NTRが発覚し、愛妻とエリート同僚に人生の全てを奪われた。だから僕は広告プランナーのスキルを解放し、緻密な戦略で二人を公開処刑する。業界の頂点から地獄の底へ叩き落とすことにしたんだ。

ネムノキ

第1話

 磨き上げられた黒い御影石のフロアに、軽やかなカートの車輪が滑る音だけが響いていた。


 恵比寿ガーデンプレイスの地下に広がるそこは、まるで別世界のような高級スーパーマーケット。時を告げる針は、平日の夜七時を回ったばかりだ。煌びやかな照明の下、仕事帰りの着飾った人々が行き交う中、佐伯健一はワインセラーの前に立っていた。慎重な手つきで、ボトルを選んでいる。


 今夜は、ささやかながらも大切な記念日だ。


 健一が、愛する妻の雪にプロポーズをしてから、ちょうど五年。結婚記念日とはまた別に、二人だけで祝う、特別な日だった。


「やっぱり、ブルゴーニュかな……」


 健一は小さく呟きながら、ずらりと並んだ深紅の液体を眺めた。


 妻の雪は、繊細なピノ・ノワールを好んだ。彼女の白い肌のように、きめ細やかで、それでいて複雑な香りを秘めたワイン。そのボトルを手に取るだけで、雪の優美な笑顔が自然と目に浮かんだ。健一の胸は、温かい幸福感で満たされる。


 ――幼稚園の砂場で出会った、泣き虫だった女の子。


 ――中学の文化祭で、舞台の主役を演じる彼女の姿に、胸をときめかせたこと。


 ――大学時代、友人から恋人へと関係が変わった、あの雨の日の告白。


 健一の人生は、常に雪と共にあった。中堅広告代理店「広宣堂」に就職し、アカウントプランナーとしてがむしゃらに働いたのも、すべては彼女と一緒になり、「完璧な人生」を手に入れるためだった。


 そして五年前に手に入れたこの人生を、彼は心から誇りに思っていた。


 少し奮発して選んだ、とっておきのジュヴレ・シャンベルタンをカートに入れる。次はデリカテッセンのコーナーへ向かう足取りも、心なしか軽やかだった。


 雪が好きなトリュフ風味のチーズに、熟成された生ハムの盛り合わせ。メインは、家で焼くだけになっている最高級の和牛ロッシーニ風ステーキセットだ。


 すべてが、完璧。


 俺の人生は、完璧なんだ。


 健一は、口には出さない満足感を噛み締めていた。三十代前半で手に入れた都心のタワーマンション。フリーランスのWebデザイナーとして成功している、才色兼備の美しい妻。


