第5話

「つーか、ないわー。なんで期末試験明け一発目の登校がよりによって奉仕の日になっちゃうんだよ……」


 そう愚痴を漏らしているのは、デッキブラシでプールの苔を取っている翔太。

 私もワイパーみたいな刷毛で、プールサイドのぬめぬめと格闘している最中だった。


「しょうがないじゃん。文学部なんて、学校内カースト最下位だし。水泳部のプール練もうすぐ始まるし。都合のいい学校の駒とでも思われてんでしょ」

「カオリは超現実主義だよなぁ」

「だって事実だもん。しょうがないじゃん」

「そういえば、残り二人の部員はなんで来ないの? さぼり?」

「茶道部の子は今日お茶会で、もう一人の幽霊の子は、ごめんだけど分からない」

「なんだよ、それ。え、じゃあこれカオリと僕の二人で終わらせろってこと?」

「そういうこと。わかったら早く手動かしなさい」炎天下の太陽が、私のHPゲージをじりじり削っているように感じる。「こんなところで、日焼けしたくないから」

「なら、日焼け止め塗ったら?」

「あるの?」

「うん。僕のリュックの外側の内ポケットに入ってる。防水でゴジュウカラットの最強のやつ」

 私は左手に持っていた雑巾を投げ捨てた。ぴちゃり、と汚い水滴が顔に飛んでくる。

「そういうのはもっと早く言いなさいよ」


 水が入っていない干上がったプールから私は這い上がる。

 日除けの屋根が付いたベンチに、翔太のリュックはあった。

 私は内ポケットのファスナーを引いて、中に手を突っ込む。

 日焼け止めを手に取ると、シャカシャカよく振って、手の甲に白線を引く。

 それをよくなじませて、顔に付けていく。

 私は日焼け止めが好きではない。なんか脂っぽくて、後味も気持ち悪いから。

 でも翔太のやつは、水気が割と多めで、さっぱりぬれた。

 キャップを堅く閉めて、私は日焼け止めを翔太のリュックに戻す。

「何をしてるの?」

「うわっ!? びっくりした」

「ごめん。驚かせるつもりはなかった」

「マミ!? あんたこんなところで何してんの!?」

「何もしていない」

「って、そういうことじゃなくて……」

「カオリこそ、何をしているの?」

「見てわかるでしょ。奉仕活動」私は視線を、干上がった大きな水たまりに移した。「プール、磨いてんのよ」

「私も手伝って、いい?」

 私はまさかの提案に、目を見開いた。「手伝ってくれるの」

 コクリとマミは頷いた。「カオリが良ければ、手伝える」

「悪いわけないでしょ。なら、ちょっと待ってて。マミ用のデッキブラシも持ってくるから」

「ありがとう」





 ◇◇◇






「ありがたや、ありがたや。やっぱり三人になると進みが全然違うね。ほらっ見て! ここ! もう底の青が見えてきた!」

「こらぁ。口動かす暇あったらぁ、手ぇ、動かしなさいよ、翔太ぁ」

「ちょっと疲れた。さすがに一回タイム。水飲んでくるわ。カオリもそろそろ水分補給した方がいいよ」

「あ。水筒忘れた」

「は? この炎天下に? カオリのそういうところだよ。持ってこなきゃ。なんなら、僕のスポーツドリンク上げようか?」

「いらない。間接キス」

「そう? 僕は気にしないけどね」

「うるさい」

 ペタペタとペンギンみたいな足音を立てて、翔太はフェードアウトしていった。

 高坂さんが加わってから三十分くらい、私たちはもくもくとプールを磨いていった。

 それにしても、二十五メートル×四レーン。

 その広さと言ったら。でも、高坂さんが来てくれたおかげでもうそろそろ終わりそうだ。

 そのとき、視界の端にいた高坂さんの影が、突然ふらっとぶれた。

「あ、ちょっと。大丈夫!?」

 私は高坂さんに駆け寄った。

 顔色を悪くして、しゃがみ込んでいる。心なしか呼吸音も乱れている気がする。

「マミ!? 大丈夫? 具合悪いの?」

「問題ない。ただ少し目眩がするだけ」

