第7話 交わらない音の行方

 その日も、午後四時を少し過ぎたころだった。


 ベランダの扉を引くと、まるで空気が跳ね返ってくるような蒸し暑さが頬を撫でた。団地の上の階にあるからか、昼間の熱気がまだしっかりと残っている。足元のコンクリートには、朝からの太陽の記憶がそのまま染みついているようだった。


 でも、その暑さの向こう側から、ギターの音が聴こえてきた。


 指の腹で優しく撫でるようなアルペジオ。単純なコードを重ねただけの、どこか物憂げな旋律だった。それはいつも通りの音。けれど、今日のぼくには、やけに胸の奥へ響いた。


「蓮〜、今日も元気にひきこもってんのか〜」


 となりのベランダから顔を出した幸雅は、頭にタオルをのせたまま笑っていた。うっすらと汗をかいた額。Tシャツの襟元は少し湿っていて、夏が体にくっついて離れないような様子だった。


「外、地獄だぞ。出てこいって」


「……うん」


 頷きながら、心のどこかで戸惑っていた。

 幸雅と話すのは、楽しい。安心もする。だけど、その安心が、ぼくを逆に苦しめることもある。


 昨日、ほんの軽いノリで幸雅が言っていたこと。


「中学の時、女の子に告白されたことあってさ。まあ、ビビってスルーしちゃったけどな」


 悪気のない笑いだった。でも、それを聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。


 “ああ、やっぱりそうだよな”って。


 わかってた。はじめから、そうだと。


 だけど、どうしてぼくは、こんなにも彼の言葉に一喜一憂してしまうんだろう。


 同性が好きな自分が、また同性に惹かれている。

 そのせいで周りが怖くなったくせに。都合良く、また。

 それが、たとえ名前のない感情でも。

 それが、たとえ“好き”じゃなかったとしても。


 また同じことを繰り返すんじゃないか。

 また、あの視線を向けられるんじゃないか。


 わかってる。幸雅は、そういう人じゃないって。でも――。


 ぼくのなかには、まだ“怖さ”が消えてくれない。


「なあ、ちょっと散歩でも行くか。今日は日が落ちるのも遅いし、ベンチにでも座ってジュース飲もうぜ」


「……うん、行こう」


 口ではそう言いながらも、足元には小さな重りがぶら下がっているようだった。

 外の空気が怖いわけじゃない。ただ、“同じ制服の誰か”と、道でばったり会ってしまうような気がして。


 ぼくはまだ、ちゃんと歩けてないんだ。


 あの日、教室の空気が急に冷たくなった日から、ずっと。


 それでも幸雅は、いつもどおり隣にいて、当たり前のように話しかけてくる。


 ぼくの中で、ぐるぐる渦巻く言葉にならない思いを知らないまま――。


 それでも、ぼくは今、彼といるのが心地いいと思ってしまっている。


 そのことが、また苦しかった。


 団地の坂を下った先にある、小さな公園。

 そこはまるで、時間だけがぽつんと取り残されたような場所だった。赤く塗られた鉄の滑り台は、もうすっかり色褪せて斑になり、ブランコの鎖は風に揺れるたびに細く軋む音を立てる。砂場の砂も、どこかくたびれて見えた。


 けれど、その古さが嫌ではなかった。ぼくはこの町で育ったから、こんな風景に慣れている。いや、むしろ、このひと気のなさと懐かしさが混ざったような場所が、今のぼくにはちょうどよかったのかもしれない。