 そして、最近始めた妊活。やがて生まれてくるであろう、自分たちの子ども。


 何の疑いもない、光に満ちた未来が、彼を待っていると信じていた。


 彼はその幸福が永遠に続くと、純粋に、そして傲慢なまでに信じていた。


 自分がどれほど世間知らずで、足元に広がる亀裂に気づいていないのかも知らずに。


「ただいま、雪」


 マンションのエントランスでキーをかざす。最新式の高速エレベーターが、健一を静かに二十階へと運んだ。


 重厚な玄関ドアを開けると、ふわりと柔らかなアロマの香りが健一を包み込んだ。雪がいつも焚いている、ラベンダーとカモミールのブレンドだ。


「おかえりなさい、健一。早かったのね」


 リビングから、雪がひょっこりと顔を出す。シルクのルームウェアに身を包んだ彼女は、健一が知るどんな女優よりも美しく、眩しかった。


「ああ。今日は定時で上がれたんだ。ほら、約束通り、いろいろ買ってきたよ」


 健一が両手の紙袋を掲げて見せると、雪は嬉しそうに目を細めた。その表情は、健一の努力が報われる瞬間だった。


「わ、すごい。ありがとう」


 彼女は健一から荷物を受け取ると、慣れた手つきでテキパキとキッチンに運んでいく。その滑らかな後ろ姿を眺めながら、健一はジャケットを脱いだ。


 リビングダイニングは、雪の洗練されたセンスで統一されたモダンな空間だ。大きな窓の外には、宝石をちりばめたように煌めく東京の夜景が、どこまでも広がっている。


 この景色を手に入れるために、どれだけ、どれだけ頑張ってきたことか。


「健一、手、洗っておいで。すぐ準備するから」


「ああ、わかった」


 簡単なディナーの準備を終え、二人はダイニングテーブルに向かい合った。キャンドルの温かい炎が、グラスに注がれたブルゴーニュワインをルビー色に染めている。


「プロポーズ記念日に、乾杯」


「乾杯」


 カチン、と澄んだクリスタルグラスの音が響く。


 芳醇なワインが喉を滑り落ちていく。トリュフの官能的な香りが鼻腔をくすぐり、和牛の脂が舌の上でとろけた。


「美味しい……。やっぱり、健一が選ぶものは間違いないわね」


 雪がうっとりと目を閉じる。その言葉が、健一にとっては何よりの報酬だった。労苦が報われる至福の瞬間だ。


「雪が喜んでくれるのが一番だからな」


「ふふ。わかってる」


 しばらく、二人は穏やかな食事を楽しんだ。他愛もない職場の話や、共通の友人の近況。そのすべてが、幸福な日常を構成するピースであり、永遠に続くものと信じていた。


「そういえばさ」


 健一は、少しだけ真面目な声色で切り出した。


「子供の名前、少し考えてみたんだ」


 その言葉に、雪はナイフを置いた。表情は穏やかだったが、その瞳の奥に、健一には読み取れない微かな光が宿ったように見えた。それは期待なのか、それとも……。


「……そう。気が早いのね」


 雪の声には、健一が期待したような温かみはなかった。むしろ、どこか冷めた、現実的な響きが、わずかに耳に残った。それは、まるで他人事のように。健一の心に、小さな、しかし確かな違和感が芽生えた。


「まあな。でも、考えてるだけで楽しくて。男の子だったら……そうだな、『陽(はる)』とかどうかな。太陽みたいに、周りを明るくする子になってほしくて」


「陽……」


「女の子だったら、『光(ひかり)』とか。俺たちの未来を照らす、希望の光になってほしい」


 我ながら少し気障すぎるか、と健一は照れ笑いを浮かべた。しかし、雪は微笑むでもなく、ただ静かにワイングラスを指でなぞっていた。


「……素敵ね。でも、まだできるかどうかも、わからないじゃない」


 その声は、相変わらず感情が希薄だった。まるで、他人事のように。健一の心に芽生えた違和感は、一層深まった。


「まあ、そうだけど。でも、いつかきっと……」


 健一が言葉を続けようとした、その時だった。


 テーブルの上に置いていた健一のスマートフォンが、けたたましい着信音を立てて震えだした。ディスプレイには『部長』の二文字。


「ごめん、会社からだ」


 健一は雪に断って、通話ボタンを押した。完璧な夜が、わずかながらも侵食されていくような不快感が募る。


「はい、佐伯です。お疲れ様です」


「佐伯か! すまん、今どこだ!?」


 電話の向こうから、上司の切羽詰まった、血相を変えたような声が聞こえてくる。


「家ですが……何かありましたか?」


「何かあったか、じゃない! 明日の『エーテル』のプレゼンだが、先方の都合で急遽、今日の深夜に前倒しになった! 今すぐ役員連中がこっちに来るそうだ!」


「え……!? 深夜、ですか!?」


 健一の背筋に、冷たい汗がぞっと流れた。『エーテル』は、健一のチームが数ヶ月かけて追いかけてきた、外資系高級車ブランドの最重要クライアントだ。このコンペに勝てるかどうかで、部の年間目標が達成できるか、健一自身の昇進がかかっているかが決まる。


