟き、甄宓は窓の外に視線をやっている。


 崩されていないかしらと言ったが、甄宓は自分で諜報用の子飼いの楽師隊を育てているので、各方面に情報をもたらす網は張っている。

 勿論曹丕そうひの目障りにならなかったり、決して彼の立場を悪くするようなことがないよう、細心の心を砕いた上でだ。

 だから彼が長安で今多忙を極めていることは知っており、それを恙なくこなしていることも理解しているのだ。

 その上の、女心を滲ませる呟きだ。


 甄宓しんふつはこんなに素晴らしい女性なのに、夫に対して愛情深い。

 幸せな結婚を経験したことが無い曹娟はその献身さにも心の底から敬服していた。


 曹娟自身は従兄にあたる曹丕を、幼い頃から優秀で寡黙な少年、程度にしか思っていなかったが、甄宓には曹娟以上に、何か曹丕の持つ特別なものが見えているのだろう。

 曹娟には分からなかったが、だが赤壁の戦いを見届けて、初めて曹丕という男が何と戦っているのか、朧気ながら少し分かった気がした。


 それに気づいた時曹娟も、例え甄宓に想われても側に寄り添う以外に、大いなる使命を果たさないといけない男なのだと――そういう運命を背負った人なのだと曹丕に対する見方を変えた。

 それ以来、曹娟は甄宓に向ける敬意と同じものを曹丕にも向けるようになった。


 長安には父親の曹操がいる。

 この許都を建て直した張本人で、曹魏を興した【乱世の奸雄かんゆう】だ。


 曹丕とは、あまり仲の良くない父子だった。

 大勢いる曹操の息子の中でも、彼より曹操に愛された子供は何人もいる。


 それは表立った対立というようなものではない。

 曹操は曹丕を膝に抱き上げて可愛がる父親ではなく、

 曹丕もまた早くから、それが父親の当然なのだと理解する息子だったというだけだ。


 ……甄宓しんふつは曹丕の孤高の気配にひどく惹かれているようで、


 ぽつりと群生する花の中に違う色の花がいたり、

 庭に集まる水鳥の中に色の違う鳥がいたりすると、


子桓しかんさまのよう』


 と、愛し気に微笑むことがあった。


 曹操そうそうは【赤壁】で大敗を喫した。

 単なる負けではない。呉軍の大がかりな奇策に掛かって、死にかけて魏に撤退したのである。

 戻って以来、怪我の療養を理由に政を曹丕に任せるようになったが、彼自体は疲労以外の大きな怪我はなかったと聞く。

 それまではまだ曹操が庇護する曹植そうしょくにも王位を継ぐ可能性がある、という空気はあったのだが赤壁以来、曹丕に恐らくこのまま譲位はなされるだろうことが、城に住まう者にも粛々と受け入れられる空気になった。


 あの戦いが、全ての空気を変えたのだ。

 曹丕は今父親のいる長安で、政や軍の編成の準備を自ら進めている。

 だから甄宓は今、じっと身を潜めているのだ。

 彼女が曹丕の為に動く時は、曹丕の身に危機が迫っていると彼女が判断した時である。


 そういう時は、いつもは優雅にこうして腰掛けている甄宓も驚くべき行動力を見せる女性だった。


 今は曹丕の身に危険は迫っておらず、尚且つ彼が政に集中している為、自分が出張っては邪魔になると考えているのだろう。

 戦いの気配がしてきた時だけ、甄宓は動き出す。


「ここで少しでも休養を取っていただきたいけれど……百合は間に合わないかしら」


 美しい彼女は物憂げにそうして溜息をついていても、美しかった。


仲達ちゅうたつ様も頻繁に長安と許都を行き来しておられますから……」

「あら、仲達殿が許都きょとに戻っていらっしゃるの?」


 甄宓はふと、曹娟の呟きに振り返った。

 彼女は知らなかったようだ。

 曹娟は身を整えて、頷く。

「はい。最近は行き来が頻繁だそうにございます。二週間ほどの間隔で長安から戻って来られているとか」


「殿下の御側におられると思っていたわ。なんせ、長安で殿下がお相手しているのは曹孟徳ですもの。

 確かに仲達殿は曹孟徳そうもうとくからは疎まれておいでですけれど、あの方そんな気遣いをなさる方ではありませんわ。今は殿下の御側でやるべきことをやり、見るべきことを見ておられると思っていたけれど」


