第一章 邂逅、のち、求婚 7
アンスラッジ市内中央方向へ走り、やがて体力のつきかかったエリクはカスガル地区の外れにある無人の教会へ辿り着き、礼拝堂の中へと入った。ここまでかなり長い距離を全速力で走ったエリクはすでに肩で息をするほどに疲労しており、これ以上は走れないと悟ると身を隠す場所としてここを選んだ。
夕闇もすでに夜の闇へと変わり、教会の中へ入ると真っ暗闇が広がっている。ここへやってきた二人の足音と吐息の音だけが暗闇の中に響いては消えていく。
エリクは眼前に、右の人差し指を突き立てた。その先端に、先ほどの火球よりも眩い光が灯された。それは火球と認識できないほど小さい光の塊であった。まるで豆粒ほどの太陽が指先に置かれているようでもあった。
その光に教会は照らし出された。
石造の無骨な柱や壁が礼拝堂を形作っていて、ところどころに翼竜を題材とした彫像が飾られている。天井には、翼竜が人を蹂躙していると思しき場面が描かれた天井画もある。祭壇を向いて座れる向きで並ぶいくつかの木製の長椅子があり、埃が積もっている様子もない。時間帯か、あるいはこの騒乱のためかここは無人となっているだけのようであった。
この教会は、リースラント王国周辺に古くから住む民が信仰する竜神教の教会であった。ミララ山脈に住まう翼竜を神とする信仰で、竜はこの世のありとあらゆる苦しみから人を救い行くべき道を示す、とされている。ここにある彫像の数々は竜神教の主神であるリンドヴルムを模ったものである。
エリクとアリシアは祭壇の前に設けられた司祭用の低い壇上に腰掛け、エリクはそこで指先の灯りを消し、再び真っ暗闇に包まれた。エリクの荒い息遣いが暗闇の中にこだまする。
「ここで少しの間、身を隠して休もう。アリシアは大丈夫?怪我はない?」
真っ暗闇の視界の効かない空間であったからアリシアの表情はわからないが、「はい」という相変わらず抑揚のない返事が返ってきた。確かにあれだけ走ったがアリシアはそこまで息が切れていると言った様子はない。むしろエリクの方が体を心配されかねないほどであった。
「さっきはほんとうに危なかった……よかったよ、無事で」
「……ありがとうございます……あの」
アリシアはお礼の後、申し訳なさそうな声色でエリクに尋ねた。
「ん? どうしたの?」
「……エ、エリク様……は、魔術が使えるんですか……?」
質問が頭の中を駆け巡るより前に、初めて名前を呼ばれて驚いたが、何より様付けなのが引っかかる。確かにご主人様とかは禁止ね、と伝えてはいたが微妙に外してきていた。
「エリク様って……エリクでいいよ。エリク様禁止ね」
「……エリ様……」
「一文字少なければいいわけじゃないよ?て、そんなことは置いといて」
アリシアが真剣に言ったかどうか定かではないが、エリクは質問について話し始めた。
「僕はなぜか、何の道具もなく声も出さずに魔術が使えるんだ。理由はわからないんだけど……昔からそう。鍛えたわけでもなんでもないんだ。
人に見られると不思議がられるし、どうしてって聞かれても答えられない。だからあまり人前では見せないようにしてたんだけど……今はアリシアをどうにかして守りたかったから、とっさにね」
この暗闇の中でエリクが疲労混じりに微笑んだのがアリシアには伝わらなかったが、優しく言うエリクの言葉に少しだけ安心感を覚えた。ここまでひたすら走ってどうにかして助けようとするエリクの意思が、今は肌で感じるほど伝わってくる。
しかし、それも次なる危機によってかき消されることになる。
アリシアの耳に、遠くから猛然と駆けてくる馬三頭分の蹄の音が微かに届いた。
このままでは状況が悪化するのが明らかだが、エリクは肩で息をするほど走り続けており、体力は限界が近い。気を失ってしまったりすればそれこそこの掠奪の餌食となる。それは避けなければならない。
「……エリ様……隠れましょう」
「え……どうしたの?」
「……敵が……きます」
