第2話

 時間が死んでいた。


 秒針の音すらしないリビングで、佐伯健一はソファに深く身を沈めていた。


 まるで深海に沈んでいくように、意識だけがゆっくりと暗闇に溶けていく。息をするのも億劫だった。


 寝室のドアは、固く閉ざされている。その向こうで、妻の雪が眠っている。


 彼女が発するであろう穏やかな寝息を想像するだけで、胃の奥が焼け付くように痛んだ。


 あの男が残していった、甘く、それでいて攻撃的な香水の残り香が、まだリビングの空気に粘りついている。


 健一が雪のために選んだ、カモミールとラベンダーのアロマディフューザーの香りは、その暴力的なまでの存在感の前に、跡形もなく消し去られていた。


 幸福の象徴だったはずの香りは、今や敗北の匂いしかしなかった。


 健一は目を固く閉じる。


 瞼の裏に焼き付いているのは、雪が見せた恍惚の表情。健一が知らない、知ってはならなかった顔。


 そして、あの男――徳田陽介が投げかけた、虫けらを見るような侮蔑の眼差し。


 あの視線は、健一という人間の価値そのものを否定していた。


 お前は敗者だ、と。お前の築き上げた全ては、俺が指一本で奪える程度のものなのだ、と。


 ソファのクッションに顔を埋める。


 数週間前、二人でインテリアショップを巡り、笑い合いながら選んだものだ。


「この色、健ちゃんの好きなブルーだね」


 そう言ってはしゃいでいた雪の声が、幻聴のように耳元で蘇る。


 全ての思い出が、鋭利なガラスの破片となって心臓に突き刺さった。


 いつの間にか、窓の外が白み始めていた。


 眠れなかった。一睡も、できなかった。


 寝室のドアが、静かに開く。


 現れた雪は、シルクのナイトウェアを身につけ、何事もなかったかのように髪をかき上げた。


 健一の姿をソファに見つけると、一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに平然とした表情を取り戻す。


「あら、おはよう。そんなところで寝てたの? 風邪ひくわよ」


 その声は、昨日までの雪と何も変わらない、穏やかなトーンだった。


 それが、健一の神経を逆撫でする。狂っているのは自分の方なのか? 昨夜の出来事は、全て悪夢だったのではないか?