 背もたれに腕を掛けていた甄宓がそれを下ろす。

「殿下から、大切なご用事でしょうか?」

「いいえ。曹丕そうひ様はそういう細かいことなら仲達殿ではなく他の人間にお命じになりますわ。無駄に今、ご自分の意志で仲達殿を動かすようなことはなさいますまい……」


 楽にしていたようだった、甄宓を取り巻く空気が少し変わったように感じた。

 彼女は何かを考えているようだ。


「では、ご自分の……司馬家の御用でしょうか?」


「……。そんなに頻繁に行き来していらっしゃるの?」

「はい。この三月ほどはもうずっとそうやってお過ごしだと」

「知らなかったわ。時折戻っていらっしゃるのは気づいていたけれど、そんなに頻繁だとは。あなた、よく分かったわね?」


「母が、わたくしが許都でも女官になったことで、最近文を送って来ることが多いので、報せを運んで来る者に、許都の様子を聞くようにしておりました」


 曹娟そうけんの母親も、容姿に傷があり、性格の暗い曹娟を幼い頃から可愛がらなかった母親だった。

 手元に置いていても仕方ないと、早くに有力豪族と縁談を決めて家から出したのである。


 曹丕はじき、曹魏の玉座に座る。

 その正妻である甄宓付きの女官に曹娟がなり、しかも甄宓に気に入られて立派に努めているのは、あの両親にとって驚きだろう。

 嫁に行ってからは一度も文を寄越したことがなかったのに、赤壁せきへき後は頻繁に文を送って来る。

 曹娟は家族が好きではなかったので嬉しいとも思わなかったが、甄宓も時々実家から文が来るのを「書くことがないわね」と苦笑しながらも、彼女らしく丁寧に返信を書いているのを見て、自分もそうしようと思ったのである。


 愛することは出来なくても、形だけでも整えることは大事なのだ。


 特に甄宓は皇后になるほどの女性なのだから、その側にいる自分がいつまでも実家を憎んで、親を嫌っていても仕方ないとそう思えるようになった。


 曹娟の説明を聞いて、考えていた表情を不意に緩め、甄宓は優しい表情になった。


「……そう。わたしが言ったことを、覚えていてくれたのね」


 甄宓は以前、曹娟に言ったことがあった。

 司馬懿しばいは曹丕の腹心だが全ての気を許してはいけないと。


 曹娟には政のことも戦のことも全く分からなかった。そんなことを一切教えられず育って来た、普通の良家の娘だったからだ。

 ただ甄宓が言ったことは、全てその通りにしたかった。

 だから曹娟は司馬懿のことだけはよく見ておこうと思ったのだ。


 勿論、彼は曹丕の信頼を受ける側近なのだから、嗅ぎ回っているなどと司馬懿が不快に思うようなことになってはいけない。

 それには十分注意しながら、彼が煩わしく感じない距離の外からである。


 こっちにいらっしゃいと甄宓は優しい声で自分の隣に曹娟を呼んだ。


仲達ちゅうたつ殿のことで他に何か知ったことはある?」


 疑心を抱えるのではない。ただ、きちんと見ておくのだ。

 甄宓はそう言っていた。

 曹娟は主の言わんとすることを少しのずれもなく理解していた。


司馬懿しばいさまのお話かは分かりませんが、許都に叔達しゅくたつ様という弟君をお呼びになられたようです。身の回りのことをさせておられると女官たちが話しておりました。

 それと母の文で、このところ曹丕殿下が玉座につかれることになったら、立派な祝いものを用意する風潮があるが、司馬懿殿が殿下に名剣を贈られたからには、自分たちもそのようにした方が良いのだろうかという話がありました」


 甄宓の紫水晶の瞳が、一瞬明るく瞬いた。


「仲達殿は殿下に剣など贈られてないわ。変ね」


 曹娟は何も余計なことは言わなかった。ただ、真実だけを伝えればいい。

 自分などより甄宓は遥かに深い所で曹丕に必要なことが理解出来ている。


「名剣と言ったわね。どんな剣かは分かるかしら」


「母の文には何も……ですが、これは街で噂になっているということですが、少し前に【干将莫邪かんしょうばくや】という名剣が長安ちょうあんの市で競りに掛けられ、高額で取引されたという話がありました」


 甄宓しんふつは微笑む。


「教えてくれてありがとう。曹娟。

 司馬懿しばい殿は今、雑味を抱えられるほど愚かではないはず。

 けれどその上で彼が何かをしているのなら、きっと大きな意味があるわ。

 私は知らなかった。教えてくれて、助かるわ」


 美しい手が、優しく曹娟の髪を撫でてくれる。


叔達しゅくたつ殿は、たしか……司馬家の何番目かの弟だったはず。あの家の兄弟は仲が悪いはずだけれど、仲達殿の側で兄弟を見るのは初めてのことだわ。

 しかも任官を得たのではなく、自分の身の回りの世話をさせているだなんて本当に珍しいこと」


 甄宓は少し考え巡らせているようだったが、やがて柔らかく微笑んだ。


「許都に残しておられるなら、何か重要な任を任せているのではないのでしょう。

 政に関わる側近は、仲達殿は今までわたくしにきちんと紹介してくださったもの。

 私事で呼び寄せたから私や殿下に紹介するほどのものではないと思ったのでしょう」


「はい」

 曹娟は頷いた。

「任官の経験を積ませたかったのかもしれませんし。洛陽らくようと長安とは異なり、今は許都はこの通り穏やかで静か。気を遣わなくていいものね。

 ……曹娟そうけん。貴方のお茶が飲みたいわ。淹れてくれるかしら?

 少し休んだら仲達殿の住まいを訪ねてみるわ。あそこの兄弟は秀才揃い。弟君がどんな方なのか興味があるの」

「はい。ただいまお持ちいたします」


 少しだけ嬉しそうに、穏やかに一礼すると曹娟は立ち上がり部屋を出て行った。

 彼女が出て行くと甄宓も優雅に立ち上がり、奥の部屋に歩いて行く。

 

 窓辺に立つ。



「【干将莫邪かんしょうばくや】という名剣の行方を追ってちょうだい」



 彼女がそう一言告げるとザザ、と風の音が通り過ぎる。

 目の前には広い池があり、白羽の水鳥が涼し気に浮かんで休んでいた。


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