「ああ! とにかく、今すぐオフィスに戻ってこい! 最終準備を叩き込むぞ!」


「は、はい! すぐ向かいます!」


 一方的に切れた電話をテーブルに置き、健一は呆然と雪を見た。完璧な記念日が、一瞬にして台無しになった。


「ごめん、雪。今から会社に戻らないと……」


「……仕事?」


 雪の声は、平坦だった。その平坦さが、健一の心に言いようのない不安を募らせる。


「ああ。明日の大事なプレゼンが、今夜になった。本当に、本当にごめん」


 健一は心から謝罪した。この罪悪感も、彼にとっては罰のように重かった。


「……わかったわ。仕事なら仕方ないものね」


 雪は静かに立ち上がると、クローゼットから健一のスーツとコートを持ってきた。その手際の良さに、健一は罪悪感を覚えながらも、どこか感謝する自分がいた。


「ありがとう。埋め合わせは、必ずするから」


「いいのよ。頑張ってね。大事なプレゼンなんでしょ?」


「ああ。絶対に勝ってくる」


 健一は急いで着替えを済ませると、雪に見送られて玄関へ向かった。


「いってらっしゃい」


 ドアが閉まる直前、雪が小さく手を振った。その顔には、残念そうな色も、怒った色もなかった。


 ただ、能面のように無表情だったことに、健一は気づく余裕もなかった。


 彼は、この記念すべき夜を中断させられたことへの苛立ちと、クライアントへの闘志で頭がいっぱいだったのだ。


 ◇


 オフィスは、すでに戦場と化していた。


 会議室には、最終版の企画書やデータが散乱し、コーヒーの匂いと、張り詰めた空気が充満している。


「佐伯、ここの市場データ、最新版に差し替えろ!」


「このコピー、もっとインパクトが欲しいな。代替案を五分で出せ!」


 部長の檄が飛び、チーム全員がPCモニターに食らいついている。誰もが極度の緊張状態にあった。


 健一もまた、アドレナリンを全開にして作業に没頭していた。クライアントの過去のキャンペーンを洗い直し、競合の動向を分析し、プレゼンのシミュレーションを頭の中で繰り返す。


 時間は、あっという間に過ぎ去っていった。


 深夜一時。クライアントの役員が到着する予定時刻が、刻一刻と迫っていた。


「よし、最終データはこれでFIXだ。佐伯、これをプロジェクターに繋いでくれ」


 部長が、一台のポータブルハードディスクを健一に手渡した。このプレゼンのすべてのデータが、今この中に入っている。


「はい!」


 健一はそれを受け取ると、自分のノートPCに接続しようとした。


 ――その瞬間、彼の全身の血が凍りついた。


 ……ない。


 自分のカバンの中を、何度、何度探っても、ない。


 プレゼンの最終調整のために、自宅のPCからデータをコピーしてきた、自分専用のハードディスクが。あの赤い筐体の、大切な相棒が。


「どうした、佐伯?」


「あ、いえ……」


 記憶を必死に手繰り寄せる。冷や汗が、背中を滑り落ちる。


 そうだ。夕食の後、会社に戻る準備をしている時だ。急いでいたから、デスクの上に置きっぱなしにしてきてしまったんだ。


 あのハードディスクには、予備のデータだけでなく、今日のプレゼンで使う映像素材の一部も入っている。それがなければ、プレゼンは不完全なものになる。致命的な欠陥だ。


「……申し訳ありません! 重要なデータディスクを、家に忘れてきてしまいました!」


 健一が叫ぶと、会議室の空気が一瞬で、完全に凍りついた。誰もが息を呑んだ。


「な……なんだと!?」


 部長の顔が怒りで真っ赤に染まり、血管が浮き出ている。


「お、おい、冗談だろ……」


「あと三十分しかないのに……」


 同僚たちの絶望的な声が、ざわめきとなって響く。誰もが、今、この場での失敗を悟ったかのような表情をしていた。


「申し訳ありません! すぐに、タクシーを飛ばして取ってきます!」


「馬鹿野郎! 今からじゃ間に合うか!」


 罵声を背中に浴びながら、健一は会議室を飛び出した。


 頭が真っ白だった。なんてミスだ。俺のせいで、数ヶ月の努力が水の泡になる。キャリアも、信頼も、すべてが崩れ去るかもしれない。


 エレベーターを待つ間、健一は震える手でスマートフォンを取り出した。


 雪にメッセージを送る。


『ごめん! 会社の忘れ物した! 今から一瞬だけ家に戻る!』


 すぐに既読はついた。


 だが、返信はない。


 もう寝ているのかもしれない。そうだ、きっとそうに違いない。こんな時間に叩き起こすのは申し訳ないが、今はそんなことを言っていられない。


 健一は、言いようのない胸騒ぎを覚え始めていた。それは、プレゼンを失敗するかもしれないという恐怖だけではなかった。もっと根源的で、得体の知れない不安感が、彼の心を蝕み始めていた。