 しかし、リビングに漂う異質な香水の匂いが、それが紛れもない現実だと告げていた。


「……ああ」


 健一がかろうじて絞り出した声は、自分のものではないように掠れていた。


 雪はそれ以上何も言わず、キッチンへと向かう。


 やがて、コーヒーを淹れる香ばしい匂いと、トースターがパンを焼く音がリビングに届き始めた。


 日常の音。昨日まで、健一が世界で最も幸福だと感じていた音。


 今、その全ての音が、彼の鼓膜を不快に震わせるノイズでしかなかった。


「朝食よ。今日、大事なプレゼンなんでしょ? ちゃんとしなさい」


 キッチンから投げかけられた言葉に、健一は返事ができなかった。


 大事なプレゼン。そうだ。忘れていた。


 いや、忘れたかった。


 外資系高級車ブランド「エーテル」の、社運を賭けたコンペ。この数ヶ月、心血を注いできたプロジェクト。


 だが、今の彼には、その成功も失敗も、どうでもいいことのように思えた。


 世界の中心が、足元から崩れ落ちたのだ。会社の評価など、些末な問題に過ぎなかった。


 それでも、身体は社会人としての習慣に支配されていた。


 シャワーを浴び、昨日と同じスーツに袖を通す。


 鏡に映った自分の顔は、死人のように青白く、目の下には深い隈が刻まれていた。


 雪が並べた朝食のテーブルにつく。


 スクランブルエッグと、こんがり焼かれたトースト。健一の好きなメニューだ。


 彼女は、健一の向かいに座り、自分の分のコーヒーを静かに啜っている。


 その仕草はあまりに自然で、昨夜、この家の寝室で見知らぬ男に身を委ねていた女と同一人物だとは、到底信じがたかった。


「……顔色、すごく悪いよ。本当に大丈夫?」


 雪が、心から心配しているかのような声音で言う。


 その完璧な演技に、健一は吐き気を覚えた。


 お前のせいだ、と叫び出したかった。


 喉までせり上がった激情を、冷え切ったコーヒーで無理やり胃に流し込む。


「……寝不足なだけだ」


 それだけ言うのが精一杯だった。


 彼はトーストを一口も食べることなく席を立ち、逃げるように玄関へ向かった。


「いってきます」


 背後から、いつも通りの声が聞こえる。


「いってらっしゃい。頑張ってね」


 ドアを閉めた瞬間、健一は壁に手をついて崩れ落ちそうになった。


 頑張ってね、だと? どの口が言うのか。


 彼女の言葉は、もはや励ましではなく、呪いのように彼の全身にまとわりついた。


 中堅広告代理店「広宣堂」の会議室は、異様な緊張感に包まれていた。


 健一の向かいには、「エーテル」日本支社のマーケティング部長、ハンス・シュナイダーが腕を組んで座っている。


 その隣には、数人の部下たちが厳しい表情で並んでいた。


 健一の上司である営業部長の木下が、冷や汗を浮かべながら健一の顔を窺っている。


 プレゼンは、惨憺たるものだった。


 健一は、モニターに映し出されたスライドを前に、立ち尽くしていた。


 頭の中が、白いノイズで満たされている。


 あれほど完璧に暗記したはずの原稿が、一言も出てこない。


 口を開いても、意味のない音節が漏れるだけだった。


「……つまり、我々の提案するコンセプトは……その……」


 しんと静まり返った会議室に、自分の情けない声が響く。


 視界の端で、木下部長が絶望的な顔で天を仰いだのが見えた。


 健一の脳裏をよぎるのは、プレゼンの内容ではない。


 雪の熱っぽい吐息。男の腕に光っていた高級腕時計。そして、自分に向けられた、雪の冷たい苛立ちの表情。


 それらの映像が、フラッシュバックのように何度も何度も再生され、彼の思考を完全に麻痺させていた。


「……佐伯君」


 シュナイダーが、低い、失望を隠さない声で健一の名前を呼んだ。


「君はこのプロジェクトの責任者のはずだ。我々はこの日のために、君のチームに多大な時間を投資してきた。これが、その答えかね?」


 その言葉は、氷のナイフのように健一の胸に突き刺さる。


 しかし、痛みさえも、どこか遠い世界のことのように感じられた。


「申し訳、ございません……」


 かろうじて絞り出した謝罪は、誰の心にも響かなかった。


 プレゼンは途中で打ち切られた。


 シュナイダーたちは、一言の挨拶もなく席を立ち、冷ややかに会議室を後にしていく。


 その背中が、このコンペの結果を雄弁に物語っていた。


 ドアが閉まった瞬間、木下部長の怒声が炸裂した。


「佐伯ぃ! 貴様、一体どういうつもりだ! 会社の命運がかかったプレゼンで、あのザマは何だ!」


 健一は、ただ俯いて叱責を受け止めることしかできなかった。


 弁解の言葉など、何も思いつかなかったからだ。


 自分の世界だけでなく、社会的な立ち位置さえも、今、この瞬間、崩壊しつつある。


 その事実が、希薄になった現実感をわずかに引き戻した。


 その夜、健一が重い足取りでマンションに帰り着くと、リビングの明かりがついていた。


 雪が、ソファに座ってテレビを見ている。


 健一の帰宅に気づくと、振り返って微笑んだ。


「おかえり。プレゼン、どうだった?」


 その無邪気な問いかけに、健一の中で何かがぷつりと切れた。


 彼は無言でリビングを横切り、ダイニングテーブルの上に無造作に置かれていたものに目を留めた。


 光沢のある、上質なレザーのハンドバッグ。見たことのないブランドのロゴが、ゴールドのプレートで控えめに輝いている。


 それは、健一が雪に買い与えられるような価格帯のものではなかった。


「……そのバッグ、どうしたんだ?」


 健一の声は、自分でも驚くほど低く、冷たかった。


 雪は、一瞬だけ視線を泳がせたが、すぐに落ち着きを取り戻す。


