第一章 邂逅、のち、求婚 8

 女は、外套を纏っていた。夜の闇のような深い黒の鎧が橙色に照らされる。頭部の鎧はないが、口元には砂埃にくすんだ臙脂色のスカーフが幾重にも巻かれている。それをさらに覆うように長く伸びた黒髪の隙間から、氷のように冷たい眼が覗く。


 この女が放つ異様な雰囲気にエリクは気圧され、足が止まり、先ほどとは比べ物にならないほどの量の汗が額を流れる。命の危機が迫っていると考えるまでもないほど、体が訴えてくる。


「……貴様は何者だ?」


 ひりつくような、焼け付くような重圧を孕んだ言葉だった。


「何者でもいいんじゃないですか……僕たちはただの一般人ですよ」


 後退りをしたくなった。そのくらいの激しい恐怖心が押し寄せて来る。しかし、背後のアリシアを守らねばならない。エリクの身体には二つの圧力がかかる。


「嘘など無駄だ」


 女がそう言った瞬間、エリクの体は鳩尾への激しい痛みとともに背後の祭壇方向へ弾き飛ばされた。背後にあった祭壇の机を砕き体が叩きつけられた。……何が起こったのかさえ悟る暇もなく。


「皇帝陛下への供物を隠した者は死罪だ」


 女はエリクのいた場所に立っていた。そして、アリシアでさえ何が起こったか理解していないその間に、アリシアの首を右手で締め上げ、いとも簡単に持ち上げた。アリシアがもがき苦しむ声が教会に響き渡る。


「大人しくするがいい」


 全身を打ち付けられた激しい痛み。その痛みに霞む視界の中に、女に首を締め上げられるアリシアがいた。苦しそうに足がもがいており、喉を潰されかけてうめくような悲鳴をあげている。


 そんな状況であるのにも関わらず、意識が遠のいていく。助けなければという感情と相反する体への大きすぎる激しい痛みが意識を混濁させ、エリクの意識を暗闇の底へ引き摺り込もうとする。


「やめ……ろ……」


 それを打ち消すように、ほとんど動かない体に鞭を入れる。指ひとつ動かすだけでも巨岩を動かそうとしているかのように重い。それでも、なんとか立ちあがろうと試みる。


 アリシアを助けたい。その感情が、その体を地面から引き剥がす唯一の力であった。


「ほう……息があったか」


 しかし、女が圧倒的優位であることは変わりない。首を締め上げたままでスカーフの上の冷たい眼差しがエリクを見た。


「貴様はこれ以上何もできぬ。……黙って死ぬがいい」


 状況は絶望的であった。まともに戦っても勝てない相手であることが明白な上に、先ほど不意打ちを受けてうずくまっていた兵士たちもよろけながら立ち上がってきた。数だけでも四対一、逃げ場もない場所で包囲されている。体が言うことを聞いたとしても、嬲り殺されるのが関の山だ。


「あくまで抵抗するか。ならば選べ。女も貴様も死ぬか、貴様だけが死ぬか」


 そして女が言い放った。その言葉に嘘などないだろう。


 絶望的な状況が、エリクを追い詰めた。


 追い詰められたエリクに縋るものなどない。どう転んでも死ぬと、この状況がエリクに囁く。


 だが、どうしてもだ。


 どうしても、アリシアだけは助けたい。その想いだけは決して消えていなかった。身体中の激しい痛みの中にそれが確かにあった。


 そして、この絶望の淵でアリシアを守りたいと言う感情が育つにつれ、彼の中に眠っているエリクすら知らない力の奔流が、まるで麻袋を内側から膨大な圧力で膨らませて今にも破裂させるかのように、強く激しくなっていく。


 アリシアのもがく力が抜けていく。すでに限界が近い。締め上げられた喉の奥から搾り出した。囁くより小さな悲鳴のように。


「……た………すけ…………て…………」


 そして。その声が届いた時。


 ——エリクの底に眠る力が目覚める。

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