「絶対、熱中症。とにかく一回休みましょ。ね、ほら立って」

 それでも高坂さんはぐったりと、動く気配がない。

「翔太ぁ!!!」

「なーにー」

「高坂さんが大変! ぐったりしてる」

「嘘、大丈夫!?」

 数秒後駆後寄ってきた翔太があっと声を上げた。「大変、熱中症だ。とりあえずあのベンチまで……」

「う、うん」

 翔太と私が両肩を貸し、高坂さんを辛うじて歩かせる。

「あつッ。なんか引くものある?」

「ひくもの?」

「ベンチ、鉄板みたいに熱くなってるから」

「うわッ、ほんとだ」翔太は猫みたいにあたふたとした後、何か思い出したかのようにリュックに手を突っ込んだ。「これ。バスタオル」

「ありがと……。え、これ」

 その柄、見覚えがあった。

「これ……、私のじゃない?」

 恐る恐る鼻を近づけてみる。

 馴染みある柔軟剤が香った。それは間違いなく私の物だった。

「なんで翔太が私のバスタオル持ってんの?」

「え? それカオリのなの!?」

「うん。絶対そう。これ私の」

「……なんでだろ」翔太は不思議そうに首を傾げた。「……わかんない」

「まあいいよ。これ使うから」

 そのままベンチを水で冷やして、その上にバスタオルを引く。

 そしてゆっくりと、高坂さんを横たえた。

「じゃ、僕。一応保健室の先生呼んでくるから! 水はリュックに入ってる!」

「ありがと。私は残る」

「うん!! それじゃっ」

 私は翔太のバックから水筒を取ると、その蓋を開けた。

 まだ残っている氷が、中でシャカシャカ涼しい音を立てている。

「マミ、飲める?」

「飲めない」

「はい。口開けて。特別に私が飲ませてあげるから」

「ううん。必要ない」

「必要ないって、ほら正直に口開けなさい。熱中症って舐めてたら危ないの。毎年それで何人も亡くなっているんだから」

「私は熱中症にはならない」

「ならないって、マミ……」

「これは恐らく熱暴走。私は炎天下で長時間作業するようにはできていないんだと思う」

「熱暴走って……」私は息を呑んだ。

 長時間スマフォでゲームしたとき、背面がカイロみたいに熱くなっていたのを思い出した。

「なら、それ、かけて。私の頭に」

「かける?」

「頭部は回路が集中している。それを冷却しないといけないんだと思う」

「……こう?」

「そう」

 私は彼女の顔になるべくかからないように、水筒を傾けた。

 透明な液体が、彼女の輪郭をつたっていく。

 時々小さな氷が混じって落ちる。私はそれをかき集めて、彼女の頬にあてがう。

「……どう? よく、なってる?」

「うん……」

 もうそろそろ水もなくなってきたので、私は水筒の底の方に溜まっている氷を手の上に出して、それも彼女の首らへんに当ててみる。

「……冷たくて、気持ちいい。カオリ、ありがとう」

「これくらいいくらだってしてあげる。って、翔太のやつ遅い。どこで道草食ってんのよ、あいつ」

 もう手の中の氷も全部溶けてしまった。

 私は、立ち上がろうとした。

「行かないで」

 私の手首は、マミの手にしっかり捕まれていた。「マミ?」

「カオリに行ってほしくない。ここにいてほしい」

「でも氷、もうないから。貰ってこないと」

「私は大丈夫。カオリのおかげで、良くなった」

「……わかった。ここにいるね」

「カオリ、ありがとう。カオリは、優しい」

 その時、私はマミの手首越しに、何かの流れを感じた。

 何かの液体が、絶えず彼女の体を循環している。

 それは、私の知らない熱だった。

 それが、ただ生々しかった。



 私はまだ、マミの手を握っている。

 体の奥に、誰かの命が流れ込んでくる気がした。

 それは不思議な感覚だった。

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