「あら、これ? そうね、最近仕事の調子がすごく良くて、ね。前から欲しかったのよ。頑張った自分へのご褒美、って思って」


 嘘だ。


 フリーランスのWebデザイナーである彼女の収入は、健一が全て把握している。


 こんな高級品を、衝動買いできるほどの余裕はないはずだ。


 あの男からの贈り物だ。健一は、直感的に悟った。


 雪は、健一の疑いの視線から逃れるように、再びテレビに目を向けた。


 その手には、片時もスマートフォンが手放されていない。画面に指を滑らせ、誰かとメッセージを交換している。


 健一が近づくと、彼女は素早くスマホの画面を伏せた。


 そのあからさまな行動が、健一の胸を締め付ける。


 妻は、変わってしまった。いや、元々こうだったのだろうか。


 自分が、彼女の本当の姿に気づいていなかっただけなのか。


 安定しているが刺激のない生活。健一が与えてきたものは、彼女にとって退屈な檻でしかなかったのかもしれない。


 健一は、その夜もソファで身体を丸めた。


 寝室へ行く気にはなれなかった。


 暗闇の中で、ひとつの決意が固まっていく。


 このままでは、自分が壊れてしまう。憶測と疑心暗鬼の中で、精神が蝕まれていくだけだ。


 真実を知らなければならない。たとえそれが、彼の心を完全に破壊するものであったとしても。


 最後の望み。


 もし、あの夜が一度きりの過ちだったのなら。何かの間違いだったのなら。


 まだ、やり直せるかもしれないという、蜘蛛の糸よりも細い希望。


 その希望に賭けたいという気持ちと、全てを暴き出して絶望を確定させたいという破壊的な衝動が、彼の心の中でせめぎ合っていた。


 深夜、リビングに差し込む月明かりだけを頼りに、健一は音を立てずに寝室へ忍び込んだ。


 ベッドでは、雪が穏やかな寝息を立てている。


 その無防備な寝顔は、かつて健一が愛した少女の面影を残していた。


 一瞬、心が揺らぐ。


 だが、彼は首を振り、サイドテーブルに置かれた雪のスマートフォンを、震える手でそっと手に取った。


 指紋認証を、眠っている彼女の指でそっと解除する。


 罪悪感で心臓が激しく脈打った。しかし、もう後戻りはできなかった。


 健一は、手早くアプリストアを開き、目当てのGPS追跡アプリを検索する。


 インストールは、数十秒で終わった。


 彼はアイコンを他のアプリのフォルダの奥深くに隠し、通知設定を全てオフにする。


 そして、何事もなかったかのように、スマートフォンを元の場所に戻した。


 自分のスマホにも、同じアプリをインストールする。


 設定を終え、マップを開くと、マンションを示す青い点が、静かに表示されていた。


 これで、準備は整った。


 健一は、ソファに戻ると、暗い画面をただじっと見つめていた。


 これから自分が見ることになる真実は、祝福か、それとも呪いか。


 どちらに転んでも、もう以前の自分には戻れないことだけは、確かだった。


 数日が過ぎた。


 健一は、仕事中も、食事中も、常にポケットの中のスマートフォンを意識していた。


 時折、トイレの個室に駆け込み、震える指でアプリを起動する。


 雪の行動を示す青い点は、ほとんどが自宅か、あるいは彼女が打ち合わせで使うという渋谷のコワーキングスペースを指していた。


 もしかしたら、本当に、あの夜だけの過ちだったのかもしれない。


 淡い期待が、健一の心に芽生え始めていた。


 その日も、健一は昼休み、人気のない給湯室でアプリを開いた。


 マップが表示された瞬間、彼の心臓は凍り付いた。


 青い点が、見慣れない場所で点滅している。六本木。


 健一は、指先の血の気が引いていくのを感じた。


 震える手で、マップを拡大していく。


 青い点は、六本木ヒルズに隣接する、超高級タワーマンションの一角を正確に指し示していた。


 レジデンス棟。芸能人やIT企業の創業者たちが住むと言われる、都内でも屈指の高級住宅だ。


 健一は、ブラウザを開き、震える指でキーワードを打ち込んだ。


『徳田陽介 電皇 自宅』


 いくつかのゴシップ記事や業界の噂話の中に、答えはすぐに見つかった。


 彼の住まいは、六本木の、まさにアプリが指し示しているタワーマンションだった。


 スマートフォンが、手から滑り落ちそうになる。


 一度きりでは、なかった。


 あの夜は、過ちなどではなかったのだ。あれは、彼女たちの「日常」の一コマに過ぎなかった。


 健一が会社で屈辱的な失敗に打ちひしがれている間も。


 健一が夜、ソファで孤独に震えている間も。


 彼女は、何食わぬ顔で家を出て、あの男の元へ通っていたのだ。


 定期的に。計画的に。継続的に。


 GPSの追跡記録を遡る。


 過去数日の間にも、彼女は二度、昼間の数時間をその場所で過ごしていた。仕事の打ち合わせだと嘘をついて。


 健一の心を満たしていた純粋な衝撃と悲しみは、急速に色を変えていった。


 じわり、じわりと、心の底から冷たいものが這い上がってくる。


 それは、絶望を通り越した、静かで、底知れない、粘着質な恐怖。


 そして、その恐怖のさらに奥深くで、小さな、硬質な炎が、音もなく燃え始めた。


 それは、怒りという名前の、冷たい炎だった。


 健一は、スマートフォンの画面をただじっと見つめていた。


 彼の目は、もはや悲しんではいなかった。


 ただ、獲物の位置を正確に捉えた、狩人のように冷徹な光を宿していた。


 世界が砕ける音は、もうしない。


 ただ、空虚な家に響くエコーの中で、復讐という名の歯車が、静かに、そして確かに、回り始めていた。

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