 夕方の光が、ゆっくりと世界の端から沈みかけていた。空の色は水色から薄い橙へと滲み、遠くで蝉の声がまだ続いていた。風がそよぐたびに、土と草の匂いが鼻をかすめる。


 ベンチに並んで座ると、幸雅が無造作に缶ジュースを差し出してきた。指先に触れたそのアルミの感触が、ぼくには妙に冷たくて、心にさえ染みるようだった。


「この公園、俺来るの初めて。……けっこう、好きかも。落ち着くな」


 幸雅は、そう言いながら足を伸ばし、空を見上げていた。

 ぼくは、まだ口を開けなかった。


 ジュースのプルタブをそっと開けると、炭酸の気泡が小さな音を立てて弾ける。

 胸の奥も、似たような泡でいっぱいになっていた。

 何かを言いたいのに、言葉にできない。ずっと心に引っかかっていたものが、今日、やっと口に出せそうな気がしていた。


「……ねえ、こ、西野、くん」


 自分の声が思ったよりも小さくて、震えていた。

 幸雅がちらりとぼくの方を見る。その視線に気づかないふりをして、ぼくは正面の茂みを見つめながら、続きを言った。


「ぼく、学校に行くのが、怖いんだ」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥がずきんと痛んだ。

 空気が変わったような気がした。風がやみ、蝉の声だけが続いていた。


「……前に、クラスの子たちに、知られた。ぼくが……その、男の人が好きなんじゃないかって」


 声がうまく出なかった。喉の奥が詰まりそうだった。


「“ホモ野郎”とか、“俺は狙わないでくれよ”とか。笑いながら……まるで冗談みたいに。でも……毎日、言われると、本当になる気がして……」


 ジュースの缶を持つ手が、じんわりと汗ばんでいた。缶の冷たさも、もう感じられなかった。


「誰も、止めてくれなかった。先生も、何も言わなかった。気づいてたはずなのに。……みんな、見ないふりをしてた」


 視界がにじんだ。涙が溢れているのが分かったけど、拭うことができなかった。


「もう、教室に行くのが怖くて。怖いって思う自分が、情けなくて。強くなろうと思っても、強くなれなくて……」


 ぽつぽつと落ちていく言葉たちは、止まらなかった。


「だから、ずっと家にいた。誰にも会いたくなくて。でも、……また同じことを繰り返すんじゃないかって思うと、また……誰かを好きになったらって思うと、もっと怖くなるんだ」


 幸雅のことを直接言ったわけじゃない。でも、ぼくの中には、それがはっきりとあった。彼に惹かれてしまう自分がいた。それを否定できなくて、そのくせ言葉にはできなかった。


「……蓮」


 その声に、身体がびくんと反応した。顔を向けると、幸雅が真剣な顔をして、ぼくを見ていた。


「怖いって思うの、当たり前だよ。そんなことあったら、誰だってそうなる」


 彼の声は、少し低く、穏やかだった。どこまでもまっすぐで、ぼくを責めるような気配はひとつもなかった。


「無理に戻んなくていい。でもさ、それでもお前が学校に行こうとしてんの、俺はすごいと思う。マジで」


 ぽろぽろと、涙が頬を伝っていった。声にはならなかったけれど、ありがとう、って、心の中で何度も言っていた。


 公園を出たときには、もう空はすっかり夜の色に染まっていた。

 空にはまだ明るさがわずかに残っていたけれど、街灯が灯り、団地へと続く坂道がゆるやかに照らされていた。


「さ、帰ろうぜ」


 幸雅が言うと、ぼくは首を縦に振った。


「うん、そうだね」


 少し笑ったつもりだったけど、うまくできていたかどうかはわからなかった。


 背を向けて歩き出したぼくの背中に、幸雅の視線がそっと触れるのを感じていた。だけど、振り返らなかった。

 この気持ちに、まだ名前をつけたくなかった。


 団地までの道は、蝉の声がすっかり静まって、代わりに草むらからか細い虫の音が響いていた。

 夜の空気は少しひんやりしていて、首筋を撫でるたびにさっきまでの涙の跡を思い出させた。


 何度も言いかけて、言えなかったことがあった。

 でも、全部を言わなくても、少しだけ心が軽くなった気がした。


 「……また誰かを好きになったら、怖い」

 そう言ったときの自分の声が、頭の中で何度もリフレインする。


 でも、――でも。

 それでも今日、誰かとちゃんと話せたことが、ぼくにはすごく、大きかった。


 団地が見えてくると、窓のいくつかにはもう灯りがついていて、暮らしの音がかすかに漏れていた。

 階段をのぼる足音が、暗がりに吸い込まれていく。


 静かな夜。

 だけど、今日という一日が確かにそこにあって、ぼくは、ちゃんと生きていた。



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