まだエリクには蹄の音が聞こえていないようであった。しかしそうこうしているうちに蹄の音は大きくなり、やがて微かながらにエリクの耳にも届き始め、状況を理解するに至った。
エリクは先ほどの光を指先に僅かに灯した。月明かりよりも僅かに暗い程度にして、隠れられそうな場所を探す。薄明かりの中、二人が腰掛けていた祭壇の前の壇上に司祭が立つ小さな机があった。教会の入り口方向は完全に何かの板で覆われている。質素な作りの教会にはそれほど構造物もなく、ここ以外に隠れることは出来ないだろう。だんだん大きくなる蹄の音に追いやられるように、二人はその机の陰に身を潜める。
馬が教会の前で止まった。男たちの話す声が聞こえる。確実に味方ではないことが、彼らの話す内容で伝わってくる。
「旨味のない進軍なんてやってられねぇよな? どんだけ奪っても俺たちには何にも還元されねぇ。将軍はどうせ俺たちが奪ってきたもの独り占めしてるんだろ?」
「ないない。酒すら飲んでるかも怪しいぜあの将軍。金品の方が興味あるんじゃねえか?」
「普段は奪った金品でド派手に着飾ってるかもしんねぇぞ?だとしたら笑える」
「趣味悪すぎだろ。あんなのが貴族みたいに全身宝石ギラギラだったら笑うどころか恐ろしくて身震いしちまうね。将軍お得意の「実力」ってやつで奪ってきて着飾るってか?想像しただけで恐ろしくなっちまうぜ」
三人の男たちが、内容が完全に聞き取れるほどの大きな声で話している。その声が徐々に入り口に近づいてくる。彼らは侵攻軍の兵士のようであった。上官の悪態をつきながら彼らは扉を開ける。扉が軋みながら開いた。松明の火がはぜる音と共に、教会入口から橙色の光に照らされていく。彼らの足音ともに金属がすれあう音が響いていて、男たちは鎧を身に纏っていると教えているようであった。彼らは先ほどの騎士の仲間の兵士であると、エリクとアリシアは悟った。
エリクとアリシアは息を殺し、様子を伺う。唾を飲み込む音すら聞こえてしまいそうなほど静かな空間を緊張感が支配している。エリクのこめかみのあたりを一筋の汗が流れ落ちていく。
「こんなところに何かあんのかよ?」
「悪趣味だな、下等人種の教会の女でもさがして奴隷にでもするつもりか?」
「お前ら知らねぇのか?“竜の鱗”って相当高値で売れるらしいぞ?こっちの国じゃ竜の鱗が神様の落とし物とかなんとか言ってよ、教会に飾られてるんだってな」
「酒に合う珍味かなんかか?」
「バカ。そんなわけあるかよ。俺たちの国じゃ高値で取引されるんだよ。下手な金品より高い金で取引されてるらしい。が、将軍や師団長に見つかったら没収されんだ。俺たちで隠し持って国に帰ったら売るんだよ。俺たちで売った金を山分けして豪遊と洒落込もうぜ」
「そりゃあいい!大賛成だね!」
「たまんねぇな!女も酒もなんでもありの豪遊してぇな」
「最高だろ?じゃ、いっちょ探そうぜ」
その会話の後、彼らの足音は祭壇へ近づいてくる。
このままでは確実に見つかる。エリクはそう悟って、今にも口から飛び出しそうなほどの心臓の跳踊を感じながら、再び決意を決めた。
男たちが壇上に足をかけた刹那、エリクが叫んだ。
「アリシア!目を閉じて!」
天井を向けた人差し指の先から、閉じた瞼の暗闇さえ掻き消すほどの閃光が放たれた。
「うぉっ……?!目がっ!!ぐうあっ……!」
エリクの放った魔術、不意打ちの目眩しは男たちの視界を奪い取って白い光の中に飲み込んだ。男たちは松明を放り出し、もがくように目を押さえて倒れ込む。その隙をついて、二人は入口へ走り出した。教会出口へ一直線に走る。
しかし、その足は出口まであと半分というところで止まった。
扉が向こう側から開けられたからであった。蝶番を軋ませながら重い扉がゆっくりと開く。
男たちの落とした松明の薄明かりが、入り口に立つ女の姿を照らし出していた。
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