 大通りで拾ったタクシーに飛び乗り、運転手に行き先を叫ぶ。


 窓の外を流れていく深夜の東京の景色が、なぜかひどく冷たく、よそよそしく見えた。まるで、この街全体が、健一を拒絶しているかのように。


 マンションのエントランスに着き、震える手でキーをかざす。エレベーターが目的の階に到着するまでの時間が、永遠のように長く感じられた。


 二十階の廊下は、静まり返っている。真夜中のしじまが、健一の鼓動の音を際立たせた。


 自分の部屋のドアの前に立ち、健一は鍵を差し込んだ。カチャリ、と軽い金属音が響く。


 ドアを開けて、中に一歩足を踏み入れた、その瞬間。


 健一は、自分の目を疑った。


 玄関のたたきに、見慣れない一足の靴が、まるでそこが定位置であるかのように、無造作に脱ぎ捨てられていたのだ。


 それは、イタリア製の、磨き上げられた高級な革靴だった。


 優美な曲線を描く、ホールカットのデザイン。健一が雑誌でしか見たことのないような、一目で数十万円はするとわかる代物だ。


 自分の、履き古したビジネスシューズの隣に、それは王様のように鎮座していた。


 ……誰の?


 思考が停止する。頭の中で、けたたましい警報が鳴り響いていた。


 来客の予定など、あるはずがない。こんな、深夜に。


 雪の友人か? いや、彼女の友人に、こんな高級な靴を履く男はいない。いや、それ以前に、夜中だ。


 健一は息を殺し、靴を脱いで廊下へと上がった。


 リビングの明かりは消えている。静寂が、耳に痛いほどだった。その静けさが、かえって不吉な予感を募らせた。


 彼は、吸い寄せられるように、廊下の奥にある寝室へと向かった。一歩踏み出すたびに、心臓が、肋骨を叩き割るのではないかというほど、激しく鼓動する。


 寝室のドアは、わずかに開いていた。


 その隙間から、間接照明の微かな光が漏れ出ている。


 そして。


 光と共に、押し殺したような、声が聞こえてきた。


 甘く、熱っぽい、女の吐息。


 それに応えるような、低い男の唸り声。


 シーツが擦れ、ベッドが軋む、生々しい音。


 健一の足が、その場に縫い付けられたようになった。体中の血が、急速に冷えていく。


 時間が、引き伸ばされていく。数秒が、永遠のように感じられた。


 自分の呼吸の音さえ、聞こえなくなった。ただ、心臓の、破裂しそうな鼓動だけが、耳の中で反響していた。


 嘘だ。


 何かの、間違いだ。


 テレビの音か? 映画か? いや、そんなはずはない。


 だが、その声は、紛れもなく、毎日隣で聞いてきた妻の声だった。


 震える手で、ドアノブに触れる。


 冷たい金属の感触が、この出来事が悪夢ではないことを、無情にも告げていた。


 彼は、ゆっくりと、音を立てないように、ドアを押し開いた。


 そして、見てしまった。


 信じがたい、信じたくない光景が、彼の網膜に焼き付いた。


 キングサイズのベッドの上で、二つの体が絡み合っていた。


 下になっているのは、妻の雪だった。


 彼女の白い肌は汗で濡れ、髪は乱れ、恍惚の表情を浮かべていた。その上に、見知らぬ男が覆いかぶさっている。


 男の背中は、広く、逞しかった。鍛え上げられた筋肉が、滑らかに動いている。


 その腕には、プラチナと思しき、宝飾の施された高級腕時計が鈍い光を放っていた。その光は、健一の目の前で、現実の残酷さを映し出すかのようだった。


 健一の視線は、腕時計から、男の顔へ、そして、妻の顔へと移った。


 雪の目は、熱に浮かされたように、とろりと潤んでいた。頬は紅潮し、唇は半開きになっている。


 そして彼女は、その男を見上げていた。


 健一が、この数年間、一度も見たことのないような、剥き出しの情欲と、恍惚に満ちた眼差しで。それは、まるで崇拝する神を見上げるような、絶対的な信頼と渇望を込めた目だった。


 部屋には、甘ったるい男物の香水の匂いと、生々しい汗の匂いが混じり合った、むせ返るような空気が充満していた。幸福なアロマの香りは、完全に消え失せていた。


 世界が、砕ける音がした。


 健一の中で、大切に築き上げてきたすべてのものが、ガラス細工のように、音を立てて粉々に砕け散っていく。


 完璧な家庭。


 純愛。


 光に満ちた未来。


 信頼。


 尊厳。


 ――ガタン。


 健一が持っていたカバンが、力なく手から滑り落ちた。床にぶつかる鈍い音が、静まり返った部屋に不自然に響き渡る。


 その音に、ベッドの上の二人が、ぴたりと動きを止めた。


 男が、ゆっくりと顔を上げる。


 そして、ドアの前に立つ健一の姿を、その目に捉えた。


 男の顔には、驚きの色も、狼狽の色もなかった。


 あったのは、冷たい、値踏みするような視線。そして、邪魔な虫けらを見つけたかのような、ほんのわずかな不快感だけだった。まるで、退屈な時間の中、不意に現れた障害物を前にしたかのような、無感情な視線。


 彼は、億劫そうに雪の体から離れると、何事もなかったかのようにベッドの脇に落ちていたシャツを拾い上げた。


 雪は、一瞬だけ目を見開いて健一を見たが、すぐに視線を逸らし、シーツで自分の裸体を隠した。その目には、健一への戸惑いも、申し訳なさも一切なかった。


 男は、悠然と服を着始めた。シャツのボタンを留める音さえ、健一の耳には挑発的に聞こえた。


 その間、健一は一言も発することができなかった。声が出なかった。ただ、目の前の光景が理解できず、立ち尽くすことしかできなかった。


 身支度を終えた男は、健一の横を通り過ぎようとした。


 すれ違いざま、彼は健一に侮蔑的な一瞥をくれると、鼻でフンと笑った。


 それは、アリを踏み潰す前の人間が浮かべるような、絶対的な優越感に満ちた表情だった。健一は、自分が彼の足元を這いずる、取るに足らない存在であると、有無を言わさずに理解させられた。


 男はそのまま廊下を歩き、玄関で自分の靴を履くと、ドアを開けて出て行った。


 バタン、と重いドアの閉まる音が、静まり返った部屋に響き渡る。その音は、健一の心に最後の楔を打ち込むかのようだった。


 嵐が、去った。


 寝室には、健一と、シーツにくるまった雪だけが残された。


 むせ返るような香水の残り香と、乱れたベッドだけが、さっきまでの出来事が現実だったと証明している。


「……ゆき」


 ようやく、健一はかすれた声を絞り出した。喉から絞り出すような、痛々しい声だった。


「どういう……ことだ……?」


 震える声で問いかける。


 謝ってほしかった。


 何かの間違いだったと、泣きながら言ってほしかった。


 許しを乞うて、縋り付いてほしかった。


 だが、雪から返ってきたのは、健一の期待を、そのささやかな望みさえも、根こそぎ打ち砕く言葉だった。


 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。


 その顔に浮かんでいたのは、後悔でも、罪悪感でも、恐怖でもなかった。


 ただ、冷え冷えとした、純粋な苛立ちだった。邪魔者を排除しようとするような、薄い感情だけが、その瞳の奥に宿っていた。


「……なんで、帰ってきたの?」


 感情の欠片もこもっていない、平坦な声。その声は、健一の耳には、冷酷な宣告のように響いた。


「会社にいるはずでしょ。プレゼンだって言ってたじゃない」


 その一言が、健一の心臓に突き刺さった、最後の、そして最も残酷な刃だった。


 彼女は、自分の不貞を責めるどころか、それを発見した健一の行動を、責めているのだ。


 健一の世界は、もう砕ける音さえしなかった。


 音もなく、ただ静かに、奈落の底へと崩壊していった。

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